歴史の中で起きた出来事、神に敵対するもの、荒らす忌むべきものが行うこと。
人間が神の言葉を塗り替えて作った宗教〜ローマ教の歴史は、絶対に
知らないとならないものです。
なぜなら、神に対する偽証〜神が神の言葉を変えたという偽証と、
そして神の言葉が昇天以降変わったと、ペテロやパウロが、手紙、
書簡に書いているという、彼らに対する偽証の冤罪がクリスチャンの間でずっと語られ続けているからです。
使徒達は、神の教え=トラーを塗り替えるような、神に対する反逆行為などしません。
それをしたのはローマ帝国皇帝、西洋教父、司祭、教皇達です。
真実ではないことなのに、あたかも真実であると皆が信じて主張し続けている。
それは、聖書、神の言葉の真実ではなく、人間が作った宗教の教理
ローマ帝国の勅令、法律を、知らないまま復唱しているのです。
カトリックが、神の教えを変え、そして、モーセの五書を禁じ、
神の記念日を生きることを禁じ、シャバットを日曜日に変えたことは
彼らの宗教会議の議事録と、質疑応答の書にクリアーに記されているでしょう。
そして、ローマ教が何世紀にも渡り、宗教会議の中で作り上げて来た教理、神の言葉を退けて作り続けた教理などを調べて行くと、はっきり分かる事実があるのです。
神ではない人間が神の座に座り、神の権威を奪い取り、神の言葉を
人間が勝手に塗り替え、作り変え、曲げ、捏造された教え、腐敗した
神の言葉が宗教の教えとなり、それを人が神の教えだと強制的にやらされて来た歴史があるのです。
神は神の言葉に付け足し、差し引きし、そして、神が言われたこととは違うことを人間が勝手に主張し、又は神が伝えることとは別のことをして、神に近づくことを、神は厳重に警告しています。
前回ののシャバットのトラーの箇所は、レビ記9:1−11:47で
そこにはたくさんの教えが詰まった箇所です。神が定義する聖別を
教えている内容でもあります。
聖なる民〜その代表となる「祭司」とは、天の祭司、神の宮〜神の
家に住まう人、治める人はどのような生き方をするのかを、レビ記では詳しく教えているのです。
レビ記と呼ばれている箇所、その通りレビ族〜祭司達、そしてこの書
のヘブライ語のタイトルは、「ヴァイクラ」そして神が呼ぶ〜というタイトルがつけられているのです。それは、その書の冒頭に神が神の聖なる民、祭司達を呼び出して、神が人々に教えるべき教えを祭司達に伝えているからです。
異邦人の中に浸透している教えは、ローマ教の教皇が、神の権威を
人間教皇が持っているという思想を、プロテスタントも同じように
共有しているのです。
どう意味かというと、人間が神の言葉を変えて良い。人間の意見で
神の言葉を仕分けて、却下して良いという思想が浸透しているでしょう。
そして、それが昇天以降の神の新しい教え〜古い教えは廃れて、破棄されたからであると、聖書に書いてもない、根拠もない、ローマ教が
作った教え〜モーセの五書を実践することを禁じる!という教えが、神の教えであると勘違いしているからです。
注意深く神が人に伝えている言葉を読み、考えると分かって来ます。
神は神の子らに、神が言われた通りのやり方で、神に近づく、
人は神が言われた通りを生きることを教え続けているのです。
どうしてだと思いますか?神が全てを創造されて、神が創造物の
性質、生き方をデザインしたからです。
神が伝えるように、神が許可した範囲の中だけで、人は安全に生きられるからです。
でも、エデンの園の最初の人、アダムとハヴァのやったことでも分かる通り、人は神の言う通りになどしたくない、しなくても良い、違うことをしても良いという思考回路のパン種があるのです。
レビ記9章には、何が記されていますか?
福音の中心、イエシュアの贖い、救い、神の子らが新しくされている
事実、神の前に芳しい香りとして受け取られていること。
そして、神の前にどのように近づくのか、どのように修復するのか
どのように人々と和解するのか、どのようにコミュニテイで生きるのか、和解、修復、そして関係の修復、全てがこの中で教えられています。イエシュアそのものが教えられているのです。
神が天にある神の家〜実在する神の家、エデンの園を飛び出した
後、目に見えない神の家を、地上でそのまま反映する、神の家を
人に作らせました。
そこには、神の臨在〜神の言葉〜契約の箱が置かれたのです。
そして、神はその神のミシュカン〜神の臨在する場所を、神が言われた通り〜モーセが天の神の家を見せられたその通りに作るように
神がモーセに伝え、モーセは人々の神に言われた通りにそれを作るように伝えたのです。
神が言われた通り!寸法も、素材も全て、神が言われた通り!
これが、鍵です。神が言われた通りをする!そうしなければ、天に
ある神の家そっくりそのままの実態が地上に現れ出ることが出来ないからです。
地上で天をそのまま反映する場所〜神の臨在する特別な場所を神が
作らせたのです。
そうすると、クリスチャンは神は人が作ったものの中には住まわないという解説をしますが、そうであり、そうではないのです。
神は場所、時間に制限されませんが、神はどのような形でも自由自在に人々に現れ出ることが出来るのです。
だから、ロバの口を通して、ロバの声を通して神は神のメッセージを
人に語ったでしょう。イエシュアも地上の時間で、時と場所と肉体の中に制限されていたではないですか。
神が言われた通りにする!ということが、重要な鍵なのです。
しかも、この神の家の中で、神にどのように近づくのか、神が人に
教える教育ツールを備えているからです。
10章では、ミシュカンが稼働することになる時、このような事件が
起きました。
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。
アロンの子ら、アロンとは、レビ族の祭司の中で、唯一大祭司になることが出来る家系です。レビ族でも、アロンの家系ではなければ、
大祭司にならないのです。だから、バプテスマのヨハネは、大祭司の家系〜アロンの家系であるのです。
大祭司〜イエシュアの性質そのまま〜トラーを教え、生きる人として
とても重たい責任を負っている人です。
地上で、メルキゼデクの位に属する天の祭司〜イエシュアを代表するのが、レビ族のアロンの家系の男子です。
アロンの二人の息子、ナダブとアビフがやったことが記されています。ミシュカンが正式に稼働する時の儀式のことが記されています。
ミシュカンは、エデン、シナイ山、神との親しい関係に入ったことを
表しているものなのです。
ここで行われることは、とても真剣な場面です。
なぜ、アロンは黙していたのか。悲しみだけではなく、ずれたことを
しない、言わない為に、黙していたのかもしれません。
ナダブとアビフが、最初に神のミシュカンに入る特権を得ていたこと
レビ記10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、
汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
レビ記 10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
この日は、聖所が稼働する日、就任式でした。
エシュ ザラ〜異火を持って、至聖所に入り、死んだ。
神が伝える本当の礼拝、神への近づき方とは何か、神が拒絶することは何かを、はっきり教えているのです。
人間の手で作った、華々しい異火を、人の前にかざして、華々しい
皆の注目を浴びるショータイムのごとく入って行ったのでしょう。
センセーション、皆の注目を浴びる!
こんな感じです。メガチャーチで行われるショータイムがあります。礼拝なのですが、バンド、ライトがギラギラ、ピンクフロイドの
コンサートみたいな、そして、煙がシュワーと出てくるような
派手なショー。
別に何も悪いものではないのですが、人間が注目を浴びる中心になり
毎回このようなセンセーショナルなことをして、高揚感を得て礼拝をしたい。派手なショー。デイズニーランドのアトラクションのような派手なショーを、毎回しないとならないような感覚は、神が抜けているのです。大事なことが、抜けている。
こんなの本当の礼拝というのか。
それは人間が作ったものであり、そうではないと思います。
他にも色々あるでしょう。ライト、煙や、派手なステージではなく
桜がたくさんいて、癒しショーをする。嘘。人がバタバタ倒れたり
ゲラゲラ笑い出したり、狂気のサタみたいな、一体何をしているのか全く分からない、奇妙なステージがたくさんあります。
常に、神が中心!誰かが主役ではない。皆が同じ。
神が人に教えることを、神に聞く。イエシュアのトラー解説に人が
聞き入ったように、神が教えることを熱心に求めて聞いて、生きる。
歌うバンドが、説教者が、中心ではない。
神が全ての中心でなければ、礼拝の意味がなくなります。
もしかしたら、ナダブとアビフもミシュカン可動式の中心になり
神ではなく、自分たちが中心、注目の的になるという、ずれた意識でいたのかもしれません。
素晴らしい飾り、煙、ライトで歌うコンサートも一体誰が中心なのか
分からないようなものがあります。
そこに、有名ロックスターを入れ替えても、同じようにそれは継続する、何も変わらないまま、それが続くのでしょう。
礼拝の中心は、神であり、人ではないのです。
バンドでも説教者が、崇められることでもない。