3月13日木曜日の日没から、昨日の日没が、2025年のアダルの月の
プリムの祭りでした。
昨日の日没から、今日の日没が、神が創造された、全ての神の子らを
神ご自身が呼び出している、聖別された日、週一度の神の呼び出し、
祝宴、会見の日、それが第7日目のシャバットです。
この日も、イスラエルでは、シュシャン プリムとして同時に祝っています。皆が集まり、祝うという楽しい記念日です。
メギラ朗読と言って、プリムの裏にある歴史の史実は、エステル記に
記されているので、エステル記を読みます。
メギラとは、ヘブライ語で、巻物、書という意味があるものです。
過越の祭りには、様々な関連箇所を読みますが、雅歌の書を丸ごと
読みます。イスラエルの神が、過越でイスラエル民を娶ったという
意味からです。
仮庵の祭りには、コヘレトの書を読みます。
コヘレトの書(日本語タイトルは伝道者の書)主なテーマは、
世俗的な追求や楽しみの無益さと、人生のより深い意味の探求です。仮庵の祭りは、収穫祭、ハグ・ハ・アシフとしても知られています。収穫が終わり、作物が集められ、翌年のために貯蔵される時期です。自分の労働の成果を目の当たりにできる、大きな満足感を得られる
瞬間です。
コヘレトの書は、日常の成果は、つかの間で空虚なものであることを
思い起こさせ、私たちの満足感を揺さぶります。
創造主から離れて、私たちの本当の喜び、満足はない。
という事は、私達はこの世とは別の次元の世界に造られているという
事が分かります。天の現実の中に造られている。
収穫の終わりであっても、私たちは本当の意味での、人生の達成と
充実を求めなければならないことが記されています。
仮庵の祭自体も、この世での一時的な住居に住んでいるという戒めによって、このテーマを実証しているものです。
一時的〜移動式神殿、そして、約束の地に入った後の固定的神殿。
仮庵〜朽ちる肉体でも、イエシュアが仮庵、仮庵の中に住んで生きていることを教えているものなのです。そして、やがて朽ちない体を
与えられて、永遠にイエシュアと顔と顔を合わせて生きる日が来るのです。
昨日は、久々にユダヤ人のシナゴグで読まれる、ヘブライ語のエステル記を聞きに行きました。
ハマン、モルデガイ、エステル(ハダッサ)などの名が挙げられた時、それぞれに対して皆が雑音を発する読み方をする、面白い朗読です。皆が仮装をして、騒音を出すおもちゃなどが配られて、エステル記の朗読を聞きました。
ヘブライ語の朗読は、超特急読みでしたが、子供も時々朗読箇所を
任されていて、上手に読んでいて、可愛らしくとても楽しかったです。
小さかった子が、毎年どんどん成長していく様子が、分かります。
いつの日か、イエシュアが戻られたら未来、ユダヤ人も異邦人も
神の名〜実態は1つとなり、皆同じ主の元に1つの大家族として
イエシュアのもと、同じ教えを生きる日が来るんだなと思って、昨日はとても温かな気持ちで過ごせた日でした。
レビ記23章に記された神の創造された記念日の全ては、イエシュアご自身を表している記念日であり、神の業、完了を表す「7」が
神のモアデイムの中心テーマなのです。
全て「7」で、全世界の修復のサイクルを表しています。
7年ごとのシュミタ年〜負債が帳消しになる、負債のために労働していた主人の元から解放される、留まる選択も与えられる、農作業をしないで土地を休ませる、7年が7回を経て、全ての修復が来る。
土地も元の所有者へ、負債もゼロになり、最後全て、元の所有者、
主人の元に戻る。
そして、ヨベルの時が来てメシアの統治も表されているものなのです。全て、「7」が修復、元通りに戻るテーマなのです。
神の祭りも、全て「7」です。シャバット、7日目。
過越、7日間。仮庵、7日間。全て「7」です。
神の記念日〜モアデイムは、イエシュアの贖いの業、新しくされている復活の命の事実、神の聖なる花嫁とされたこと、そして、イエシュアの性質通りを生きて、地上の旅路を生きて、イエシュアが再臨され、統治される世、時代が来ること、福音の中核の全てを教えているものです。生きて学習し、神と特別な出会いが用意されている聖別された日なのです。
人間が作った宗教〜西洋宗教は、神の教えの方を退け、省き、
その代わりに人間が編み出した思想、神学、考え、シンボル、儀式
そして、神の記念日を人間が考えた記念日に、すり替えてしまった
ものなのです。
だから、聖書に書かれている事実が見えて来ないのです。
そして、パウロが書いた手紙の内容を誤解し、
使徒20:6-7には、日曜礼拝をしていることが書かれているなどと
西洋宗教の教えを考えて、空想して解説していますが、この箇所は、
シャバットを祝い続けている証拠が書かれている箇所なのです。
なぜなら、過越の祭り〜7日間の種無しパン、マッツアの祭りが
終わったとあるでしょう。除酵祭とは、過越から始まる7日間の
種無しパンの祭りのことだからです。
そして、ここの文章には、日という言葉はありません。
過越から7週間の、「穂を数える7週」の最初だろうと思います。
たとえこの時が、週の最初であっても、それは土曜日の日没であり
その時に、ユダヤ人も今でも集まります。そして、パンを割くとは
種無しパン〜過越の晩餐でする儀式ではありません。
除酵祭りが終わったとあるでしょう。種ありパンを、晩餐でさいただけです。西洋宗教の聖餐式は、過越の祭りの晩餐の儀式を変えてしまったものです。その儀式は日曜日にはしません。過越の祭りの晩餐でするものだからです。そして、諸外国では土曜日は労働日だから、
土曜の晩に集まっていたのです。それが、日曜礼拝に変わった証拠などというのは、それこそ、聖書に書かれてもいない意味を、無理な
逸脱した読み込みをしている!という警告にある通りなのです。
除酵祭〜過越の祭りを祝ったという意味は、神の祭り、記念日の全てを祝うという意味であり、神が創造された全ての祭りを一年に渡り、シャバットからシャバットへ、新月から新月へ、春の過ぎ越しの祭りから、秋の仮庵まで、全ての祭り神の呼び出している、モアデイムを祝っている!という証拠、意味である事を、クリスチャンには読み
取れていないのです。
そして、1コリント16:2も日曜礼拝献金の話であると空想していますが、シャバット=安息日には集金、ビジネスはしない!という神の
教えをパウロは理解しているのです。日曜日〜週のはじめは、シャバットではないから、それぞれの家でお金を取りわけておいてと、提案しているのです。空想でパウロの書いている意味を、読み込みし続けているのです。クリスチャンの日曜礼拝の席上献金を空想しているでしょう。聖書には日曜礼拝も存在しないし、安息日=シャバットで
献金を募るという罪を犯す人はいません。
そして、イエシュアが昇天された後、いつでも記念日、いつでも聖日などという解説をクリスチャンの間ではされていますが、
パウロは、ローマ14:1-6では、神の創造された記念日はいつでも良いなどと一言も言ってなどいません!
パウロは、14章では、普通の日のことを、パウロの意見で語って
いる内容なのです。当時の人々がやっていた断食〜これは神の教え、
トラーに記されている教えではありません。でもある人々は断食していたので、その日がいつが良いなどと討論しあっている。
神の教えではない事をやっている人の間で討論されていた、結局
どうでも良い事は、人の意見で決めれば良い!とパウロは言ってるだけです。
どうしてこの日が、レビ記23章の神の聖別された日のこと、
シャバットや祭りではないと分かりますか?2つ理由があります。
1つは、神の創造された記念日を、使徒は勝手に変えたり、終了したり、自分たちで別の日に作り替えたりしない!
そして、ここに書かれているギリシャ語でも、普通の日である証拠に
定冠詞がない、冠詞、普通の日のこととして書かれているからです。
言語、そして、書かれている内容を逸脱した、無理な空想の読み込み
解説がずっとクリスチャンの教えの中でされ続けています。
その理由は、何度も言う通り、人間の思想で、聖書を読み解いているから、誤解しているのです。頭の中に、神の記念日と神の教えは
変更された!という間違った偏見が最初から搭載されているから
その脳回路からだけ考えているから、パウロの手紙、聖書を正しく
読み取れないのです。
パウロは、神の言葉を人間が変更することは、「罪」であるとはっきり知って人に教えているのです。
野菜だけ食べていれば良いと考えていた人達は、もしかしてその肉〜きよい動物〜偶像に捧げた肉を食べるのを避けられると、信仰の浅い弱い人が考えていた、良心の呵責を負うならば食べない方が良いと
考えていた、それならば、野菜だけ食べてれば良いでしょう〜!
いつか、そんなのは、縛りの教えだと分かるからです。
神がきよい動物食べて良いとしたものは、きよいものであり、
異邦人の市場で売られていようが、偶像に捧げられていようが、
その肉は、汚れないからです。
神の教えではない事で、議論しては、相手を傷つける、人間の意見で、人間の間にある様々な事は、考えれば良いという事であり、神の記念日や教えを、人間の意見で仕分けて良い、いつもで良いなどと、パウロは決して言いません!なぜなら、神の領域位を人間が犯す、
汚すような行為は、反キリストの行いだからです。使徒であるパウロが、人に罪を犯してよい、神の記念日を汚す破る、無視して良いなどと言っていると考えているのは、聖書を正しく理解していないから、人間が作った宗教の教えに照らし合わせて、聖書を読み違えているからです。
神の教えや記念日を、人間が変える事は、天が許さない!罪!という事を、聖書からしっかり把握し理解していれば、神の教えとは違う
教え、罪、ズレを生きることから守られます。
神が人と関係を結んでいるその根拠、証拠は、神が提示された婚姻契約に基づきます。
これは、法的婚姻契約であり、神は永遠に変更しない内容なのです。
その婚姻契約は、異邦人に対しても同じなのです。異邦人用の別の
契約などは、ないからです。
全ての人〜異邦人も、同じイスラエルの神の婚姻契約に加えられたと
聖書には書いてあります。
イスラエルという大家族の代表、異邦人だったアヴラハムが突如として選ばれ、全民族の父となり、世界へ同じ祝福、福音を伝える役割を、アヴラハムを通して与えらたとあります。
その通り、アヴラハムの子孫を通して、世界へ神の婚姻契約、
トラー、恵、福音が伝えられたのです。
今週のパラシャ、トラーの箇所は、イスラエルが婚姻契約を受け取った直後に直ぐに契約を破り、3000人が滅びたとあります。
そして、神はこの同じ契約を、再更新された記録が書かれています。
出エジプト30:11ー34:35
新しい契約とは、同じ婚姻契約が再更新され続けて行くのです。
シナイ山で与えられた婚姻契約以外に与えられた契約はありません。その契約の中には、ノア、アヴラハムの契約が包括されたものです。
新しい契約とは、同じ婚姻契約〜トラーが、歴史の中でずっと再更新され続けて行くのです。
神との関係にある、婚姻契約をいただいた「印」として与えられたのが、第7日目のシャバットなのです。
婚姻指輪を与えられた。
目でみて分かる、表向きの印が、シャバットです。
神が与えたシャバット〜そして、神の聖別されたモアデイム〜記念日
祭りは、今日もこれから永遠に有効であり、神が、神の子ら全員を
呼び出されている日です。
聖書に記された神の教え、記念日で、異邦人には関係のない教えや、記念日はありません。
神の記念日は、クリスチャンの中で馴染みのないものです。
神の創造された永遠に祝われる「わたしの記念日」と神が伝えているのに、クリスチャンはそれを知りません。なぜ?はじめの愛〜神の教え〜トラーを捨てたからです。自分が捨てたのではなく、2世紀以降の教師達、ローマ帝国、ローマ皇帝が作った教えが、信仰の土台となってしまい、それが聖書であると勘違いしているからです。
ある人がこう言ったそうです。イスラエルから、私の先生である方がアメリカに居る姉に招かれて行き、ある時、過ぎ越しの祭りを
クリスチャンの教会でやったことがあったそうです。
そうしたら、その群れのパスターが、古い教えの祭りだから、今後は
2度と祝いませんと言ったそうです。
古い教えの祭り?これは、聖書に基づき正しい理解をしていないのです。
古い教え?神の教えは全部古い教え、トラーしかありません。
そして、新しい教えとは、人間が作った宗教、ローマ帝国が作った
人間の教え、宗教、人間が編み出した記念日、それが新しい教えであり、日曜礼拝、クリスマス、イースター、聖書にない、神の仰せではない記念日、それが新しい教えであり、聖書とは異なるものなのです。それらは人由来、人造であり、神から出た教えではありません。
この違いを知っていれば良いのです。一体誰の教えを生きているのか?人間が神の言葉、教えを変えて作った教え、記念日?
それとも神の本当の教え、記念日?世界は確実に、イエシュアの到来に向かって動いています。
この世界の修復は、神がされている業であり、人間の計画ではありません。
Shabbat Shalom