贖われた人は神の義〜神の教え〜トラー生きるとパウロは教えている ローマ2章  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書〜黙示録を読む時に、覚えておかないとならない事は、

使徒が書いた書簡は、100%モーセの五書を指して話しているという事、モーセの五書を否定、終了、変更、破棄した教えなど1つも

使徒は書いていないという事実があるのです。

使徒〜シャリアフは、神が伝えたトラー通りを、正確に人に伝え、

教え、生きて、導く役割を与えられて神から送られた人という意味なのです。

その「使徒」〜シャリアフが、神の言葉、教え=トラー=モーセの

五書に反する神の教えとは異なる、新しい別の教えを伝えているという、異邦人創作の空想話〜西洋人が4世紀以降作った宗教の教えは、聖書には書いてはないものなのです。

聖書記者は、すべてユダヤ人です。ルカは異邦人と言われていますが

ルカはユダヤ人の背景のある出自だという形跡があるのです。

ルカは使徒15章にあるような、神のトラーを全く知らない異邦人

信者とは違うのです。そして、神は、ローマ3:2にあるように、

神の言葉をユダヤ人に託したという事実があるからです。

 

ローマ 2:24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。

 

パウロは、手紙の中で書いている神の教えは、すべてトラー=モーセの五書、そして24節のように、預言書、諸書を引用しています。

 

24節は、エゼキエルの箇所を引用しています。下矢印

 

エゼキエル 36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。

主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることは

あなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。

36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしが

あなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。

 

神の名=実態を汚すという意味はどういうことだと思いますか?

神の仰せ=トラーを破ることです。そして、混ぜ物の教え〜人間の

教え、異教神の礼拝、シンボル、礼拝をまぜ、高きところの礼拝をし

そして、神の記念日、シャバットや祭りを汚し、そして、異教徒と

同じように清掃動物、悪食、きよくない動物を食するetc etc

聖別を汚す、破る。

神の教えを破る、違反するように人に教える、それこそが「神の名が諸国の民の間で汚されている!」と神が警告していることであるのに、神の言葉は廃れた、以前の古い、昔の終わった教えという、人間の思想を信じる人には、今も同じ神の言葉、警告、罪の定義など理解されないままなのです。

神の言葉を捨てるとは、神ご自身、イエシュアを捨て、神が考えている深い思索が分からないままになるということだからです。

神の言葉は神の実態そのものです。言葉=神=イエシュア=聖霊と

聖書には書いてあるのです。その神の実態である、言葉を人間が曲げた、汚した。そして神の名=実態が聖なることを神が示す!と

言われているのです。神の言葉は、永遠普遍である!と神が言われることを、異邦人は途中で変化、終了したという神が警告していることをやり続けています。でも神は神の栄光、栄誉のために、神の名=

実態が人間のものとは違う=聖別された聖なるものであることを、

示す!と言わました。この警告が、響きますか?神の言葉を捨てる人には、全部神の言葉、警告は人ごと、関係ない教えとして頭上を

大事な教え、警告が素通りしていくのです。

神の名=実態=言葉、教えを汚すこと、神は神の言われたことが

永遠の真実である証明を、世界の中でされ続けているのです。

異邦人が唱えるような七変化の神、時代ごとに変化する神の業や

神の言葉とは、聖書とは異なる人の空想ファンタジー思想、肉の思想そのものであり、イスラエルの神の教え、言葉、聖書ではありません。>

 

2:25 もし、あなたがトラーを行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もしトラーを犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。

 

<はっきり書いてあります。割礼のあるもの〜生まれつきのユダヤ人でも、その人たちが神の教え=トラーをガードして生きていないならば、表向きの「印」アヴラハムへ与えた契約〜信仰義認、譲渡契約の印は、何も意味がありません!新しくされた人の実態〜イエシュアの性質=トラーを生きないならば、どんな表向きの印も飾りがあっても、その印だけでは、何も実態がない、意味がない。>

 

2:26 だから、もし無割礼の者がトラーの規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。

 

<パウロは、異邦人であり、ユダヤ人になる改宗儀式をしていない

異邦人、もちろん肉の割礼も無い人であっても、もしトラーを神の意図通りに生きているのなら、それは、ユダヤ人と同じ、聖霊が内側に住まう人の実態を生きているとみなされるではないかと言っているのです。なぜなら、口伝律法を信じていた、ユダヤ人は、改宗儀式

ユダヤ人にならない異邦人は蚊帳の外、2等クラスの低いレベルの人と見下した選民意識があったからです。

ここで、勘違いしてはならないのは、パウロの論点は、アヴラハムの割礼、それはもう大事ではない!割礼が意味ないなどと、微塵にも

語っていないことを忘れないで下さい。

 

大事なのは、新しくされた人の実態を生きていること!トラーを

生きていることが大事!、パウロは、はっきり言っているのです。

そして、アヴラハムの割礼は無効などと、パウロは一言も言っていません。クリスチャンの世界に置き換えれば、洗礼をしてようがしてまいが、もしその人が神の教え=トラーに沿った生き方をしているならば、その方が本物の神の子の性質、義を生きている!ということなのです。

これを、クリスチャンの中で言うならこういう事と同じです。

ジーザス信じて洗礼受けていますという人が、普通の人以下の生き方

神の性質、教えに反した生き方をしていたら、メシアに着く人と

言って、洗礼を受けていても、それはイエシュアの性質を実際には

生きていない、死んだ信仰ですねということと同じことを、パウロは言っているのです。>

 

2:27 かつ、生れながら無割礼の者であってトラーを全うする者は、

トラーの文字と割礼とを持ちながらトラーを犯しているあなたを、
さばくのである。
2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、
外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
 
<パウロは26−29節では、14-15節と同じことを、論じています。
神に選ばれて、トラーを代表として最初に与えられたユダヤ人でも
結局、神のトラーを生きている人の方が、神の義の実態を持って生きているということになると言っています。腹に記されたトラーを生きる異邦人の方が、トラーを受け取って文字として持っているだけで
その中身〜神の教え=トラーを生きていないユダヤ人ならば、
異邦人の方が、神の義の実態を表して生きていますよということです。神の教え=トラーを生きていないならば、目に見える「印」
割礼が肉についていても、それは実態が伴わないなら意味ないでしょうということです。
でも、パウロはアヴラハムの割礼は、無用、廃れた、するななどという事は一言も言っていません。このような箇所を読んで、クリスチャン極端に飛躍した解釈を施しているでしょう。パウロが割礼を禁じている!などと、言っているのがそれです。
神が与えた永遠の印、割礼は今も今日も有効であり、神の約束、保証が代々に渡り真実である証拠として与えられた、信仰義認の事実を
目に見える形で証明している「印」だからです。
 

パウロがここで話している事は、自分の贖い、救いの根拠を、遺伝子的にユダヤ人と生まれたという血筋、出自に依存しないで下さい!

と言っているのです。

神から、好意と祝福が受けたいならば、神が伝えた通り、神のトラー通りに生きないとならないと言っているのです。

当然でしょう?どうして、人は神の言われる教えが、嫌なのですか?

律法と呼び、律法に戻る気かと言い、しかも古い廃れた呪い、縛りの

律法と神の言葉に対して言い続けている。異常な曲がった意識です。

それは、肉〜以前の罪の性質〜自分勝手に自由にやりたい、誰かに

指示されたくない、自分の考えが中心という自己中の罪の支配がずっと潜んでいるから、神の教えに戻るな〜!などという、異邦人が作った馬鹿げた教えが当たり前のように横行し続けて皆がそれに聞き入りそれが神の教えなどと騙され続けているのです。

今の世の中の、偽情報と同じです。嘘を信じさせたい権威、そして

本当のことを隠して、人に正しい情報を伝えないマスゴミ、

そして神の教えを曲げている、その発信元の大元は、サタン〜

神の言葉の真実を覆い隠す、神に敵対するものの声なのです。

神の教えは、鎧兜、防御服、安全な囲いです。

人を安全に守るものです。

神が創造された人の性質を、人に伝えているのに、愚かな人造神学は

神の言葉に逆らう反メシア、神に敵対するもの声を、率先して

代弁しているのです。神の言葉に反する、イコール、イエシュアに

反する、聖霊に反している事をしている!と、どうして、神の言葉

聖書から気がつけないのか?それは、神の教えを捨てているから、

聖書に書いてある意味通りをユダヤ人たちのようには学ばない、

教えられていないから。パウロのような教師が身近にいないから。

聖書、神の言葉が廃れたと信じる人の教えばかりを聞いているから

聖書に何が書いてあるのか、分からないままになっているのです。

そして、神の言葉、罪の定義を捨てている、律法は廃れた〜という

サタンのスローガンを神の教えなどと勘違いしているからなのです。

聖書に書かれた罪の定義とは、神のトラーに違反する事であり、

人間が人間の領域を、乗り越えて神の領域に踏み込む事なのです。

それを、異邦人は理解しないまま、自由自在に神の言葉、教え=

聖書に敵対する教えを述べながら、一方で神のある教えには忠実で

ある、とても矛盾した考え、実践をしているのです。

 

パウロは読者にトラーを無視する許可を与えているどころか、救い

を得る目的ではなく、すでに自分の内側に受けた救いへの応答として、神のトラー=教えに聞いて生きることとの重要性を強調しているのです。

そうですよね。どうして、子羊の血の代価で贖われ、救われた人が

神の言葉を無視して生きる、生きよと神が教えるのか?又は人間主体

人間が中心で、自分の考え、それぞれの意見で神の言葉を無視して、自由に生きると神が教えるなど、これこそイエシュアも警告している無法を働くものの生き方なのです。

聖書に書いてもないことを信じることの方が、矛盾だらけで、非聖書的で、変です。

神は、聞いて生きよ!これを、従えと訳していますが、神の言葉を
聞いたら、聞いた人は神の言われた通りをするから、従うと訳されていますが、ヘブライ語では、聞いて、する。
シャマ(聞く) ヴ(そして)アサ(する)と神が何度も何度も、神の
子らに教えて伝えているのです。
今の世の中、日本の牧師までもが、神の言葉に真っ向から反することを教え、神が罪と定義することを人に推奨しています。
一体神の前に立つ日に、教師がどれほど厳しい裁き、刈り取る結末を
受けるのか、聖書に警告されていることを、受け止めていない態度で
いるのです。
神の言葉の方を疑え!LGBTQ〜神が創造された男女、この二つの性以外の生き方をして良い!トランプ大統領が、人は男女の性別しかない!と当たり前のことを宣言して、ブーイングを受けていましたが
今は世の終わりで、狂ったことを平気で堂々とする時代になったのです。余計なことを書いて、ブロックされると困るので、書きませんが
狂った大元は、全て神の言葉を曲げたこと!だから、イエシュアを信じる、真実な福音、聖書に書かれた本物の救い主を伝えようとするならば、人間が作った宗教の教えで塗り替えられたローマ化した、別の
メシア〜変化する神、変化する神の言葉、今はいつでも安息日、
人が選択して生きる自由があるなどという、聖書ではない教えを
伝えてしまっていることに、目が開かれないとならないのです。
古い律法と考える人は、ぜひ知ってください。
福音書以降に記されている内容は、モーセの五書の抜粋です。
そして、モーセの五書を解説する預言書、諸書の短い解説です。
全ての聖書記者は、モーセの五書=トラーを指して語っているのです。クリスチャンが言う古い呪いの縛りの厳しい律法を解説しているのです。神の言葉は、トラー=モーセの五書=婚姻契約=父の教え以外には無い!という永遠の真実に、聖書〜神の言葉の記述から
気がついてください。
 

申命記 5:1 さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。

 

 6:1 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。

6:2 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。

6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。

6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心=レヴ=頭脳に留め、

6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの

目の間に置いて覚えとし、

6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

 

続く