イスラエルの神に対して、神の言葉に対して、クリスチャンの中には
たくさんの誤解があります。
その原因、理由は、神が神の言葉を変えたのではない、人間が変えたという歴史の事実を知らない事と、神の言葉を曲げた思想を編み出した人間の思想、人間の編み出した宗教の教えや神学〜置換神学や、
デイスペンセーション神学の人間が編み出した、肉の目から見た聖書解説の教えを、神の言葉と同等であると信じ込んでいて、神の言葉の方を退けていることが原因です。
そして、もう1つ大きな要因は、パウロが書いた書簡の内容を誤解していることです。それら、神の言葉が変化したという人造神学を裏付ける証拠として、パウロの書簡を読み違えていることです。
パウロが神の教え、トラーが廃れたと言っているとされるのは、
割礼を禁じ、今はシャバットはいつでも良い、今はなんでも食べて
良い、トラーを生きることを禁じていると、パウロの書いた書簡を
完全に誤解、勘違いしていることによるのです。
パウロも、1世紀当時のユダヤ人の間で、トラーを違反している
割礼を禁じて、違う教えをしていると、トラーに熱心に生きている人たちの間での巷で大きな噂になったとあります。
それは、当時のユダヤ人の中にあった教え=人間の編み出したユダヤ人の伝統の教え、先祖の言い伝えをパウロは、イエシュアに出会った後、それらは神の教えではないという理由と、そして、異邦人に対するユダヤ人となる改宗儀式〜それを「割礼」という名をつけていた
人間が編み出した儀式をする必要がない〜そんな事をしなくても贖い、救い、義は信仰により受け取るだけと、トラーが最初から教えていることが、神の教えだと教えていたこと、人々が理解しなかった
誤解によるのだと思います。
イエシュアも同じでしょう。人間が編み出した伝統の儀式や教えなど
無意味だからやらなくて良い!と、手洗いの儀式を弟子達も含めて
やらなかったことに対して、学者達に議論をふっかけられて、議論している箇所があるでしょう。
詰まり、神の教えか人の教えか、伝統でやっていることとは違うことをしたら、異物とみなすのが人の常なのです。
でも、イエシュアもトラーに違反する教え、罪を犯せなどということを教えない。父の言われた通り以外、何も語らない!と言われたのです。パウロも、モーセの五書に違反したことなど教えてない、生きてないという事実を、はっきりと神殿で公に対して証明したでしょう。
どうして、その事実、意味をクリスチャンは全く理解できないのか、それが不思議なのです。使徒21:21に書いてある意味を、理解していないからです。
パウロ本人が、100%モーセの五書を支持し、忠実に生きて、人に教えていると言っているのにも関わらず、他人がパウロの言葉を否定し続ける、おかしな思想を述べているのに、全く気がついていないのです。
同様に、神ご自身が、神の言葉は完全無欠、変化しない、神の言葉は永遠に固く立つと何度も人に言っているのに、クリスチャンはその言葉を信じていない!実際には、神の言葉が変化したという、人間が編み出した思想を取り、神の言葉を退け続けているではないですか。
蛇の騙しの言葉を取った、神の言葉を曲げた教えの方を信じているのに気がついていないのです。
それは、人間の編み出した宗教の教えと宗教文化、しきたり、慣わし
儀式、記念日を教えられ、実践しているから、神の教えている言葉、教え、記念日の意味が、全く通じていないのです。
聖書を教える人が、聖別の意味を全然理解していない。神の言葉を
正しく理解していない。神の言葉が廃れて、人間主体、人間が仕分けて良いという、聖書に無い思想を信じてしまって、それを一般の人に教え続けていること、それも偽情報が拡散し続けている原因なのです。
エゼキエル22:26その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。
エゼキエル 44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
聖と俗とは、神の目的で分たれた日=安息日=第7日目と、レビ記23章に記されている神の記念日、俗〜それ以外の普通の日の区別の教えです。そして、汚れたものときよいもの、レビ記11章に記された
人が食べられるきよい動物と、人が食べるものではない清くない動物の区別です。その神の言葉を捨てて、今はなんでもあり!祈ればなんでもきよくなると、聖書に書いてない教えを主張しています。
マルコ7章には、「すべての食べ物は清い」とイエシュアが言われたという文章はギリシャ語では書かれていません!翻訳者が、勝手に創作、挿入したのです。鉤括弧が付けられている翻訳は、その文章は
元には書かれていなものです。
たとえ全ての食べ物と書かれていても、神の教えを知るユダヤ人は、食べ物、全ての食べ物〜人間の食べ物として造られたものの中での全てと理解できます。
日本人が、全ての食べ物と聞いて、ドブネズミ、ゴキブリが人間の食べ物であるという認識はない、考えないのと同じことなのです。
それらは悪食が食べるかもしれませんが、普通の人は食べません。
神の教えを捨てる人には、神の教えを正しく人に教えることが不可能になるのです。神の教えではなく、人間が編み出した思想を伝えてしまい、教師や長い間イエシュアを信じている人も、人に聖別を教えることができないままいるのです。神の言葉を捨てる人には、聖書に
記された聖別の意味を理解していないからです。
聖別〜神の目的通り分たれている。シャバット=第7日目、神の記念日であり、神の子らに与えられた神との関係にある永遠の印、その日は他の普通の日と違い特別に聖別されているのです。そして、神の子らは、異教徒のように、なんでもかんでも食べない。神の教えかそうではないか、識別して、吟味する、注意深く神の言葉を思い出して、
取り入れる、違うものは吐き出す。それは物理的にも、思想、霊的なこともすべて、神の言葉、教えから識別、認識、区別することをしないとならないと、教えられているのです。なんでもかんでもあり!という思想は、別物と混ざる、神が警告する姦淫の罪を人に教え奨励している罪を教えているのです。罪を犯せ!と教えているのに、気がついてないのです。なぜ?神の言葉を捨てているから、終了と勘違いした人の教えを信じているから、分からない、区別できなくなっている。
エゼキエル 44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわがトラーと定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない
パワハラなどやっていないのに、やったというでっちあげをされた
兵庫県知事に対する、偽証をメデイアが一斉に流して、皆が疑いもせず、あの人悪い人だと信じたことと同じです。
神の性質、神の言葉に対する、情報操作、印象操作をされてきて
しまったのです。ローマ帝国により、そしてカトリックの会議、
人間が勝手に決めたことを、押し付けられてしまったのです。
それは、人間の仕業です。反キリスト〜神に敵対するものは、神の
言葉を潰そうとします。それはエデンの園の最初から警告されて、
同じことを繰り替えしています。
ギリシャ帝国、ローマ帝国、モーセの五書を生きることを禁じるという勅令と共に、それを破る人は処刑、死刑、重税を課した。
そして、異邦人西洋教父達も同じ思想に同調し、ローマ帝国皇帝も
同じ思想から、ローマ化された信仰宗教〜異教神、太陽神の礼拝日や
シンボル、思想を混ぜた宗教を作り、モーセの五書を禁じた。
そして、カトリックもずっと神の教えに違反することを教え、
シャバットを汚し、日曜日礼拝に変更し、神の記念日祭りを捨てた。
だからクリスチャンは、聖書に書いてある、イエシュアが教えて祝った、本物の神の記念日や祭りを知らないのは、神の言葉を捨てたことが原因なのです。異邦人〜神のトラーを捨てた人へ、ヨハネが警告しているのです。黙示録2:4
あなたははじめの愛=シナイ山の婚姻契約=トラー=神の教えを捨てた!ヨハネが警告した通りが異邦人の中で行われているのです。
メシアを伝えようと考えるならば、ローマ化された偽のメシア
イエシュアを伝えてはならないのです。
人間の宗教が唱える、変化する神、変化する神の言葉、それらは嘘であり、イエシュアと全く関係のない教えであることを、まず聖書から知って下さい。
イエシュアは神のトラーを蔑ろにするように教える人へ厳重警告しているでしょう。マタイ5:18-19天の国では一番末席、遠く離れた場所にいる、何も価値のない最も軽い存在とみなすという言葉が通じていないのです。
イスラエルの神ではないことを、人に伝えたら、それはイエシュアを
正しく地上で表して、生きていることと、真逆をしている、人間の
作った宗教の教えを人に伝えてしまっているのです。
だから、聖書に戻り、変化しない神、約束を破らない神、神の言われたことは永遠に廃らない!という神が伝える事実通りに人に伝えて
生きなくてはならないのです。
地上の影は、天の現実=神の実態をそっくりそのまま映し出す
それが、神の子らなのです。
イエシュアが父と子は一体、イエシュアを見たものは父を見たと言われた通り、イエシュアは100%父の言葉=トラーを父の意図通りに教え、生きたのです。
そして、神の子らも神の性質通りのトラーを生きる!それを破れと
教える人は、神に敵対する教えをしていることに、はっきり気が付かないと危険です。
反キリスト、ギリシャ帝国、ローマ帝国が出した、神の教え、記念日を祝う事を禁じる、割礼を禁じる、汚れたものを食べよ!という勅令なのです。
ゼカリヤ14章の未来預言にはっきりと書いてあります。
エレミヤ31章も同じですが、未来、イエシュアが地上に到来し
王の王として世界を治める日が来たら、全世界が神の教え=トラーを生きて、全世界が神のモアデイムを祝うために、エルサレムに上って来ると預言されているのです。
ゼカリヤ14:9 主は全地の王となられる。
その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
<神が全地の所有者、全ての創造物を造られた所有者であり、
そして、一人〜אֶחָ֖דエハッド、名=実態もאֶחָ֖דエハッド1つとなる
とあります。
その意味は、人間の宗教が解説するように分断の神ではなく、
神の実態、名は1つであり、神の教えも1つに戻る!とあるのです。全ての人は、主の元で1つになり、主が王となり、神の教えも1つ
今のように、4万4千というキリスト教の宗派、教えが分裂しているようなことはなくなるという意味です。
同じ神の教えに、皆が戻る!(人間の教えを売る)商人は神の宮からいなくなるとある通りだからです。>