パウロが直接会ったことのないローマ人の群れ、ユダヤ人と異邦人の
混合ミックスの群れから、彼らの現状を伝えられて、その問題に対する、回答をしているのが、ローマ人の手紙です。
彼らの間に在った問題は、分裂、亀裂です。
ユダヤ人〜契約を全人類の代表として受け取り、頂いた肉の生まれのユダヤ人だから、彼らは何をしても優位、神に受け取られていると
考えていました。
そして、ユダヤ人が作った口伝律法〜モーセの五書、神の教えではない教えが無数にあり、異邦人は、ユダヤ人になる改宗儀式を受けていなければ、正式な神の国の一員ではない、下等、レベルの低い存在であるなどという、間違った意識を持っていた人たちがいたのです。
だから、契約を受け取る代表〜肉の生まれ、イコール、神の前に優遇えいこひいきされているのではない。
同じ神の教えの下に、日々の生き様は判定され、裁かれるのだと
書いてあります。
パウロが語る「義」は3つあります。
1)信仰義認の義。贖いの代価、救いを受けることは、誰も行いにより、受け取れない、神が一方的に与えた譲渡契約である、神の義を
信仰により受け取るのは、どの人種、どの時代も同じです。
2)神が人を不当な状況から救い出す時に、神の義で裁きが行われます。これが、出エジプトでの、10の災い、エジプトからイスラエルと異邦人が救い出された裁き、神の義の執行です。
3)神に贖われて、救われた人は、神の提示する生き方〜義〜イエシュアの性質を生きる時、その人は、祝福、報酬を得るのです。
だから、行いのない信仰は死んでいる。
ヤコブ 2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
信仰義認と、人は神の義を生きて、神の前に正しい行いを認められる
報酬を受ける、この違いをはっきり区別して下さい。
神の前に罪を生きる、やりたい放題やる、神の教えを破り生きている
その人と、神の伝えた通り、イエシュアの性質を生きること、
大きな違いがあるのです。なんでもやりたい放題、そんなこと神は
人に教えてなどいません。人はその生き様で、神の前に正しく判定されることが待っていることを、忘れて生きているから、無造作に生きてしまうのです。神を畏れない人は、神の言うことなどに注意を払わない生き方をします。
ユダヤ人は、トラー=婚姻契約を受け取りながら、契約の中にある民と自覚しながら、罪、ズレを生きているとパウロが警告しているでしょう。義を生きないならば、その信仰は死んでいるのです。
信仰と、行動は1つのコインの裏表、同一なのです。
信じていること、それを行動、生き様で表す、これ2つが相反している、矛盾している、ズレていたらそれは偽物の信仰であり、死んだ
信仰なのです。
クリスチャンの世界では、信じるだけで良いんです、愛が大事などと
意味がはっきりしない、それらしく聞こえることを言いますが、
信じる〜それは、救い、贖いは受け取る以外にない!
信じた後〜神の教え=トラーを生きると、はっきり神がそう教えているでしょう。2つ別の内容を、一緒くたに混同して、正しく神の言われることを、理解していないのです。
契約の民である、ユダヤ人はこのような罪を行っていたことを、
パウロが叱責しているのです。
ローマ2:21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。
盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
2:22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。
偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
2:23 律法を誇としながら、自らはトラーに違反して、神を侮っているのか。
2:24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
だから、トラーを持たない異邦人、無割礼の人の方が、、腹に書かれたトラー=本来の人間の性質を生きていると言ったのです。
信じるだけではダメなのです。画餅と同じです。信じるだけで良いというのは、新しく生まれ変わる、神のものとされること、イエシュアを通して神の元に戻る、その事実は、信じる以外にありません!
信じたらイエシュアの教え=トラーを生きる!とはっきり区別して下さい。信じた人、神のものとされた人は、神が提示する婚姻契約を生きてくださいと、神が伝えているのです。
神の教え=婚姻契約に記された生き方を捨てる人=呪い、祝福から
もれ、契約に伴う困難が襲う、神から遠く離れた距離、場所に行ってしまう、命〜神の教えを選ぶならば、神が与えた祝福をフルに喜び楽しみ、神との最も親しい関係の中に留まる。
信じた後は何してても良いなて、そんな無法は神は教えていません。
神は、混ぜ物の教え〜イスラエルの神が伝える事とは違うことを
生きることへの警告を、厳重にしているのです。
さて、パウロの書簡を読む上で、以前書いた、ノモス=律法という
言葉が、多様な意味、言葉、性質に対して語られていることを
はっきり知って下さい。
そして、神の言葉、教え=トラーを指して、ヘブライ語では「律法」などという言葉は1度も使われてなどいません!不適切な翻訳、
不適切で聖書とはズレた思想、そのような言葉や解説を聞いて、
聖書を読み続けるから、聖書とはズレた読み込みを続けてしまうのです。
ノモス(ギリシャ語)律法(翻訳)という1つの言葉を、パウロは
このような多彩な側面、内容に使っているのです。
1. 神のトラー(ローマ3:31;7:22-25; 8:7)
2.罪の法則(ローマ7:23-25)
3.罪と死の法則(ローマ8:2)
4.聖霊にある生き方の原理、本質(ローマ8:2)
5.信仰の原理、法則(ローマ3:27)
6.義の本質 原理(ローマ9:31)
7.キリストの教え(クリスチャンが言うキリストの律法)
(1コリント9:21)
ローマ6:14 なぜなら、あなたがたはノモスの下にあるのではなく、
恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
6:15 それでは、どうなのか。ノモスの下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
この箇所は、前回書きましたが、律法の下にあるのではないとは、
罪と死の法則、罪に支配される、トラーに記された罪に縛られていない!とパウロが言っていることを、正しく理解してください。
神の教え=トラーの下にいないと言うならば、それは神が厳重警告する「無法」の下、神の教えを捨てている無法者、あなたを知らない!
とイエシュアが言われた、関係ない=婚姻契約の中にあなたは生きていないから、あなたを知らない=契約の中にある親しい関係ではありません!いうことになることをイエシュアが言っている事実を、
覚えておいたら良いのです。
夫を蔑ろにし、夫の言う事を無視する妻のことです。
パウロが語ることを、文脈、内容でもはっきり分かるでしょう。
イエシュアと共に死に、葬られて、復活=新しくされた人は、
トラーが教える「罪と死の法則の下」に縛られていません!と言っているのです。もし、人が罪を犯すならば、その場合、死んだ人が、
罪を犯しているのであり、新しくされた人は、罪を犯せませんと言っているでしょう。記憶、思考回路、行動パターンは頭脳に染み付いているから、だから注意して、神の言葉に注意を向けて、ズレないように、幼子のように一歩一歩、神の教えに照らし合わせて生きよ!と
パウロも言っているのです。
ローマ 6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6章の最後まで、パウロはずっと同じことを言っています。
新しくされた〜イエシュアの命を頂いた人は、罪から解放され、
罪と死の法則=ノモスの下にはいない、義の僕となったのだ!と言っています。
恵を無駄にするとは、神の贖いの代価で新しくされた事実を、
以前の肉の自分=イエシュアと共に死んだ自分のままで生きること
それが恵を無駄にする生き方なのです。それを、クリスチャンの世界では、神の教え=トラーを生きることは、恵を無駄にするのだなどという、意味不明なことを言っています。
それは、贖いの代価〜無償を、自分の努力で獲得する無意味な事は、神の恵に気がついていない、恵を無駄にするという意味でしょう。
言っていることの内容、項目に対する区別をはっきりつけないと
なりません。
あれと同じです。いつでも礼拝、いつの日も安息日、そのような思想は、2つ別の内容、側面を混同し、神が伝えている意味、聖別、聖別された日があることを、正しく聖書から知らないから、そのような
解説をしているのです。
主の性質をいつでも、24時間生きる。それは、神のトラーに記された性質を生きる以外に可能ではありません!それも、正しく理解しないとならない点です。そして、神は特別に聖別された呼び出し日、
アポイントメントの日、神の子らを神が全員呼び出している祝宴の日は、毎日ではありません!神の祝宴の日の暦があるでしょう。
レビ記23章。
聖別された日の神との祝宴、会見と、神への感謝、賛美、表現、祈り
それを礼拝などと訳していますが、その違いをはっきりと区別して下さい。
パウロが6章の後半で述べていることは、私達は、既にトラーに記されている「罪の法則の下」「罪の奴隷」、「罪の支配、縛りの下」
にいないと言っています。
7章以降も「罪と死のノモス、法則」の下にはいませんと、同じことを、他の類似した例をあげて、解説しているのです。
救われた人は、神の教え〜律法、トラーの下にはいませんという
クリスチャンの世界で解説されているパウロの手紙の内容は、
100%誤った読み込み、無理な解釈を施していながら、パウロの
書いている内容を正しく理解していないのです。
神の教えの下にいない?部分的にいる、自分の好みの教えだけを生きる?これらは全て人造宗教のスローガン、モーセの五書終わりありきの人間の思想を土台としているから、聖書とはズレるのです。
ローマ 7:1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。
わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその
生きている期間だけ支配するものである。
<ここで、パウロは何を話しているのでしょうか?
パウロは、トラーに記された「罪と死の法則」に人が
生きている期間支配されていると言っているのです。
このような定義があり、パウロは次に解説を続けているのです。
7:2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法=ノモスによって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。
7:3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
<パウロは、罪の支配の下にいたことと、婚姻関係についての類似を通して、解説しています。
夫が死ねば、その人は夫から解放されるから、他の人と結婚しても
淫婦とはならないと言っています。
パウロが言いた意味は、4節以降にあります。
詰まり、イエシュアと共に死んだ人は、罪の法則から解放されました。その人は、「罪と死の法則」の下に縛られていません。
なぜなら、古い人は、イエシュアと共に死んだ!死んだからです。
詰まり夫が死ねばとある通り、イエシュアの死を通して、私達は
「罪と死の法則」から解放されたと言っているのです。
6章でパウロが説明していることと、同じです。
このような箇所を、神の教えに対して死んだなどと、パウロが言ってもない矛盾した解説を、クリスチャンはしているのです。>
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
続く