ローマ5ー6章 パウロはトラーの様々な側面 要素を解説している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

 

デイスペンセーション神学〜人造宗教神学は、ユダヤ人と異邦人と

2つに分裂、分けた人間の思想です。でも、聖書には最初から、

人はエハッドとして造られた一体性が記されています。神がエハッドの性質であり、神の言葉もエハッドであり、そして神の性質通りに

造られた人間も、エハッドの性質なのです。

それを、人間の思想は神がデザインされた性質とは、真逆の解説を

し続けて、1つに修復することに反して、分裂させる思想を言い続けているのです。聖書に照らし合わせて、人の思想がいかに肉の発想であるのか、気が付けば良いのです。

 

書いてあるでしょう。たった一人の人、アダムから、全人類に罪、

死が入ったとあるではないですか。人は1体〜エハッドで1つとして

繋がっているから、全人類に同じ罪の影響が及んだのです。

水です。同じ水に、一滴でも毒を入れたら、その水全体が汚染される

それと同じです。水を分裂させられないのです。

神の言葉と真逆の思想を、異邦人の世界では言い続け、それが聖書であるなどと信じ込んでいますが、それは聖書〜神の教えなどでは

ありません。

しかも、アメリカで、ヘブライ語聖書をデイスペンセーション神学で読み解く教えを聞いたことがありますが、ユダヤ人は父なる神の花嫁で、異邦人はイエシュアの花嫁である!?ユダヤ人は地上を治め、

クリスチャンは天を治める?こんな、変な教えをされてヘブライ語聖書という人もいますから、自分で聖書の事実を確認し、人間が解いてる肉の思想と、聖書との区別、識別をする訓練が神の言葉に基づいて必要なのは、明らかです。

最後は、神の名=実態は1つ、天と地は1つになると預言されているのです。

ローマ5:13 というのは、トラー以前にも罪は世にあったが、

トラーがなければ、罪は罪として認められないのである。

 

神が定義する、「罪」の基準〜トラーを神に教えられなければ、

人は、神の前に何が罪なのか分からないままになるという事です。

人は神の性質に似せて造られていますから、人として、してはならない事は、腹に書かれているから、ある程度分かります。

人の道に外れた事、殺人や盗みや嘘、偽証、騙す、相手を傷つける

不親切、無視、不機嫌etc etc

又は、人がするべきことをしないことも、同じです。

このような事は、実際にやったら、自分も後から傷つき後悔するし、罪悪感を感じるから、ズレていると本能的に分かる事でもあります。

それが、2章にあったトラーのない異邦人〜彼ら自身の中にある

「良心」と呼ばれるもの、それらが異邦人のトラーであると書いてあります。

5:14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。

このアダムは、きたるべき者の型である。

5:15 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。

すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、

まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。

5:16 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。

5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。

5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。

<ずっと一体〜エハッドの性質が記されています。一人の人から、

全ての人に罪、死が入り込み、そして、一人の人〜イエシュアから

全ての人に対して、この死から贖い出される事実を与えられた。

だから、どの時代の人に対しても、贖い、救いの手段は1つしかない

事実が、はっきりと記されているのです。

太古は、ユダヤ人は動物のコルバンで義とされ、許されという、思想は聖書とは関係のない教えなのです。

目に見えないイエシュアの贖い救いの実態を、コルバンを通して表され、契約の民であるユダヤ人が教えられていたという事実を知れば

良いのです。福音は最初から同じ、最初から伝えられているものであり、2000年前にイエシュアが地上に来られて、初めて伝えられ、実現したのではないものなのです。永遠の中から存在している。>

 

5:20 トラーがはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。

しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

入り込んできたという表現は、否定的に聞こえます。このような

箇所を、反モーセの五書思想に持って行く解説、箇所になっていますが、実態にパウロは何を言っていますか?

神から何がズレ、罪なのか伝えられなければ、人は分かりません。

そして、罪とは、神の教えに対する違反を、罪というのです。

人は、罪が罪であると分かる、それなのに違反する、罪が増し加わっていくけれど、同時に神の恵み〜罪の許しも満ちたと書いてあるのです。ある人々は、罪が増し加わる〜トラーが悪いなどという、早合点をしていますが、悪いのは、神の教え、言葉ではなく、ズレをする

人間の方なのです。

神は神の創造された人の生き方、性質を伝えているだけであり、

それを変形することは、神は神の創造された人の生き方を曲げた教えをする!ということになります。

製造された製品の、マニュアルを、使用する人が分からないから

曲げる〜正常に使えない、神の言葉、教えが厳しすぎるから変更したなどという人間の考えを述べている神学思想は、それと同じ事を言っているのです。

灯台が間違っているのではなく、船の方がずれている!と理解しなくてはなりません。神の言葉、教えを否定的にばかり捉える思想を持つ人は、どこまでも神の教えの方を、悪者に仕立て上げているのです。

この思考回路、恵を捨てて、古い律法に戻る気か〜、神の言葉に反する思想は、本当に根深いのです。

トラー=婚姻契約そのものが、神の提示している恵なのに、人の思想その意識こそが、全くズレた意識、思想である事に気がついて下さい。

子供が、親の言う事を、厳しい、分からない、だから言う事聞かない!違反する!というのと同じ事を、言っているだけです。幼子は、

親の言うこと、意味が分からない。親は子供を守る為に、全て正しい事を伝えているのに、子供は、理解しようとしないので、親の言葉、教えが受け取れない、それをしているのです。

神の教えが、厳し過ぎて悪いのではない。それを違反する、人間が悪いという正しい理解に戻してください。神は神の創造された人は

〜〜を生きる性質に造り、〜〜〜を生きるようには造られていないと、シンプルな事実を、教えているだけなのです。

パソコンのマニュアルに書いてあるのは、それを制作した人が、

そのパソコンの機能、操作の全てを、教えている、それと同じです。

人の生きる全ての詳細、真実だけが、記されている〜それが、聖書

神の教え=トラー、婚姻契約なのです。

それに違反するという事は、本来の人間の性質、デザインに反する

生き方をするから、傷つく、破壊される、汚れる、病気になるetc etcたくさんの不具合が起きるのです。

そして、神の教えは、神を知らない人には、意味不明な教えをたくさんあるのです。道徳的な事だけが、神の家の家訓ではないからです。聖別に関する教えは、神の言葉を正しく理解しない人には、全く意味不明な教えにしか聞こえないものですが、神の言葉を理解する人には、はっきり理解できる、神の深い知恵の教えなのです。

聖別の定義をクリスチャンは知らないです。それは、神の教えが廃れたとして、神の教えを捨てているから、分からないのです。そして、罪の定義の詳細も知らない。それは神のトラーは廃れたという人間の教えを信じているから、神が伝える罪が何かも、イエシュアを信じているのに理解していません。

 

5:21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた

義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

 6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

 

この6:1-2はクリスチャンも同意するでしょう。

でもこれはどの箇所と繋がっていますか?5:20です。

聖書に記された罪の定義とは、神のトラーに違反することなのです。

それを忘れてはならないのです。トラーに違反しても良いと、今は

神の教えは終了したので、生きなくて良いと、クリスチャンは教えらています。それは、神に対して罪を犯しても良いという、別の表現をしている事なのです。

 

ここ迄のパウロの発言、主張を確認してみます。

パウロはなぜトラーを支持し、擁護していると言えるでしょうか?(3:31)。トラーを聖なる、正しい、良い(7:12)とこのように

パウロは言いながら、なぜ後になってトラーを否定することを言うと思っているのでしょうか?

ここでは、パウロは、トラーに聞いて生きるか、神の教えを否定するのは、人間の自由だと言っているのでしょうか?

鍵となるのは、パウロの言っている意味を理解することにあるのです。

パウロの「トラー」の生き方、トラーの側面、役割は1つの決まった内容だけではない、トラーに関する様々な要素を話しているのです。

それどころか、パウロは書きながらトラーの概念を構築し、様々に

発展させているのです。

 

パウロは、2:12で、律法の下と書いているのは、エン ノモス

「契約の中」という意味の言葉を使い、契約を与えられたユダヤ人のことを話しているのです。3章でも、エンノモス、契約の中にある民〜ユダヤ人のことを解説しています。

そして、契約の中にある民であるユダヤ人でさえも、神の契約に違反していることを、話しているのです。肉の生まれがユダヤ人だから

そして、行いをなにがしかやっているから、それだけで、Okではないという事を伝えているのです。

アヴラハムは、神のトラーを信じて、義とされた事を話しています。そして、5章では、トラーの別の側面は、人に対して、神が定義する罪は何かを知らせるものであると、言っているのです。

人は神の教え=トラーがなければ、正しく識別し、神の与えている

知恵が分からないままになるからです。

 

詩篇 19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

 19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。

これらを守れば、大いなる報いがある。

詩篇19でダビデは主のトラー、それらを、トラーに関連する様々な表現、「主の証し」「主の戒め」「主の命令」などと言っています。福音書以降にも、戒め、あかし、さとし、命令、知恵etc etc etc 

と書かれている全ては、神の教え=トラーに記された性質、教え、

内容を表現しているものなのです。

ダビデは、神の教えトーラーについて証言しているのです。

ダビデは、トラーは魂を生き返らせること、愚かな人を賢くすること、心を喜ばせること、目を開かせること、警告を与えること、

そして大きな報いを与えることなど、トーラーのさまざまな目的や

成果を挙げて解説しています。

もちろん、トラーを通して罪を知ることと、違反を増やすことが、

トラーの唯一の目的ではありません。

でも、パウロがローマ人への手紙のこの時点で、トラーの1つの性質側面に焦点を当てて、パウロは解説しているのです。

なぜなら、神との信頼関係やイエスによる贖罪の必要性に頼るより、

自分たちがユダヤ人としての肉による生まれの選びに頼る人々を

その意識がずれていると諭しているのが、パウロのここでの、

強調点だからです。

繰り返しますが、罪を指摘する事、それがトラーの唯一の目的では

ありません。ここで、分かるように、ガラテヤの手紙にも、トラーの色々な側面が記されています。

前にも解説した通り、「養育係の下にいない」と書かれた箇所を

信じた人は、律法の下〜養育係=トラーの下にいないなどという、

とんでもない勘違いをして、読み込みしている事を書きました。

神の言葉を捨てる!という思想は、鎧兜を捨てて、罪を平気で取り入れる無法〜トラーなしの罪であり、無防備状態になります。

ガラテヤ3:23-26の箇所では、「養育係の下にいない」とは、人が

神に出会う役割の側面がトラーにはあり、一旦人が、神と出会えば、

その養育係のお役目、神に出会う導きの側面の役目は終わると解説しているのも、同じなのです。神に出会った人は、神の言葉は無用などという、本当に無理な解釈を施しているのです。

何をパウロが言っているのか、はっきり知らない限り、空想の教え

神のトラーが廃れたという前提で、パウロの手紙を読んでいるから、

パウロの意図とは、地の果てまでズレて離れた間違った解説を

し続けてしまって、その間違いに気が付かず、律法は廃れた〜という

スローガンをクリスチャンは唱え続けて、神の言葉に敵対し続けている罪に気がつけないのです。

無法〜神の教え、トラー無し、罪〜神の教え=トラーに違反すること!これが聖書の罪の定義であり、これを覚えておいたら、神が伝える言葉の永遠普遍の真実が見えてきます。

 

続く