聖書を聖書で読み解き 聖書を聖書が伝える通りに生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ教とは、神の教え、トラーの教え以外に、人が解釈した口伝

律法が混じっているもの、それが宗教〜ユダヤ教です。

 

ユダヤ教は、クリスチャンのように神の言葉が変化する、人間が神の教え、言葉に手を加えて聖書に違う教えを記載したりしません。

一方、口伝律法〜口頭トラーと言われるものがあるのです。

口伝律法〜先祖の言い伝え、伝統の教え、戒めの律法と福音書以降で

言われているものです。イエシュアが抗議した、「手洗いの儀式」も

口伝律法の1つであり、「割礼」と名付けられた、1世紀当時、

異邦人はユダヤ人になる改宗儀式をしないと、神の国の正式な一員となれれないというのも、口伝律法であり、神の教えではありません。

 

モーセの五書が神の教えの全てが記されている完全版、文字で記され永遠の証拠である婚姻契約書として、モーセを通してイスラエルという全世界の代表民族へ、この契約が託され渡されました。

 

これが、文字で記された聖書なのです。聖書に聖書と書いてあれば

それは100%モーセの五書〜トラー=婚姻契約書のことです。

そして、預言書、諸書は、モーセの五書を解説している書なのです。

預言書〜神の契約=トラーの生き方に戻れ!と記されているのが

預言書の一番大きな目的です。

諸書は、トラーに記された神の知恵を実際にどう生きるのかの、解説なのです。

福音書以降に書かれている、神の教え=トラー=モーセの五書の教えと、口伝律法〜文字で記されていないユダヤ人の解釈したトラーの

解説と、別物であることを、はっきりと区別してください。

 

これは、同じように、ノモスというギリシャ語で訳されて、日本語では、律法と訳されていますが、ノモスという言葉は、パウロの手紙では少なくとも7つ別のことを話しているのです。

ノモスというギリシャ語で一括りにされ、それを律法という1つの

翻訳で訳されているから、元の言葉の意味、文脈、内容から何を

話しているのか識別できないまま読むと、神の教えと、人間の編み出した口伝律法の違いも分からないまま読んでしまうのです。

神の言葉も人の教えも、その他物事の本質や、罪の性質など一緒くたに、勘違いして読み込みしているのです。

それが、パウロの手紙を誤解する原因でもあります。

ノモス=律法とは、その他に、物事の本質、司法、法的なルール、

罪の支配の性質など違う意味の言葉が、1つの言葉=律法=ノモスで

括られているので、混乱と誤解が生じているのです。

 

そして、キリスト教も同じく宗教です。なぜなら、神の言葉、教えの

中に、聖書〜神の教えとは異なる、人の思想、教え、宗教が作った

儀式、人が作った記念日が混ぜられている、だから宗教なのです。

そして、ユダヤ教との大きな違いは、神の言葉〜聖書の土台、中心である、神の言葉、教え、契約が廃れたという聖書〜神の言葉が語る

永遠の真実とは真逆な人間の思想を土台としている宗教なのです。

 

聖書に書かれた1つ1つの教えの内容が理解できなくても、神の言葉は永遠に廃れない、神の言葉は変わらない、神の性質も変わらない、

贖い、救いの方法、福音は、永遠の中から同じで変わらないという

事実だけに立って聖書を読まないとならないのです。

 

今世界中は、軌道修正に動いています。

以前から起きていることですが、ヨーロッパのある国へ、今イスラエルの私の先生がセミナーに呼ばれて教えに行っている、その内容報告がありました。

大分前から、このようなことは、世界中で起きているのですが、

カトリックのグループが、レビ記23章に記された、神が創造された

記念日を学んでいるというものです。

これから4月は、過越の祭りが12日の日没から7日間ありますが、

過越の祭り、そして仮庵の祭り、仮庵を自分たちでどのように作るのか、とても素晴らしいアイデイアの数々が寄せられたそうです。

テレビ局、ラジオ局の人も参加して、多くの司祭も参加して、

大盛況の学びだそうですが、カトリックが、聖書に書いてある通りの

神の記念日を知ろう、学ぼう、やってみようなどというのは、

30年前には、聞いたこともない、考えれられもしないことでした。

 

人から出たものなら、自滅する〜消えるだろうと、ガマリエルが言われました。そして、こう言われたでしょう。

 

使徒5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも

知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、

 

と、パウロのトラーの教授であった、大ラビ、ガマリエルが言われた通りなのです。神から出たことを、人が妨害するならば、神を敵に

回すことになるとは、真実です。人から出た教えは、やがて自滅します。

何をしても許されるなどと考えていると分からなくなります。

ローマの手紙に書かれた通り、ユダヤ人もそれぞれの行い、生き方を

神のトラーで判定されるとある通りです。

神と共に神の国を建てあげる生き方をするのか、それとも神の教えの真実を知る妨害する、人間の教えを人に伝えて、神の邪魔をし神を

敵に回すのか?という問いがあるのです。そんなことしているつもりなど、ないのです。でも、どうして、神の言葉が廃れた!と信じて言い続け、そう行動し続けるのか、人間の作った教えを、神の言葉だと信じ込み、それが神の新しい教えだと勘違いしているからです。

聖書だけに戻り考え直さなくてはならないのです。

 

神は、信じた人に対して、今後は自分の意見で神の言葉を仕分けて

良い、生きても生きなくても良いなどという、神の権威を人に

渡すようないい加減な神ではあります。

そして今は神の記念日、祭り、シャバットはいつでも良い、別物の

人間が作った日に変えても良いなどと、1度も言ってなどいません。

その逆を、神は伝えています。

神が与えらた神の子らとしての印である、神のシャバット、新月、

祭り〜モアデイムは永遠に変わらない。

未来にイエシュアがエルサレムに戻り、エルサレムから世界を統治する日には、全世界が神の教えを生きて、神の記念日を生きるようになると、預言されているのです。どうして今の時代だけ、人間が作った宗教の教えや、人間の作った記念日を祝い、神の教えを人間の判断で破棄、処分、仕分け、そして神の創造された記念日を捨てて祝わないことをしているのか?その方が、不思議な現象であると、気がつけば良いのです。

 

人間が神の言葉を変え、神の言葉を捨て、神の記念日を変えた!

ダニエル7:25にある、メシアに反する力はこのようにすると

警告されているのです。

 

いつでも礼拝日だ、シャバットだと主張する場合、礼拝という言葉の意味と、神のモアデイムの意味、内容を正しく、区別して理解していないから、そのような主張をしているのです。神が聖別された日と、普通の日に区別があり、毎日神が神の子ら全員を呼び出している記念日ではない!という、シンプルで、基本中の基本の事実が、分ってないから、人の教えを編み出して、それらしく聞こえるけれど、神の

教えを曲げる教えをしているのです。

 

聖別された日〜神の記念日、アポイントメントの特別の日は、

レビ記23章に記されています。

それ以外の日は、普通の日であり、労働日です。

神と共に神の子ら全員が止まり、祝う日ではな、それが普通の日です。

神が光と闇を分けたように、神は区別〜聖別を教えています。

聖別を教えた最初は、神の記念日です。

神の聖別された日、モアデイム〜アポイントメントの日を司る為に

天の万象、月、星、太陽を造られたとあります。

神が時を創造され、神は神の特別に聖別された日を中心に、神の時

神の暦を創造されたのです。

人間は、それを変えることはできません。

 

生きることはキリスト〜メシア〜イエシュアの性質を24時間、毎日生きる!これが、アヴォダです。何をしていても、イエシュアの性質通りを生きる。そして、毎日がシャバット=安息日〜止まる日、

聖別された日ではありません。

この違いが分かりますか?

神は、週の中で第7日目だけを、聖別し、祝福されたのです。

どの日も神が造られた日ですが、どの日も神が聖別した記念日ではない!という、違いを理解しないとなりません。

毎日記念日であれば、区別、境界線がなくなるのです。

昼と夜の区別がないのと同じようになります。

神は、区別をしているのです。特別な日には、その特別な日の意味があり、その日に神は神の子らと共に会見し、特別な出会いをすると

約束されているのです。

 

毎日、毎秒、イエシュアの性質=トラーに記された性質通りを生きる。そして、イエシュアを通して、神に繋がり戻った人、イスラエルの神の大家族の一員とされた人は、神が呼び出している特別な記念日

婚姻指輪を掲げて、世界へ光として、神の性質の記念日を祝う!

この違いをはっきり区別すれば、良いのです。

人の生活でも毎日が記念日であるわけないでしょう!

特別な日の意味も、なくなり、準備することもできなくなります。

人間の教えに固執し、一生懸命になっているならば、人の教え

記念日ではなく、神の教え、神の用意された聖別された日を祝うことに戻り、神の教えに徹して、神が伝える通りを生きる!という、

軌道修正をする必要があるのです。

 

神の教えだ!と思ってやっていることが、実は人間創作の教えである

神の仰せでも、教えでもないということが、宗教の教えの中にたくさんあるのです。人が創作した宗教の教えや儀式、記念日と、神が

伝える教え、記念日、儀式との区別が聖書からできていないのです。

そして、問題なのは、神の教え、神の記念日を捨てている!それが

問題なのです。

誕生日を祝おうが、建国記念日を祝おうが、自由です。

そして、宗教が作った記念日の裏にある本物の主役は、異教の神々

異教の神々の慣わし、異教の神々のシンボル、異教の神々の儀式、

異教の神々の飾り〜異教神と融合し、混ざった記念日、だから問題なのです。

それこそ、高きところの礼拝、神は混ぜるな!と言われ、熱い〜

本物の神の教えか、冷たい〜異教の神々の教えにして!と言われました。区別がつくからです。

でも混ざり物は、よく分からない。小麦と片栗粉を混ぜたら、何がなんだか分からなくなる。それです。

生ぬるい〜混ぜ物〜イスラエルの神の教え、別物の教えを混ぜる

という意味です。吐き出そうと言われたのは、それはイスラエルの神に属さないものだからです。

 

パウロは、モーセの五書=トラーを1つも否定するような教えはしていないという、永遠の事実から、パウロの手紙を読んでください。

パウロがローマ6章で警告している内容は、明確に言うと、罪は単に外面的に、神の教え〜トラーを破ることだけではないということ。

罪は結局、人の心の中に先ず宿ります。

これ、よく分かる例があります。エデンの園のアダムとハヴァ。

神の言葉を神から直接聞いていたのに、蛇にそそのかされて、神の

言葉を疑ったでしょう!それです。

その罪〜ズレが、先ず人に頭脳、思想に入り込む、これが罪の始まりなのです。神の言われたこととは、違うことをする、罪の始まり

本来の生き方から、ズレる原因です。

もし、自分の頭で考えている内容が、ズレ、罪深いことだらけなら、外面的な行動は、一見従順のように見えても、それは決して真の従順ではありません。

一見、神が言われた通りを信じて生きているように見えると思います。でもこれは、イエスの時代の「白く塗った墓」と表現された、

表向きには、白いけれど、中身は毒蛇という例えと同じく、大きな

問題だったのです。

マタイ23:23−28でイエシュアが語られた言葉です。

ここに登場する人は、パリサイ派のある人々に対して、イエシュアが

警告しているのです。このような箇所を読んで、パリサイ派〜全員

悪者、偽善者などという、逸脱した読み込みをしてはなりません。

パウロのトラー教授であったガマリエルは、イスラエルの民全員に

尊敬されていたとあるでしょう。

そして、1世紀当時は殆どがパリサイ派なのです。

その群れの中には、色々な人物がいるのです。

あるクリスチャンのグループでも、ある人がひどい人でも、その群れの人全てが、悪者であるとはならないでしょう。

そのよう、逸脱した聖書の読み込みを捨てないとなりません。

パウロは、生涯亡くなるまで、パリサイ派に属していたのです。

そしてイエシュアを信じたユダヤ人の殆どがパリサイ派だった。

だから、パリサイ派の、イエシュア信者が後世にメシア、イエシュアを伝えた痕跡はあらゆるところに残されているのです。

その1つが、過越の祭りの晩餐でやる、儀式、子供に対して行われるゲームもその1つなのです。これは、過越の時に、又書きます。

 

とにかく、クリスチャンの世界では、偏見で語り継がれる聖書を

逸脱した教えや思想がたくさんあり、それら語り継がれた不真実な

教えが、聖書〜神の伝える教えの真実を知る妨害になってしまっているのです。

 

続く