人間の教えなのに神の教えと思い込まされている本当の理由と原因 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の教えが廃れたと、聖書に無い教えを本気で信じている人には、

神が教えていることなど、ほとんど響きません。伝わりません。

 

神が自分に直接言われている教えなのに、その警告も全部他人事

イスラエルだけの教えと思い違いしているから、直に警告されていても、神の言葉が神の言葉を捨てる人には全く通じなくなっているのです。

聖書に書いてあるのは何か、何が書いてないのか、神の教えの

本当のことなど知りたくもない場合は、混ぜ物の教え、姦淫の教えでも、キリストとと言っていれば良い、救われているから良いとそんな

考えしか浮かばないでしょう。キリスト〜聖書とは異なるローマ化したイエシュアは、聖書に記された本物とは違います。

 

それは異教徒上がりで、神の教え、言葉を理解していないから、

神の言葉を捨てること、神の教えに反すること、それが神の前にどれほど重い罪、おぞましい罪、ズレた生き方であり、神の教えを汚し、神のシャバットや祭り、記念日を汚すことが何なのかも、神の言葉を正しく理解していないから、無感覚でいられるのです。

 

正しいこと、聖書に書かれている通りを教えられていないという

教育の欠如は、神の言葉の識別力が養われない状態にとどまってしまい、人間が解説する聖書とは関係のない教えに惹かれて行ってしまうのです。

ユダヤ人に対する迫害、メシア信者たちへの迫害を、4世紀ローマ

皇帝が切り替えたのは、政治的理由なのです。

自分たちの宗教を自由に信仰して良い。大衆を取り込み、支配する。

コンスタンチヌス皇帝が、ローマ帝国を広く支配し、支持されるために宗教を容認したのですが、結局ローマ皇帝と司祭たちが作った

モーセの五書とは違う、太陽神〜大衆が4世紀に信じていた土着宗教〜ペーガン、異教神、人々に馴染みのある土着宗教の教え、シンボル、記念日に作り変えた人造宗教を作ったのです。

異教神の要素を色々混ぜて作り変えれば、簡単に受け入れられるからです。

姦淫の罪と神が伝える混ぜ物、偽造、偽物宗教を作って、それを

ローマ帝国下の国々に住む住民に強制的に行わせてしまったのです。

ローマ教はこれをずっとやったのです。クリスマス、イースター、

ハロウイン、バレンタインデー。異教神、異教の女神の祭りや記念日をローマ教の教えを意味付けし、作り変えて自分たち流にリニューアル。ずっとやっています。

ハロウインは、ヨーロッパにキリストを伝えるため、サムハインというケルト人の祭りを作り変えて、死者を拝む祭りから、ローマ教の

聖人を祭る記念日とし、そしてローマ教をヨーロッパに伝えるために

利用しようとして作った祭りです。

クリスマスも、異教神、冬至の祭り、サタナリア、その他、異教文化のランチキパーテイを、キリストの誕生日として作り変え祝うように

変えただけです。イースターも同じ。多産の女神、多産を祈願する

祭り、だから卵、うさぎ〜多産のシンボルなのです。

 

神の教えが変えられたのは、歴史の中で徐々に行われて行ったのです。なぜなら、異邦人の中にも異教神の教えに抵抗する人たちが

存在していたからです。

でも、妥協する人も大勢いた。しかも、個人個人が手元に聖書を

持たない時代であり、1世紀のユダヤ人のようにパウロのような教師にトラーを正しく紐解き教えてもらったり、相談する相手もいない。

ユダヤ人たちは、彼らの中で、しっかりトラーをガードして密かに

生きていた、この違いは大きいのです。

ユダヤ人は、神の教えを捨てて、きよくない動物を食し、神の

シャバットや祭りを汚し、聖別を破るような事に断固として抵抗したのです。これこそ隠れキリシタンです。

でも、考えたら分かりますが、勅令、法律で偽物の宗教を生きよ!

と言われたら、異邦人ならば、まあ、その中にキリストがちょっと

混じれば、嘘でもいいさ!と妥協出来たのでしょう。

だから、太陽神の日、日曜日を安息日として礼拝し、そのうちイースターやクリスマスが祝うようにされて、そしてマリアを女神として

拝み、死者を拝み、異教の神々のシンボル、偶像を拝み、教皇や司祭を通して、罪許されるのだと、どんどんどんどん、神の純粋な教え

イエシュアやパウロ、使徒達が教えて1世紀のユダヤ人が生きていた

トラー=婚姻契約から遠く離れた、人間の作った宗教の教えに異邦人が移行して行った経緯をはっきり知る必要があります。

神が神の言葉や記念日を変えたのではない。ローマ帝国、皇帝、教皇が変えたという事実を直視して、知ってください。

ローマ教皇の勅令は神の言葉だ!と言われれば、誰も逆らえなかったのです。

クリスチャンの中にも、牧師の言う事は神のお告げ、言葉、絶対と

教えられている人もいるでしょう。牧師の考え、意見に反対できない。同じ事なのです。規模が違うだけで。

 

でも、ローマ帝国下では、ヨーロッパの国王達さえ、教皇に従わなくてはならなかったのです。どれほどの影響力か、分かるでしょうか?

今でも、LGBTQ、同性婚祝福しますと亡くなった教皇が言って、

それを皆が受け入れる?プロテスタントも同じでしょう。

牧師たちが、今やLGBTQ容認、Okと言って、しかも人間の屁理屈の解説をしているけれど、直、真っ向から神の教えに反した事、罪を人に生きるよう伝えているのです。イエシュアを信じる人、しかも聖書を人に教えるはずの立場の教師が、そのような事を言うのです。

でもその大元は、神の言葉が廃れたというローマ帝国の勅令、教理を

土台とした砂の上の信仰だから、そうなるのです。

神の言葉の上ではない、人間の教えが信仰の土台になっているかです。神からの警告が、偽物、偽造の教えを信じる人の耳には届かなくなるのです。

コンスタンチヌス皇帝は321年では、由緒ある太陽神の日、日曜日を休日とし、商売を休み、そして礼拝日とすると政治的理由が最初の目的でした。

これ、クリスチャンは、神が日曜日に昇天を記念してその日を安息日としたと、聖書にない事を、聖書だと本気で信じて実践している

理由は、宗教の伝統!人の言い伝え、宗教が作った伝統の記念日、

先祖の言い伝えに、皆がこぞって賛同し実践し、そこに加わったからであり、その大元のズレ、どうして聖書とは違うのか、知らないだけなのです。

その日は、太陽神の日だけではなく、キリストの復活の日と自分たちが作った宗教の教えをその日を祝う理由の後付けをしたのです。

367年ラオデキヤ会議では、コンスタンチヌス王が言った、モーセの五書神の記念日を祝う事を禁じられた勅令が、再び法案として強調されました。

今度は直に、神のシャバットを祝うな!その日には労働せよ!と神が伝える事に真っ向から反する教えを、人間教皇がしたのです。

 

神は何と言われましたか?

創世記 2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

<神がこの世界を創造された証拠、宣言がシャバットなのです。>

 

出エジプト20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。

それで主は安息日を祝福して聖とされた。

31:14それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。

これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

<神の安息日を汚す〜殺されると厳しい事が書いてあります。

これを読んで、怒りの神〜今は恵の神だと誤解してはなりません。

神は人に、神が創造されたシャバットがどれ程神に取り、重要で

同じように人が神のシャバットを厳重に大事にし取り扱うかを

伝えているという事実に目を向けてください。

命に匹敵する重さのものを、人間は軽々しくも、勝手に変えている!

という事に、意識を向けてください。>

 

申命記 5:12安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。

5:14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。

<神の子ら、全てに与えられている印が「シャバット」なのです。

神との関係にある眼に見える印、婚姻指輪です。>

 
エレミヤ17:27しかし、もしあなたがたがわたしに聞き従わないで、安息日を聖別して守ることをせず、安息日に荷をたずさえてエルサレムの門にはいるならば、わたしは火をその門の中に燃やして、
エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす。その火は消えることがない』」。
エゼキエル23:38さらに彼らは、わたしに対してこのようにした。
すなわち、彼らは同じ日にわたしの聖所を汚し、わたしの安息日を
犯した。
 

44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわがトラーと定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。

マルコ2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

2:28それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。

ヘブル4:9こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
イエシュア〜神は日曜日を安息日としていない。神は日曜日を、
安息日に変えていない。祭りも永遠に祝われるもの。
こんなシンプルな事実、聖書、神の言葉で証明している、永遠に祝われる神のシャバットとアポイントメントの日を、ローマ皇帝は変えたのです。冒涜。ローマ帝国、皇帝、教皇、司祭そしてその他諸々
神の言葉に反する発言をして、人は神の教えと、神の創造、神の
記念日を汚し続けて来たのです。
 
神の記念日であるシャバットを汚し、祝うな!という勅令です。

全て預言されている、神に敵対するものの行為を、何世紀にも渡る

何度も繰り返されて行われた宗教会議で、神の教えに反する教理を

ローマ教皇、司祭たちが、作り続けた罪を理解しないとなりません。

 

6世紀になると教皇制度は単に霊的発言ではなく、政治的権威となり多くの民族、国々がこの教皇にひれ伏し拝むようなことをしするようになっていったのです。

教皇、イコール神の声であり、それに逆らうなどあり得ない。

ヨーロッパ諸国の王を含めて、誰もが教皇の言うことに聞き従ったのです。

神の真実な言葉が教えられていない暗黒時代、ユニバーサル教は、

神の教えを、彼らの編み出した教え、教理にすり替えて行きました。

一般人皆は沈黙し、宗教審判が生まれました。

ユニバーサル教が人々を迫害しました。

これからも、そのようなことが起きるでしょう。

ウエスタン ワッチマン セントルイス1908年12月24日に

記されています。

もちろん、ユニバーサル教は、そんな事などしていないと否定しています。議事録なども改竄されています。

人々は個人で自分の言語の聖書を所有することで、火の中に放り込まれ、処刑されました。

出エジプト20:8で神が命じた、第七日目のシャバットをガードし

祝う人を、異端者だと追求されました。

一体どちらが異端ですか?

聖書に基づき、クリアーな意識、頭脳で考えて下さい。

神の言葉に反する事、敵対する事が正義!と思わされているのは

サタンの嘘、ローマの勅令を信じてを食べているからです。

神の言葉、聖書にない教えや記念日を、人間が作り出したそれこそが、神の教えに反する異端の教えそのものであるのに、

悪を善、善を悪と言うと預言されたことと全く同じことです。キリスト、ジーザスと言っていれば何でもOkと勘違いしているでしょう。

 

クリスチャンはこう教えられているのです。

1)安息日はユダヤ人の為だけである。又は古い律法の教え。
 

2)昇天以降は、日にこだわる必要はない、

毎日を安息日とすれば良い 。このような考えをするのは、聖書

神の教え、言葉を正しく理解していないからなのです。

聖別とは、普通と特別な目的を分けていることであり、今も神の

定義した聖別は変わらないのです。

いつでも安息日なら、労働日はなくなります。神が伝え教えている

聖別の定義も消えます。何を言っているのか、全く分かっていないのです。

人は、神の教えに逆らい、否定し、塗り替えて、それぞれが思いつく

勝手な思想、神の前の冒涜を平気で言い続けても無感覚なのです。

神の言葉と、神の創造されたモアデイムは、人間が変えられない

変えてもそれは神の前に拒絶されるものなのです。

シャバット、祭りは、神がこの世界を創造された宣言、証拠であり

神が人との関係に入った永遠の印として与えられているものであることを、クリスチャンは全く理解しないまま、ローマ皇帝が作った

偽物を本物と思い込んでいるのです。

 

3)どの日が安息日か分らない。

神の時は神がガードし、残り民がずっとガードし続けているのです。

約束の地に入った時、6日の間空から降ったマナが止まったのです。

神が造られた「時」をガードする残りの民はずっと存在しているのです。神は神の時〜モアデイムを知るために、天の万象を創造されたのです。
4)安息日は出エジプトの記念日にすぎない。

神は神の子ら全員に、神との婚姻関係に入った印として、

シャバットを与えたと伝えているのです。人間が常に神の言葉、

教えを勝手に塗る変え続けて、神に違反する行為をしながら、神を

愛していると言う、冒涜だらけの矛盾発言をして、行動しているのです。神のシャバットを汚すことを、神がどれほど忌み嫌うと言われているのか、神の言葉を捨てる人には、微塵にも耳に頭脳に響かなく

なっているだけです。神の言葉を無視、否定し続けているから

自分に今語られている神の教えという正しい認識がないからです。
 

6)キリストの復活の記念として日曜日に礼拝すべきと言いますが、

一体聖書のどこに、神の仰せとしてそんな事が書いてありますか?

神の復活の日〜この日は、はっきり言っていつか不明なのです。

どの日に復活しようとも、それは神のシャバットに変更などと

されません。シャバットと復活の日は、関係のないものなのです。

神は日曜礼拝、クリスマス、イースターなど祝うように人に教えてなどいません!ローマ帝国皇帝が作った宗教の教えと、神の教え、

仰せを混同してはなりません!これらを祝え!とは、人間の命令、

ローマ帝国、教皇の勅令、法律なのです。

基本的な聖書の理解がない、ローマ帝国太陽神信仰皇帝の教えなのに、それが神の教えなどと騙されているのです。

嘘とまことを聖書から見分けるには、聖書に書かれている事を

正しく知らないと、その識別はできないのです。