ローマ4章 表向きの印と内側の実態はぴったり1つ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書のどの箇所でも同じですが、神の言葉は変化していないという

神が伝える事実だけに立って、読み続けて下さい。

 

クリスチャンの世界で語られている思想、信仰の土台は、神の言葉が

変化したという人間が作った宗教の思想であり、聖書ではありません。神の言葉を曲げる思想を土台として、全てを解説しています。

 

だから、変化する神、変化する神の言葉、教えと言い続けているのでしょう!

神の性質は変化しない、神の言葉も変化しないと、神が伝えているのに、異邦人は真逆を解説しているのです。

特にパウロの書簡は、神の言葉、モーセの五書が廃れた教えが書かれている代表例にされてしまっています。

聖書学者であるM.テニー氏などが、使徒行伝はモーセの五書〜神の

教えが変化する過渡期だなどと、聖書とはとんでもなくズレた思想

意見を語っていますが、どんなに著名な学者でも、聖書では無い教えを語る場合、それは真実を語っているのではないので、神の言葉〜

神の言葉は永遠に固く立つと言われたその言葉に戻れば良いのです。

 

神の教えが変化する過渡期?であると言うならば、聖書に書かれた事が塗り替えられてしまうということを、言っているのです。

現にクリスチャンの世界では、聖書ではなく、神の言葉を塗り替えらえた、人の教えの解説になっているのです。

ローマ帝国宗教が、皇帝、教皇が、神の教えを塗り替えて解釈する

権利を与えられたと勝手に主張しているからです。

 

今や世界は様々にズレた教えで満ちています。

イスラエルに居る友人が、この間のシャバットで、今のアメリカの

クリスチャンの群れ、メガチャーチが性的スキャンダルや、金銭的

腐敗、そして多くの人が群れから離れ去るその崩壊は、全て神の教え=トラーを捨てていること!それが、本当の原因だと言っていましたが、それは聖書に書いてある警告そのものです。

イスラエルが破壊されたのは、神の教えから離れたこと、それは

異邦人へも同じことなのです。

 

人間が神の言葉、教えを変える。それが、預言書に記されている警告であり、神に反する、666〜神の教えを捨て去るものに賛同する

ことでもあるのです。

ユダヤ人の世界にも1世紀当時から、神の教えとはズレた解釈をする

口伝律法がありました。今でも、ヘブライ聖書と言いながら、実際は

ダービー、人間が作ったデイスペンセーション神学で聖書を解説するという、摩訶不思議な教えがあります。

なぜ、ヘブライ聖書を、人間の思想で読み解くような、色眼鏡で曲げてしまうのか?人の思想で聖書を読み解くなんてことはやめて、

聖書は聖書で読み解かないとならないのです。

神の言葉が変化するという思想は、聖書とは異なる思想であり、細かいことがまだ理解できなくても、この教えは異邦人には無関係、

終了、無用ということを主張する教えは、聖書では無いのです。

そして、今は神殿が存在しませんから、その中に入るに際しての

様々な教えは実際には実践されませんが、その中で教えられている

真理は不動なのです。

それは、神に近づくこと、神の性質からズレている状態を、神の家に

入る上での状態を通して、教えているからです。

 

ローマ4章も、パウロの解説の論点の中心は、人が義とされるのは、

神による譲渡契約〜アヴラハムに与えた信仰義認の契約に基づくものであり、人間がそれを行いで獲得できないということを、話しています。

 

ローマ4:3なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは

神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

 

信仰義認とは、このアヴラハムの当時の状況が分かると、より深く

意味が見えます。

年老いて、しかも人間的に不可能〜子供を得るということは、人間の

頭脳、目から見たら不可能でしょう。

でも、不可能なことを神は可能にできることを、教えているのです。

同様に、人が、神が与えた贖いの代価で、義〜新しい人を与えられるという、人間の目から見たら理解不能、不可能なことを、神は可能にしたという事を、信仰により受け取り信じる、それが信仰義認です。

 

人は自分自身を、救い出すことはできません。罪の代価を神に支払うこともできません。だから、神がそれを全て肩代わりした!

それを、パウロが話しているのです。

神がそう言われたから、神が言われた通りを信じる。

それが信仰義認です。

人間が、何かの行いをしたから、義とされた、聖霊を受けたのではない。シンプルな事実です。

そして、クリスチャンは、信じるだけで良いということを、多大に

勘違いしているのです。

義とされる、新しくされた人を受け取る、それは信じて受け取る以外にない、それだけなのに、信じた後も、神を信じるだけで、神の教えは生きなくて良いという、神が伝えることとはズレた思想を教えれらえているのです。

信じた人=新しくされた人=内側にイエシュアが住まう人は、

内側に住まわれるイエシュアの性質とは異なる生き方はしない、

イエシュアの性質とぴったりに生きる、それがトラーに記されているのです。神の教え=トラーを生きる!とずっと神は伝えているのに

信じた人は、古い教えを捨てて、聖霊により生きると言いますが、

聖霊=言葉=イエシュアは一枚岩なのです。

ズレた思想は、さらにズレた教えを編み出し、神が伝えてもいない

教えを作り出し続け、今や神の言葉を疑え!

LGBTQを擁護することは愛だ!などという牧師までいます。

愛とは、神がトラーに定義した生き方が、神が人に伝えている

アハヴァ〜愛なのです。愛が大事というならば、神が伝える愛の

生き方を、神の言葉、教えに基づいて知らないとならないのです。

自分定義の愛、空想は、神の言葉とは違うからです。

そんな神が伝える罪を容認、罪を生きても良いとするのは、神が伝える愛とは程遠い、人を破壊する行為なのです。

LGBTQは、人類を破壊する行為です。

神のデザインを曲げる生き方全て、ズレ、的外れであり、人を破壊に

導くのです。

 

4:5しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
 

この5節でに関して、この節を文脈から外して解釈する人は、

「ほら、ここには『働かない者』行いは関係ない!と書いてあると

言うでしょう。

つまり、「神の教え=トラーを生きる必要はない」と言っているでしょうと、クリスチャンは主張します。

しかし、もしこれが真実なら、パウロが前の章で言ったこと全てに

反することになります。パウロはそれこそ、言った事を翻す

一貫性のない頭がおかしい、分裂症の人になっていまいます。

 

パウロは前の章で、トラーに生きることは価値があり良いことであると明言し(3:1-8)トラーを覆すのではなく、むしろ守っている事をを明らかにしました。(3:31)

パウロの論点は、トラーを生きないことを許可するということでは

なく、義と認められることは、信仰によるだけで、義と認められるために神の教えをする、その目的で、神の教えを生きることは無意味、行いにより義、新しくされている事実、救いの事実は獲得できないし、そうすべきではないということを強調しているのです。

トラーを生きる目的がズレている!という話をしているのです。

神の言葉を生きるのは、義とされた人だから、義=イエシュアの性質通りを生きる!でも、義とされる、聖霊を受ける為に、新しい人を

得るために、神の前に行いをしても、その目的はズレていますから、

得られません!簡単な事実を、パウロは述べているだけなのです。

 

ローマ4:5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。

4:6 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、

4:7 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。

4:8 罪を主に認められない人は、さいわいである」。

 

さらに、詩篇32:1-2でのダビデの言葉の引用文では、「不法の行いが赦され、罪が覆われた」人は幸いであると書かれています。

聖書、罪の定義、不法とは、トラーを破るという意味なのです。

神の教えに違反すること、それが不法であり、罪なのです。

ではパウロは、これらの不法の行いや罪を犯しても良いと言っているのでしょうか?パウロがトラーに記された神の教え通り、「不法の行い」を「罪」と呼んでいるという事実は、トラーを破るのは良くないことをはっきりと示しています。

なぜなら、パウロは人に罪を犯すよう勧めたりはしないからです。

ローマ6:1-2でも、強調して述べています。むしろ、パウロは単に、

行いに基づいてではなく、神が義を与える例を示しているだけです。神は私たちが、たとえ罪を犯しても赦して下さいます。

神は私たちのトラー違反を私たちに不利に扱ったりはしません。

では、これはトラー=神の教えを破る許可なのでしょうか?

私たちはここでトラーに生きることを、勝手にやめる、選択する

自由を与えられているのでしょうか?絶対に違います。

神は、ずっと神の教えから離れるな!片時も忘れず、考え続けて

生きよ!と言われているでしょう。

その真逆を語るのは、神の教えではありません。

 

次にパウロは、アブラハムが割礼を受ける前に、神に義と認められた経緯を説明しています(9-12)。

これも又、アヴラハムがトラーを生きることによって(特に割礼をすることによって)義と認められたのではなく、義と認められたのも

アブラハムが何かしたから、義とされたのではなかったことを強調

するためです。

むしろ、アヴラハムは先ず信仰によって義と認められ、その後割礼を受けました。

これは、義と認められるのは信仰によるというパウロの主張と完全に一致しています。

これ、よく考えれば見えるでしょう。信じた、義とされた、だから

その結果として、神の言われる通りを行動をした!神が伝えた通り、割礼を受けたのです。

アヴラハムは、義とされる為に割礼を受けたのではない。神の言われたことを信じて、義とされたから、その結果行動〜割礼を受けたのです。肉に付ける印は、それ自体では、何も意味がありません。

クリスチャンの世界も同じ、洗礼したそれ自体、何も意味がありませ。

割礼が意味があるのは、神の言われたことを信じた!そして、

その後神が言われた通りを行動すること!だから意味があるのです。

印をつけたから、義とされたのではない、信じたからです。

でも信じた人は、その後神の言われた通りを実行する!これが全部伴う場合、生きた信仰になるのです。だから義とされる目的の為の行いは無意味、でも義とされた人は神の教え通りを生きる!この違いを

はっきり区別すれば、パウロが何を話しているのか、理解できます。

 

ローマ4:9 さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。

それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、

「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。

4:10 それでは、どういう場合にそう認められたのか。

割礼を受けてからか、それとも受ける前か。

割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。

4:11 そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、

無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、

4:12 かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。

 

言い換えれば、肉の割礼は、内なる信仰の外的な印です。

割礼の外的な印は、内なる決意と神への完全な信頼が伴わなければ

価値、意味がありません。パウロは割礼が間違っていると主張して

いるのではなく、神の約束への信仰と結びついて内側と外側の印が

一致していなければ、「割礼」は正当化できず、価値がないと主張しています。