ローマ6 7章 神の教えからの解放ではなく罪と死の支配からの解放を語っている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロが直接会ったことのないローマ人の群れ、ユダヤ人と異邦人の

混合ミックスの群れから、彼らの現状を伝えられて、その問題に対する、回答をしているのが、ローマ人の手紙です。

 

彼らの間に在った問題は、分裂、亀裂です。

ユダヤ人〜契約を全人類の代表として受け取り、頂いた肉の生まれのユダヤ人だから、彼らは何をしても優位、神に受け取られていると

考えていました。

そして、ユダヤ人が作った口伝律法〜モーセの五書、神の教えではない教えが無数にあり、異邦人は、ユダヤ人になる改宗儀式を受けていなければ、正式な神の国の一員ではない、下等、レベルの低い存在であるなどという、間違った意識を持っていた人たちがいたのです。

 

だから、契約を受け取る代表〜肉の生まれ、イコール、神の前に優遇えいこひいきされているのではない。

同じ神の教えの下に、日々の生き様は判定され、裁かれるのだと

書いてあります。

 

パウロが語る「義」は3つあります。

 

1)信仰義認の義。贖いの代価、救いを受けることは、誰も行いにより、受け取れない、神が一方的に与えた譲渡契約である、神の義を

信仰により受け取るのは、どの人種、どの時代も同じです。

 

2)神が人を不当な状況から救い出す時に、神の義で裁きが行われます。これが、出エジプトでの、10の災い、エジプトからイスラエルと異邦人が救い出された裁き、神の義の執行です。

 

3)神に贖われて、救われた人は、神の提示する生き方〜義〜イエシュアの性質を生きる時、その人は、祝福、報酬を得るのです。

だから、行いのない信仰は死んでいる。

 

ヤコブ 2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

 

信仰義認と、人は神の義を生きて、神の前に正しい行いを認められる

報酬を受ける、この違いをはっきり区別して下さい。

神の前に罪を生きる、やりたい放題やる、神の教えを破り生きている

その人と、神の伝えた通り、イエシュアの性質を生きること、

大きな違いがあるのです。なんでもやりたい放題、そんなこと神は

人に教えてなどいません。人はその生き様で、神の前に正しく判定されることが待っていることを、忘れて生きているから、無造作に生きてしまうのです。神を畏れない人は、神の言うことなどに注意を払わない生き方をします。

ユダヤ人は、トラー=婚姻契約を受け取りながら、契約の中にある民と自覚しながら、罪、ズレを生きているとパウロが警告しているでしょう。義を生きないならば、その信仰は死んでいるのです。

信仰と、行動は1つのコインの裏表、同一なのです。

信じていること、それを行動、生き様で表す、これ2つが相反している、矛盾している、ズレていたらそれは偽物の信仰であり、死んだ

信仰なのです。

クリスチャンの世界では、信じるだけで良いんです、愛が大事などと

意味がはっきりしない、それらしく聞こえることを言いますが、

信じる〜それは、救い、贖いは受け取る以外にない!

信じた後〜神の教え=トラーを生きると、はっきり神がそう教えているでしょう。2つ別の内容を、一緒くたに混同して、正しく神の言われることを、理解していないのです。

契約の民である、ユダヤ人はこのような罪を行っていたことを、

パウロが叱責しているのです。

 

ローマ2:21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。

盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。

2:22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。

偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。

2:23 律法を誇としながら、自らはトラーに違反して、神を侮っているのか。

2:24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。

 

だから、トラーを持たない異邦人、無割礼の人の方が、、腹に書かれたトラー=本来の人間の性質を生きていると言ったのです。

 

信じるだけではダメなのです。画餅と同じです。信じるだけで良いというのは、新しく生まれ変わる、神のものとされること、イエシュアを通して神の元に戻る、その事実は、信じる以外にありません!

信じたらイエシュアの教え=トラーを生きる!とはっきり区別して下さい。信じた人、神のものとされた人は、神が提示する婚姻契約を生きてくださいと、神が伝えているのです。

神の教え=婚姻契約に記された生き方を捨てる人=呪い、祝福から

もれ、契約に伴う困難が襲う、神から遠く離れた距離、場所に行ってしまう、命〜神の教えを選ぶならば、神が与えた祝福をフルに喜び楽しみ、神との最も親しい関係の中に留まる。

 

信じた後は何してても良いなて、そんな無法は神は教えていません。

神は、混ぜ物の教え〜イスラエルの神が伝える事とは違うことを

生きることへの警告を、厳重にしているのです。

 

さて、パウロの書簡を読む上で、以前書いた、ノモス=律法という

言葉が、多様な意味、言葉、性質に対して語られていることを

はっきり知って下さい。

そして、神の言葉、教え=トラーを指して、ヘブライ語では「律法」などという言葉は1度も使われてなどいません!不適切な翻訳、

不適切で聖書とはズレた思想、そのような言葉や解説を聞いて、

聖書を読み続けるから、聖書とはズレた読み込みを続けてしまうのです。

ノモス(ギリシャ語)律法(翻訳)という1つの言葉を、パウロは

このような多彩な側面、内容に使っているのです。

 

1. 神のトラー(ローマ3:31;7:22-25; 8:7)

2.罪の法則(ローマ7:23-25)

3.罪と死の法則(ローマ8:2)

4.聖霊にある生き方の原理、本質(ローマ8:2)

5.信仰の原理、法則(ローマ3:27)

6.義の本質 原理(ローマ9:31)

7.キリストの教え(クリスチャンが言うキリストの律法)

(1コリント9:21)

 

ローマ6:14 なぜなら、あなたがたはノモスの下にあるのではなく、

恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

6:15 それでは、どうなのか。ノモスの下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。

この箇所は、前回書きましたが、律法の下にあるのではないとは、

罪と死の法則、罪に支配される、トラーに記された罪に縛られていない!とパウロが言っていることを、正しく理解してください。

神の教え=トラーの下にいないと言うならば、それは神が厳重警告する「無法」の下、神の教えを捨てている無法者、あなたを知らない!

とイエシュアが言われた、関係ない=婚姻契約の中にあなたは生きていないから、あなたを知らない=契約の中にある親しい関係ではありません!いうことになることをイエシュアが言っている事実を、

覚えておいたら良いのです。

夫を蔑ろにし、夫の言う事を無視する妻のことです。

 

パウロが語ることを、文脈、内容でもはっきり分かるでしょう。

イエシュアと共に死に、葬られて、復活=新しくされた人は、

トラーが教える「罪と死の法則の下」に縛られていません!と言っているのです。もし、人が罪を犯すならば、その場合、死んだ人が、

罪を犯しているのであり、新しくされた人は、罪を犯せませんと言っているでしょう。記憶、思考回路、行動パターンは頭脳に染み付いているから、だから注意して、神の言葉に注意を向けて、ズレないように、幼子のように一歩一歩、神の教えに照らし合わせて生きよ!と

パウロも言っているのです。

 

ローマ 6:18 罪から解放され、義の僕となった。

 

6章の最後まで、パウロはずっと同じことを言っています。

新しくされた〜イエシュアの命を頂いた人は、罪から解放され、

罪と死の法則=ノモスの下にはいない、義の僕となったのだ!と言っています。

恵を無駄にするとは、神の贖いの代価で新しくされた事実を、

以前の肉の自分=イエシュアと共に死んだ自分のままで生きること

それが恵を無駄にする生き方なのです。それを、クリスチャンの世界では、神の教え=トラーを生きることは、恵を無駄にするのだなどという、意味不明なことを言っています。

それは、贖いの代価〜無償を、自分の努力で獲得する無意味な事は、神の恵に気がついていない、恵を無駄にするという意味でしょう。

言っていることの内容、項目に対する区別をはっきりつけないと

なりません。

あれと同じです。いつでも礼拝、いつの日も安息日、そのような思想は、2つ別の内容、側面を混同し、神が伝えている意味、聖別、聖別された日があることを、正しく聖書から知らないから、そのような

解説をしているのです。

主の性質をいつでも、24時間生きる。それは、神のトラーに記された性質を生きる以外に可能ではありません!それも、正しく理解しないとならない点です。そして、神は特別に聖別された呼び出し日、

アポイントメントの日、神の子らを神が全員呼び出している祝宴の日は、毎日ではありません!神の祝宴の日の暦があるでしょう。

レビ記23章。

聖別された日の神との祝宴、会見と、神への感謝、賛美、表現、祈り

それを礼拝などと訳していますが、その違いをはっきりと区別して下さい。

パウロが6章の後半で述べていることは、私達は、既にトラーに記されている「罪の法則の下」「罪の奴隷」、「罪の支配、縛りの下」

にいないと言っています。

7章以降も「罪と死のノモス、法則」の下にはいませんと、同じことを、他の類似した例をあげて、解説しているのです。

救われた人は、神の教え〜律法、トラーの下にはいませんという

クリスチャンの世界で解説されているパウロの手紙の内容は、

100%誤った読み込み、無理な解釈を施していながら、パウロの

書いている内容を正しく理解していないのです。

神の教えの下にいない?部分的にいる、自分の好みの教えだけを生きる?これらは全て人造宗教のスローガン、モーセの五書終わりありきの人間の思想を土台としているから、聖書とはズレるのです

 

ローマ 7:1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。

わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその

生きている期間だけ支配するものである。

<ここで、パウロは何を話しているのでしょうか?

パウロは、トラーに記された「罪と死の法則」に人が

生きている期間支配されていると言っているのです。

このような定義があり、パウロは次に解説を続けているのです。

 

7:2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法=ノモスによって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。

7:3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。

 

<パウロは、罪の支配の下にいたことと、婚姻関係についての類似を通して、解説しています。

夫が死ねば、その人は夫から解放されるから、他の人と結婚しても

淫婦とはならないと言っています。

パウロが言いた意味は、4節以降にあります。

詰まり、イエシュアと共に死んだ人は、罪の法則から解放されました。その人は、「罪と死の法則」の下に縛られていません。

なぜなら、古い人は、イエシュアと共に死んだ!死んだからです。

詰まり夫が死ねばとある通り、イエシュアの死を通して、私達は

「罪と死の法則」から解放されたと言っているのです。

6章でパウロが説明していることと、同じです。

このような箇所を、神の教えに対して死んだなどと、パウロが言ってもない矛盾した解説を、クリスチャンはしているのです。>

 

6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

 

続く