パウロの手紙が、神の教え=トラー=モーセの五書が廃れて、神の
教えを排除、破棄した新しい教えをパウロが語っているなどと、
18世紀以上に渡り、異邦人クリスチャンの間で誤解されてきた、
パウロの手紙を、パウロが意図する通りの元通りの位置、立場、
内容〜神の言葉は永遠に固く立ち、廃れず、変わらない!ことを
土台にパウロが、語っている内容を、正しく検証し直します。
世界には、4万5千以上のプロテスタントの宗派があり、様々な人が
聖書を曲げて解説し続けて来ました。
その原因は、人間が神の言葉を100%土台にしない、人間の思想
モーセの五書は廃れた!という、神の教えに反した思想を土台とした
宗教が、4世紀以降出現したせいなのです。
聖書を誤解している原因は、100%「読者」側にあり、神の言葉に何一つ欠陥、問題は無い!ということ、神の言葉は神が伝える通り、神の性質と神の言葉は永遠に変化しない事、神が伝えた言葉〜事実だけに戻らないと、聖書と違う解説は次から次へと編み出されて続けてしまいます。
現実に世界にある、クリスチャンの群れは、衰退、崩壊、破壊、腐敗
が蔓延ってしまっているのです。
これは、ヨーロッパ、アメリカでは顕著な現象なのです。
ヨーロッパの教会は、博物館になり、レストランになり、そこから
人が消え去って行っているのです。
そして、不思議、奇跡、現象のアメリかのメガチャーチもリーダーが腐敗し、聖書とは違う教えを教えられ、人々は何を生きたら良いのか、トラーを教えられていないのです。
神の教えを捨てる結末とは、そのような方向に導かれてしまうのです。大事な事は、神の教えに根付いて、イエシュア=新しくされた人の実態を日々落ち着いて生きる事です。
同時に、どの時代も残りの民は、イザヤやエレミヤ、預言者たちが
警告した通り、神の教え=契約の命に戻り生きよ!という事を、
ガードし、伝え続けているのです。神の言葉に根付かないで生きよ!
とは、神から出た教えではなく、あのエデンの園の蛇の声、ささやき
誘惑である事を、はっきり聖書から知れば良いのです。
7章も、パウロが「わたし」という言葉を使って解説している時、
パウロが考えている罪の大元は、あのエデンの園の出来事なのです。
神の言葉を曲げ、退け、偽物の教えを聞いた結果〜罪の支配の法則の下に閉じ込められてしまったからです。
灯台は、光を放ち、正しい方向に、船を導きます。
灯台は、船を誤った方向に導きません。
軌道修正を灯台に促されているのは、船の方なのです。
人間の側で、神の言葉を曲げて、勘違いしている!
その軌道修正をすれば良いのです。
パウロはヘブライ人です。ヘブライ語で考えているのです。
福音書以降は、ギリシャ語で書かれたものですが、マタイなどは
ヘブライ語のものが発見されています。
ギリシャ語は、ヘブライ語の翻訳なのです。なぜなら聖書の著者は
全てユダヤ人、ヘブライ背景、ルカもヘブライの背景がある人だと
言われています。そうでなければ、トラーなど知っているわけがないからです。
元の言語は、ヘブライ語、ヘブライ人がヘブライ思想で聖書を書いているものなのです。
だから、福音書以降のギリシャ語を読むと、裏にある言語、思想が
ヘブライ語なので、ヘブライ語的表現のギリシャ語なのです。
第一言語が日本語である日本人が、英語で文章を書く、英語を話すのと同じことなのです。
日本語でしか表せない、わび、サビ、言葉のあやなど、英語やフランス語にできないのと同じなのです。
ノモス(ギリシャ語)律法(翻訳)という言葉は、多面的な別の事柄を指して使われる言葉です。
前回書いた通り、このノモス=律法という1つの言葉で、全然性質、意味の違う言葉に適用されてしまう、ギリシャ語なのです。
これが、翻訳だけを読み、情報に欠如して読む場合、福音書以降の
内容、特にパウロの手紙に記された内容を誤解して読んでいる原因なのです。
神の言葉(トラー)、罪と死の法則、物事の本質、性質、司法的な
法則、人間が編み出した戒律、etc etc 全く別の意味の言葉が、
1つの単語、ギリシャ語、ノモスで表されてしまっているのです。
そして、その翻訳をする時に、その内容から言葉の意味を変えなくてはならないのが、全て「律法」と訳されてしまっているので、
パウロが書いている言葉=ノモスを、内容、文脈から理解していない
場合、一括りに、「律法」イコール、モーセの五書=神の言葉などと、勘違いしているのです。
1世紀当時の人が、ギリシャ語を読んで、その言語の性質を知って
そして、神の言葉は永遠に廃らないという永遠の事実を理解している人ならば、今の世の中に蔓延しているような、律法(神の言葉、教え)は廃れた〜などという、人間の発想など生まれてこなかったのです。
パウロの手紙を、クリスチャンは完全に誤解して読んでいます。
神の言葉、モーセの五書、トラーが廃れた!という思想を土台にして、パウロの書いている内容を、モーセの五書が廃れたという思想を持つ人が翻訳した、翻訳聖書だけ、註解を読めば、それは勘違いしたニュアンスの訳、註解、解説は、たくさんあるからです。
でも、神の言葉は永遠に廃らない!とはっきりトラーを理解する人ならば、パウロの手紙は、所定位置通り、パウロの書いている意図通りに正しく読めます。
そして、パウロの読者〜ローマ、ガラテヤ、コリントなど、1世紀
当時の人達が置かれた状況や、その群れにあった諸問題、
当時の人たちの間にあった様々な教え、ユダヤ人の編み出した戒律、哲学、偽の教え、グノーシス主義、禁欲主義、その他様々、人間の
教え=哲学が蔓延していたこと。
そして、贖われ、救われた後も、想像に絶する不品行を生きていた
人たち〜コリントやローマも、不品行が蔓延っている腐敗した環境だったのです。それは神の教えに根付いて生きていないから、近親相姦や、同性愛、その他諸々、使徒15章に出てくる、神のトラー=
教えを理解しない異邦人と同じような問題があったのです。
1世紀当時のそれぞれの群れにあった状況、生活、文化環境を知らない場合には、空想で現代の自分の世界、キリスト教の教え、伝統、
儀式や記念日や礼拝式、聖餐式に照らし合わせて考えているから、
事実が曲がり、真実が見えなくなるのです。
そして1世紀当時の世界で使われている慣用句や言葉、例えばパウロが頻繁に使っている、「割礼」とは、アヴラハムの割礼のことではなく、ユダヤ人が編み出した、異邦人をユダヤ人にする為の改宗儀式につけた名前が、「割礼」という名なのです。
ややこしい1年以上もかかる、改宗儀式を通らないと、人は救われないなどと、そんなの聖書〜神の教えではないでしょう。
瞬時に許され瞬時にイエシュアに出会う体験をするからです。
だから、パウロは、神の前に義とされ神の国のメンバーになるための
改宗儀式『割礼」という儀式は、意味ない!そんなことしていなくても、異邦人も同様に神が内側に住まう、許しを与えられている、
天の共同相続人である!と言っているのです。
でも、パウロは、アヴラハムの割礼は今は無用などと、一言も言って
いません。パウロが、使徒15章でモーセの五書=トラーに反した
教えをしていると、巷で多大に疑われたのは、ユダヤ人の間で行われていた、異邦人に対する改宗儀式を、救われる為にするのは無用と
言っていたことを、誤解されていたことでもあるのです。
アヴラハムの割礼は、永遠の印、信仰義認の譲渡契約が永遠に真実である印です。
ユダヤ人の中にも、当時、異邦人が「接木された」「同じ羊の囲いに加えられた」天の共同相続人になったという意識が、本当に希薄、
なかったのです。でも、使徒15章のパリサイ派のイエシュア信者である長老達は、正しくトラーを理解していたから、異邦人も不品行
清掃動物を食する様な事をやめれば、交わりに加えますと、決断した
事が記されているでしょう。
このような箇所を、何が書いてあるのか読み取っていないのです。
異邦人は4つだけ、神の教えを守れば、後は神の教え〜トラーを生きなくて良い!などと、解説しているでしょう。
では、4つだけ守るといいながら、どうして今も清掃動物を食して良いと考えて実行し続けているのでしょうか?
不思議な思考回路である、勝手な読み込みと、気がついて下さい。
パウロは、モーセの五書のどの箇所も違反する事を人に教えていません。シャバットが日曜日に変更され、神のモアデイム今は祝わない。
清掃動物を今は食して良い、割礼は無意味なんて1度も教えていません。その証拠が、使徒21:21−23にあります。
パウロは、生涯、100%モーセの五書に忠実に教え、生きた!
と書いてあるのです。
注意しなくてはならないのは、パウロは「アヴラハムの割礼」は
今は無用、無効になりました!などと、決して言いません!
なぜなら、それは、神が与えた契約に対する永遠の「印」だからです。
それを知っている人たちは、男の子に生まれて8日目に割礼を授けることをするのです。知らない人は、異邦人、クリスチャンでも、
神の言葉が廃れたという人間の教えを信じているから、周りに聖書を正しく教えて生きているお手本がないから、分からなかっただけ、
知らないだけなのです。
神の教えを知る親がいない、親が神の永遠の仰せをやってくれないから、異邦人には割礼が無い。又はアメリカ人なら、たとえ神を信じていなくても、割礼を授けるのは、一般的な行為なのです。
それぞれが、考える領域があるのです。
でも、人が神の教えを行動しようと、しまいと、神の教え、契約の印は永遠であり、重要な意味があるものであり、同時に霊と体はぴったり1つなのです。
人はどんなことも、誰から強要されてするというのは、あり得ないことです。自分で神の教えを考えて、それを生きる選択をする、
それだけなのです。だから、契約〜神の教えは、命と死の選択が
与えられているのです。命〜神の教えを信じて、生きる。
死〜神の教えを無視して、生きない。
だから、生まれた時から、知らない間に割礼を受けているユダヤ人
その他は、幸いだとパウロが書いているでしょう。エン ノモス、
契約の中にいるだけで、様々に、守り、祝福のアドバンテージがあるからです。トラーを知る親を通して、祝福、恩恵を得ているからです。でも肉の割礼が、その人を救うわけではない、割礼があるから、自動的に神と出会うのではないのです。
このような違いを、識別、見極めて、神の言葉を正しく理解すれば
何を語っているのか見えてきます。
神の伝える教えは100%、神の創造された人間の性質にマッチした
生き方であり、人を守る、鎧兜であるのです。
ローマの群れでの議論でも、契約を受け取る民のアドバンテージが
書かれています。生まれた時から、トラーを知る親がいて、守られる、このアドバンテージがあるのです。神に出会うまで、幽閉されている。ガラテヤ3:23
ローマ7:4のノモス=律法とは、神の言葉、教え、トラーを指しているのではありません。
もしそうならば、神の教え=言葉=聖霊=イエシュアに対して死んだという意味不明な事になってしまいます。
そして、神のトラーは、永遠普遍の契約であり、神は人と、神の婚姻契約=トラーを土台に関係を結んでいるのに、もし、律法=トラー=
婚姻契約に対して死んだなら、全く意味不明な聖書に反する事に
なってしまう事に気がついて読んで下さい。
ローマ 7:4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、
キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。
それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
6章で語られている通り、7:4も「罪と死の支配の法則」に対して、
死んだとパウロは言っているのです。
私たちは罪、つまり「古い自分」或いは肉〜私たち自身の以前の性質の生き方、私たち自身以前の古い自分で培って学んで来た邪悪な性向罪の性質へ引っ張られる肉の誘惑に捕らわれていました。
死と罪の法則=ノモス=律法が、かつて私たちを支配していましたが、今や私たちは「私たちを捕らえていたものに対して死んだのです」(7:6)つまりイエシュアと共に、罪に対して死んだのです。
7:5 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
<イエシュアと共に死んだ以前の自分は、「死と罪の支配」による
罪の欲情〜と書いてあるのです。>
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によって
ではなく、新しい霊によって仕えているのである。
<律法から解放され〜と読んで、クリスチャンは100%神の教えから解放されたという間違った読み込みをしているのです。
そして、文字〜トラー=モーセの五書ではなく、霊に仕えていると
意味不明な納得をしているのです。
聖霊=言葉です。モーセの五書=トラー=婚姻契約=神の教えは
聖霊により書かれたのです。
内側に聖霊=イエシュアを得た人は、字面だけ、思想のうわべだけに仕えるのではなく、その文字で記された、命の本質=イエシュアの
性質を、内側に住まうイエシュア=聖霊により生きると書いてあるのです。
もし、神の言葉が無効になったというならば、今日、今聖書を読むのは、無用、無意味となります。
なぜなら、神の言葉はクリスチャンが考えるように分解できないものなのです。全部でシャローム=完全無欠、エハッドだからです。
人の体の臓器を自由自在に取り出して、正常に健康に生きれますか?
神の性質と、神の言葉の性質を、人造宗教の教えは、完全に誤解し
理解していません。人間は神の言葉を自由自在に、臓器を捨てるが
ごとく、目は右腕は、小腸は不要などと、切り離せないのと同じであることを、はっきり理解して下さい。神の言葉は遺伝子と同じ
ずっと1つで繋がって、臓器も全て揃って人の体が正常に働く、
機能する状態であるのと同じです。
宗教の教えの問題は、神の言葉を曲げる、付け足す、差し引く、
人間が神の教えを、変えてしまうこと!これが、神の伝える教えが
見えなくなっている大元、原因、元凶なのです。>
続く