ローマ5章 ユダヤ人と異邦人は一体として繋がっている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの書いた手紙の内容が、多大に誤解された解説ばかりが、

クリスチャンの間ではされて来てしまっています。

聖書は、福音書以降に、最初の箇所の神の教え=トラーは、古く廃れて、終了になったので、別の新しい教え、新しい別の契約が、昇天

以降出現した!とクリスチャンは疑いなく、そのようなことが神学校で教えられています。

神学校でそのような人造神学を学んだ教師、牧師が、一般の人達に、神の教えは廃れたという教え続けて今日に至っているのです。

その思想は、1世紀後半に出現したローマ帝国の勅令〜反モーセの

五書思想、モーセの五書=トラーに記された教えを生きたら、処刑、

重税という勅令、これは紀元前160年代のギリシャ帝国の勅令と

全く同じであり、預言書、ダニエル書には、反キリストがこのような

ことを行うと、預言されているのが、その思想、勅令なのです。

 

反モーセの五書、古い律法は廃れたという思想は、異邦人の教えの

世界〜人造宗教の教えであって、聖書ではありません。

聖書を正しく読み取る人達には、それらの人造思想が聖書に基づき

辻褄が合わないことは、聖書からはっきり証明できるのです。

 

なぜなら、神の言葉の方が正しいからです。

神ご自身が、神の言葉は永遠に硬く立ち変わらない、神は永遠に変わらない、イエシュア=神は、昨日も今日も永遠に同じ!と言った

神の宣言の方が真実であり、人間が神の言葉を塗り替えた教えは

神の言葉に、真っ向から敵対、対抗している矛盾にしかすぎません。

 

そして、どうして、そのような思想、神学、宗教が2世紀以降出現し4世紀にはローマ帝国の国の宗教が皇帝により作られのか、そのような歴史の史実を、クリスチャンは、是非とも学ぶべきなのです。

 

パウロの手紙、ローマ人への手紙の内容も、完全に誤解されています。

それ以前に、クリスチャンの中で、「信じるだけで、良いんですよ」

後は、自分の意見で神の言葉を仕分けて良い〜直接その通りは言い

ませんが、結局、信じた後は、人間の側で神の言葉を仕分けて良いと

教えています。

前回も書いた通り、「義」とされるとは、3つ別のことを、パウロは

語っています。

 

1)信仰により義とされる〜 神の子とされること、これは人の努力

行い、神の言葉を実行したから、得られるものではない。

 

2)神の義で、正しい裁きをされ、人が不正、不義、不当から、

救い出されること

 

3)神が伝える義〜イエシュアの性質通りのトラーに記された生き方

婚姻契約を神の民が生きるならば、それは命を選ぶことであり、

その時に神から報酬〜祝福を与えられる。神が約束された祝福を

フルに楽しめる。喜び、楽しみ、神との親しい関係に留まれる。

 

この違いを理解しないとならないのです。

信仰義認に関しても、必ず行動が伴っているでしょう。

信じるということは、行動と直結しているのです。

エジプトで、子羊の血を鴨居に塗った人達は、神がモーセに伝えた

通りを、よく意味が分からなくても、神がそう言われたから、子羊を手に入れ、その子羊を言われた時に屠り、そしてその血を鴨居に

塗ったのです。

子羊の血を鴨居に塗った人達の中に、異邦人もいたのです。

だから、共に初子の死を逃れ、共に出エジプトし、イスラエルの12

部族の中に共に加えられ、イスラエルとして異邦人も数えられていたのです。分裂した家族ではない、12部族という1つのイスラエルの

大家族が誕生したのです。

羊は、エジプトでは嫌われる動物なのに、それを家の前まで連れてきて繋いで、子羊を屠る、この行動は勇気がいるでしょう。

ただ聞いただけで、行動しない、それは、初子の死を負ってしまうということ、だから神が言われたことを信じる信仰には、神が言われたことを、実行したという行動が伴っていたのです。

信じた後に、行動が伴う!!!この事実をはっきり理解して下さい。アヴラハムは神の言われたことを信じて、義とされた。その後に神が言われた通りに、割礼を受けたでしょう。神の言葉を実行した!

そして、アヴラハムも神から伝えられた同じトラーを理解して、

ガードし、神の教えを生きた!とはっきり書いてあります。

 

創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

 

信じたこと、イコール行動と結びついているのです。

最初は、信じて受け取る!!!その事と、実際に神の言われた事を

生きる!ということ、この2つをクリスチャンは完全に混同しているのです。

信じた後、神の教えを生きない人は、死んだ信仰です。

ましてや、神の言葉を捨てる行為は、神は、「無法」トラー無しと

教え、それが罪である!とはっきり言っているでしょう。

 

ローマ人の中にあった問題は、ユダヤ人と異邦人との間の分裂、

いさかい、争いです。ユダヤ人の選民意識〜契約を受け取っているから、有利、何してもOk、そして、異邦人は自分たちとは違い、契約の民ではない下等であり、その人達は、ユダヤ人になる改宗儀式をしていないならば、神の国の正式なメンバーではありませんと、勘違いした思考回路だったのです。

それは、ユダヤ人の中に、トラーとは別の、人間が編み出した

口頭トラー=口伝律法というものがあったからです。

それは、文字で書かれた婚姻契約=モーセの五書ではなく、ユダヤ人がトラーを違反しない為の、様々なルールを作り出して、その中には神の教えの本質から逸脱した厳しい「戒めの律法」「先祖の言い伝え」「伝統の教え」と福音書以降に記されている、人間の教えの、

掟ルールを作り出していたのです。

クリスチャンは、この口伝律法と、モーセの五書=トラーが一緒だと

勘違いして、区別しないで、福音書以降を読んでいるのです。

そして、ユダヤ人は、そのような教えを刷り込まれた為、異邦人に対するズレた意識を持っていたのです。今のクリスチャンと同じく、

神の古い教え〜律法は廃れた〜という人間の教えを刷り込まれたら、それが神の言葉、教えであると、完全に勘違いしているでしょう?

その思考回路と同じく、ユダヤ人も当時、ペテロでさえ、異邦人と

交わることを躊躇していたことが、記されているのです。

そして、ユダヤ人の中には、異邦人も、同じ天の国の共同相続人

神の婚姻契約の中に加えられた人たちである!という、理解が希薄

殆どなかったのです。

そのような下知識、情報を踏まえて、パウロがユダヤ人と異邦人が

分裂し、仲違い、間違った思考回路の人たちを正していること

それが、書かれていることを知ってください。

 

だからパウロは、4章で、契約の民であるユダヤ人は、神の前に何

1つ優位である事はない、神がユダヤ人を特別待遇、優遇をしているのではない、自分たちが行いで、義を獲得するのではない。

異邦人も、ユダヤ人も両方、神の恵により、アヴラハムに与えた契約、一方的譲渡契約を与えられて、神が言われたことを信じて、神の

民とされた、新しくされた、聖霊を受けたという事実を話しているのです。

新生体験、聖霊を受けて、義とされる事に関して、人種別の違いなどないからです。

誰一人、イエシュアを通して以外、誰も父のもとに来ることはできない!肉の生まれで、違いがあるのではないと、イエシュアも言われた

でしょう。

だから、クリスチャンの中で語られる、太古はユダヤ人は、動物の

生贄で仮の許しを与えられていたという、勘違いした聖書の読み込みをしてはならないのです。

動物のコルバンは、人の罪を消さない!とはっきり、書いてあるでしょう。

ミシュカン、神殿の祭壇に捧げられるコルバンは、仮の一時的な罪の許しを与えることが目的ではなく、神の家の中で教えられている

全て、それが、モーセの五書に書いてあるものですが、イエシュアの業、そして神の前にどのように人は近づくのか、そして、どのような状態が神の命と切り離されている状態なのか、修復の仕方、和解の仕方、様々なことを、その儀式を通して、五感を通して、神の家で

体験学習する事を、ミシュカン、神殿の中で教えられていたのです。

実体験型、天にある神の家の地上でのレプリカを与えられたのです。

だから、モーセの五書の中に記されたことを、ヘブライ語で書かれた通りの意味で教えられない、学ばないから、本当は何が聖書に書いてあるのか見えないのです。

イエシュアは、トラーの至る所に記されているからです。

それを、どの時代でも理解していた残りの民が、内側に聖霊を受けて、許しも贖いの代価も受け取り、生きて来たのです。

だから、アダムから始まり、アヴラハムもイエシュアを知って理解していた事が記されているのです。しかも、太古の人たちなど、直接

イエシュアと顔と顔を合わせて会って、対話していることまで、記されているではないですか。

時代ごとに福音が別、神の教えが変化するという、異邦人西洋宗教思想で、聖書を読むから、書いてあることが見えなくなるのです。

 

時系列上ではなく、永遠の中に全てが完結、完了している事実から

聖書を読むのです。「7」という数字がそれを表しているのです。

「7」完了、完結!それを、1に変えるから見えなくなるのです。

 

神は今は自由に人間の意見で、神の教えや記念日を変えて良いなどと

言ったとする、パウロの書いた内容を、完全に逸脱し、無理な解釈を施しているから人間が作った教えを生きて、神の言葉、教え、記念日を捨てても何も違和感がないままなのです。

 

でもそれは本当は、危険、イエシュアが伝えた「無法」を生きている

それに気がついていないだけなのです。

 

ローマ4章では、パウロは、選民意識を持っている、神の教え〜

トラー=婚姻契約を受け取った人たちの間違った意識を正している

内容でした。続いて、5−6章に行ってみます。

 

5章の最初に書いてあるのは、私達は、神が神の民を、永遠の中から

選び出している事実から話しているのです。

地上でイエシュアが処刑された事実、それは永遠の中に既に完結しているのです。

2000年前迄、イエシュアの贖い、救い、神のもとに戻る手段が

なかったという思想で読むと、聖書に書かれている内容は書いて

あっても事実が見えなくなります。

最初から、永遠の中から、神は贖いの代価を支払済みなのです。

エデンの園の、アダムとハヴァの神に対しての告白は、今の人たちと

全く同じです。罪を告白して、許され、義とされた!同じです。

だから、アダムとハヴァは神に罪を告白し、そして神が許しを与えて、彼らにご自分が屠った動物〜子羊の皮の衣〜義の衣を着せたのです。どうして子羊?そうです。アべルが、エデンの園を出て、直ぐに、解説、説明もなく、忽然と子羊のコルバンを神に捧げているで

しょう。それは、子羊は、二十四時間、神祭壇の上に燃やされ、

捧げられている、オラー〜立ち上るというコルバンなのです。

これが、イエシュアの贖いを、表している、目で見えるものなのです。それを、アベルは神に教えられて、知っていたのです。

そして、黙示録13:8にもある通りです。

 

「殺された小羊のいのちの書に、世の初めから名前が書き込まれていない人々は、こぞって、この悪い獣を礼拝しました。」

 

これは、日本語の翻訳では、正しく意味が表れていませんが、

「この世の創造の前から、屠られている子羊」と書かれているのです。

エペソ1:4みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

 

この世の創造の前から、屠られている子羊イエシュア〜だから、

創造が完了した事実、「7」シャバットで、神の創造物全て何も

欠けるものがない状態で完了した!と教えいるのです。それを1に

リセットして変えたら、意味不明になります!人間は、神の言葉を

変えること、それを許されていない、死に匹敵する罪であると、神が言われたことを、はっきりクリスチャンが知らないとならないのです。イエシュアを愛する人が、神の言葉を否定し、敵対するように

人に伝え合う!?一体何をさせられているのか、考えれば分かるで

しょう。エデンの園の蛇の声を、復唱し続けることは、やめないとならないのです。

ユダヤ人は、特別、選民意識を持つということは、ズレた思想であり

ユダヤ人は、契約を人類代表として受け取ったということは、

大家族の長男として、世界のどの民族よりも重たい責任を神から

負っているという自覚がなくてはならないのです。

神の教えを違反する、無法〜罪に対して、誰よりも重たい責任があるだけです。

 

 

続く