パウロの手紙をパウロが書いた意味通りに正しく読み直す ローマ2章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの手紙を読む上で、注意をしないとならない点があります。

 

(1)文脈:その章自体、書簡全体、そして聖書全体を含むそのつながり。

(2)歴史:著者と著者の聴衆、手紙を宛てた群れとの具体的な歴史。

(3)言語:著者が使用するギリシャ語-ヘブライ語-アラム語に関連する詳細を理解できること。

(4)地理:必ずしも常に必要ではありませんが、聖書を正しく理解する上で、大きな助けの情報になるものなのです。

地理、地形を通して、神は深い真理、教えを与えている事実があるからです。

(5)文化:著者と著者が宛てた群れの人々の、特定の文化、背景など。

 

これらの情報無しに、プラス文脈、内容から逸脱し、更にはモーセの

五書が廃れたという、ローマ帝国が出した勅令〜人間が決めて作った教えを、神の教えであると、その嘘を信じ込んでいる場合には、

パウロの書簡など、いとも簡単に、完全に誤解して読む事をしているのです。

 

そして、聖書翻訳の中には、モーセの五書が廃れたという思想を持つ人がした翻訳により、神の言葉ではなく、反モーセの五書思想の人間の思想が反映されて翻訳されてしまっていますから、その場合、

このようなことがされてしまっています。下矢印

 

1)原典言語には存在していない言葉や文章を、翻訳者が勝手に

聖書翻訳の文章に挿入して元の言語とは違う、ズレた翻訳をしている

 

2)創作した原典言語を正しく反映しない言葉を創作して使用している、例えば、教会という言葉は、聖書に無い完全な造語であり、

タナックには、同じ言葉〜カハール、ケヒラ(ギリシャ語 エクレシア)を、「群れ、会衆」と訳し、福音書以降は、同じ言葉〜カハールエクレシアを「教会」という違う言葉、聖書に無い造語で訳しているので、イエシュアが到来した後、別の群れ、グループが出現したという誤解、錯覚、勘違いの思想を人に植え込んでいるのです。

完全に、印象操作です。

そして、ノモス=律法とは、パウロの場合、少なくとも7種類別の

言葉、内容に関して、同じノモスというギリシャ語を使っています。

そして、ノモス(ギリシャ語)=律法という翻訳は、神の言葉、教え、婚姻契約〜トラーを指して使うべき翻訳ではない言葉で翻訳されているのです。

 

パウロの手紙は、モーセの五書、預言書、諸書を記した預言者の書

とは、異なる違う性質のものであり、それは「手紙」なのです。

それらは、1世紀当時の特定の群れの中で起きていた、諸問題に関する、パウロのトラーからの知恵の解決策、回答、提案、意見などが

記されているものです。神の群れは、神のトラーに基づいて、どの

ように、それぞれ直面している問題に対処するのかの、トラーからの知恵と、契約〜神の教えに根付く、実際の生き方をパウロがその特定の群れに伝授しているものなのです。

 

現代のメシアニック又はクリスチャンは、パウロが直接意図した聴衆受取人ではありませんでした。

なぜなら、パウロの手紙は、古代の特定の群れに宛てた手紙だからです。

預言者が書いたタナックは、特に「モーセの五書」は、イスラエルを代表として神が与えた、神の民〜異邦人でもイエシュアを通して贖われた人も含め、全ての神の子らの「契約書」であり、その中に、神が創造された、神の性質通りの本来の人が生きる全ての詳細が記されている、神の家の家訓、教え、神のインストラクションなのです

神は、神が提示した「契約」に基づき、人との関係を持っている事実を、はっきり知らないとなりません。神の提示した婚姻契約〜イスラエルの神の家の家訓、神の国の憲法、これから外れた生き方を、神は人に認めていないのです。

神の婚姻契約の中に記された教えは、時代を超えても何も変化しません。もちろん、古代のように現在の今の時代には、神殿はありませんから、神殿に入ることに関しての細かい教えは、実際には今していませんが、未来には同じです。そして、神の教えは、神の家族全体、

国家全体に対する教えですから、その中には、男性、女性、夫婦、

親、子供、コミュニテイ、職業別、雇い主、使用人、レビ族の祭司への教えなど、人の生きる上での細かい教えが記されています。

男性には、割礼がありますが、女性にはありません。でも、割礼は

聖別を教えるものであり、信仰義認の印でもあり、それは譲渡契約

信仰により無償で与えられるものであり、それは、剥奪される事は

ないのです。そして、この世の人と分たれている事を、教える聖別を

教えるもの、新しくされた人、様々な真理がその中で教えられているのです。

これは、レビ記に記された内容を、詳しく正しく学ばべば、そこで

教えられている神の教え、真理はイエシュアそのもの、福音の中核、新しくされた人の生き方そのものを教えているものであり、イエシュアの業、イエシュアの似姿に造られた人の性質、生き方、神との関わりかたの全てを教えていることであることが、分かります。

そして、古代には電気、水道など家庭の中にはありませんでした。

生活事情が違います。火を起こす、薪を集める、火を起こす作業をする重労働、水を汲みに行く、重労働です。それらの違いがあっても、神の伝える教える真理は永遠に変わりません。

そして、ヨシュア〜マラキは、モーセの五書を、イスラエルが辿った歴史を通して、同じ真理、教えを、詳しく解説している書なのです。

モーセの五書〜トラー=神の教えは、変わらないのです。

 

そして、パウロの手紙の中に書かれている問題は、例えばローマ人の手紙では、ローマ人=異国に住んでいたユダヤ人の群れ、そして

それに加えられた異邦人の群れの中で、実際に起きていた諸問題に

関すること対してパウロが解決策、対応、そしてパウロの見解、意見や知恵を、トラーの教えに基づいて、人に教えているものなのです。

パウロの手紙は、福音書以降、他の全ての書簡も、神の教え=モーセの五書=トラーを塗り替えるような教えや、別の神学などが書いて

あるものではないのです。

預言者が書いた聖書、モーセの五書=神の言葉が絶対であり、

永遠普遍だからです。

聖書と、聖書に書いてあれば、それらは全てタナックのみを指して

語っている事実を、念頭から絶対に外さない下さい。

 

1世紀当時の、ローマやガラテヤその他の群れの中にあった問題や

事情と、現代のそれぞれの群れの諸問題とは、全く違う問題を抱えている内容もあります。でも、直接の問題は違っても、神の教えの本質は、変わりませので、問題の内容は違っても、神の言葉の本質の適用は、パウロの書いた内容から、学ぶことが出来ます。

私たちは、パウロがローマ人のメシアニックの群れの読者に伝えた

情報で、神の教えの利益を同じように受け取れるのです。

聖書研究に関しては、他の全てのものと同様に、もともと私たちに

宛てられていない情報は、常に著者と著者の元の読者の視点から理解されなければなりません。

 

私達は、パウロが彼の手紙を21世紀のクリスチャン達に宛てていないことを認識しなければなりません。

これらのパウロの手紙が神の恵み、パウロのトラーに於ける知恵の

解説、適用が、何世紀にも渡り私たちに受け継がれたことに恩恵の

教えを受けているのです。

更に、私たちはこれらの古代の使徒達の手紙から、恩恵を受けているのです。

なぜなら、パウロの手紙の中に、特定の群れに宛てられた手紙の

内容の中に、神の言葉=メシアであるイエシュアの教えたトラーの

解説されて含まれているからです。さらに、私たちはローマ人への

手紙の研究を通して、この考え方を維持できます。

 

結論は、パウロは、神のトラーを塗り替える、神の教え、言葉を変える別の思想、神学は1つも述べていません。

パウロの手紙は、神学書、神学の論文などではありません。

契約、トラーに根付いて生きる、知恵をパウロはそれぞれの群れに

書いている、それぞれの群れに起きている問題の対処、トラーに基づき解決する方法、知恵を書いているのです。

 

残念ながら、多くのクリスチャン指導者は、パウロのローマ人への

手紙をある種の神学的な論文として扱ってしまっています。

どういう事かというと、パウロは単に、特定の群れに対する、彼らの間にあった問題の対処を、トラーの知恵により助言しているのであって、パウロは神の教えを塗り替えるような、別の教えや、トラーとは異なる別の神学を作り上げているのではない!ということが、見えていないのです。

パウロは、自分教〜パウロ教〜モーセの五書を終了させた新しい教えの宗教の神学論文など書いてなどいません。

パウロのしている事は、100%モーセの五書=神の教え=トラーに

記されている教えから、実際の生活に起きている問題に対する、

適用、対処を述べているだけなのです。

パウロは、神の教えを塗り替える思想、神のトラーを捨て去る、変える、自由自在に人間が神の教えを選んで生きて良いなどという教えや神学など1つも編み出していないし、語ってもいません。

 

実際、多くの人がローマ人への手紙をクリスチャン生活のマニュアルの一形態と見なしてしまっています。

でも、1世紀のローマ人の群れにあった問題が、今のそれぞれの群れにあるわけでもないのです。

そのような事をする場合、神に聖別されたイエシュアのものとしての健全なを送ろうとする意図的な信者は、ローマ人への手紙(およびその他のパウロの著作)に行き、パウロのキリスト教という宗教〜

ローマ帝国が作った宗教に共通するトピックと問題について学ぶことを余儀なくされてしまうのです。

 

それらを念頭に置いて、ローマの手紙で誤解された読み込みで、

解説されている箇所を見て行きます。

 

ローマ 2:13 なぜなら、トラーを聞く者が、神の前に義なるものではなく、トラーを行う者が、義とされるからである。

 

トラーを受け取って、トラーを知っている人々〜ユダヤ人は、神から

最初にトラー=神の教えを与えられて、神の教えを知っている、

持っている人々です。

ユダヤ人らが、先祖代々、シャバットごとに会堂でトラーが読み上げられ、教えられ、そして家庭でも親や周りに住む親戚や、長老達に

トラーを日々教えられるて来た背景があるのです。

その恩恵があるのは、神がイスラエルを契約を受け取る代表として

選んだからです。

それは、他の民族とは別の特別な特権階級を与えたのではなく、

アヴラハム〜その子孫へ託されたミッションは、全世界の人が

アヴラハムを通して、神の教えを聞いて、同じ祝福を受けるためと

はっきり神は伝えています。そして、異邦人も、同じイスラエルの神に、イエシュアを通して繋がった人も、もれなく同じイスラエルの神の家族、一員であり、アヴラハムの子孫である!と言っているのです。

詰まり、長男〜イスラエルに代表として、神の教えを与え、それを

世界へ教える役割を託し、責任を負わせたのです。

神は、地上の民族の中で唯一イスラエルとだけ契約を結び、地上で

唯一、イスラエルという国、その土地を、神がイスラエルに正式に

その所有権を与え、神の国と神の子ら、神の性質、栄光をそのまま

地上で反映する人々を選び出し、天の国をそっくりそのまま地上で

反映する国を造られた事実があるのです。

 

だから、イスラエルは契約の実態から外れたら、特別に厳しい訓練を与えられた、それが呪い=契約から外れた困難を受けるという、

長男が弟妹を正しく導けなくなるような状態であってはならないから

国外追放、捕囚、そして様々な苦難を経て、今も同じように迫害を

受けている事実があるのです。呪いとは、契約を破って生きる時に

刈り取る結末、契約に基づき受けてしまう困難なのです。

 

ローマ人の群れでは、ユダヤ人がこの「神の選び」に関する事を誤解する問題が生じていたのです。

今も同じですが、あるユダヤ人は選民意識があります。

もちろん神が選ばれたという事実は、正しいのです。

でも、どうして神がイスラエルを選ばれたのか?という点で、勘違いしているのです。

神は、イスラエルが特別に人間として優れているから選び出したなどとは1度も言っていません。イスラエルが選ばれた唯一の理由は

上記したように、世界に同じ神の教えと祝福を与える代表として

選ばれただけなのです。大家族の長男の役割を与えられた。

そのトップの長子が、イエシュアなのです。

そして、選びの民である、イコール自動的に、神の恵や祝福を何をしても受けるのではないのです。

そして、神の契約を与えられた、イコール、自動的に、救い、贖いの

事実を得ているのではない!という事。

これは、イエシュアも言われた通り、誰も、イエシュアを通して以外

父の元に戻る事はできない!と言われた事が、真実だからです。

 

続く