神の教え 言葉から遠ざかるように教える宗教の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

天然、自然、本来のものと、人工、本物に似せたコピー、偽物とは

見た目は同じでも、材料、本質、中身は違います。

神が創造された砂糖や蜂蜜と、人間が作った人工甘味料も違います。

自然の中、森や林、海で感じる涼しい爽やかな風と、人工的に扇風機や、冷房で作られた風も違います。

神が創造されたものと、人間が作ったもの、それには違いがあります。

純粋な神の言葉、教えと、人間が作った宗教の教え、神の言葉や教えを曲げる、変える、又は神の教えの中に別の教えを加える、又は

神の教えを、削除する〜それらは、人間が作った人の考えによる

人工の教えが神の教えの中に混入、神の言葉を変形させたもの、

それをイズム〜宗教と呼んでいるのです。

 

私は、ヘブライ語聖書に出会う17〜8年前迄は、聖書には、最初の部分は、ユダヤ教、律法、途中で廃れて変化する神の言葉が書いてあり、最後の25%の福音書以降には、キリストが地上に来られて、

初めて人類が聞く新しい教えが書かれている、古い教えが終了して、恵が初めて与えられ、贖い、赦しがキリストが処刑され昇天された

事で、初めて実現したという、人間が作った宗教の思想を教えられて、そう考えていました。

イエシュアに個人的に出会って直ぐに、聖書は72時間もあれば全て

読めると聞いて、創世記から、黙示録までずっと読んでみました。

そうすると、中身に何が記されているのか、細かい理解は出来なくても、翻訳聖書だけを読んでも、聖書とは、一貫して繋がっていると

いう印象を受けた発見を今でも覚えています。

今は、聖書は、人間〜西洋人が作った宗教や神学、思想が唱える事とは異なり、神も神の言葉も1つである!という事実を知っています。

 

ジーザスが来られて新しい教え〜以前の教えを廃れたので捨てて、

別物の教えを教えたから出現したのではないのです。西洋人により語り継がれて実践されている西洋宗教ですが、それは人間が作った宗教だから、聖書に書いてある事とは、違う教え、実践、違う記念日が祝われているのです。

 

よくユダヤ人の教え、ユダヤ人の祭り、ユダヤ人の安息日などという

表現がされていますが、神の創造された記念日は神の記念日、

モアデイム〜アポイントメント、呼出し日、神の子らと会見して特別に祝う日です。

それらの記念日は、ユダヤ人だけのための記念日などは、聖書には

書いてありません。

ユダヤ人メシア、イエシュアが創造された記念日を、神の子らユダヤ人異邦人で全員祝うと書かれています。ユダヤ人も異邦人も共に神と祝うように、神が伝えているのです。

ユダヤ人へだけの教え、記念日などと聖書には書いてありません。

ユダヤ人だけが、主にガードして生きている教え、記念日だから

ユダヤ人の〜と言っているだけなのです。

神の言葉は、神の家族全体への教えであり、その中には、女性、男性

独身者、既婚者、祭司や役職により違う役割、立場に携わる上では

違う教えももちろんあります。

でも、アヴラハムの割礼でも分かる通り、割礼は福音の中核を教えているものであり、女性には割礼はありませんが、割礼の意味はイエシュアを通して神の元に戻された人全てに当てはまる真理を教えているものなのです。神の教えの真理は、全ての人への教え、教訓、知恵

だからです。

聖別の根幹を教えているもの、神のものとされた人は、この世のものとは分たれている、分たれた生き方をする事が教えられています。

包皮も、古い人〜メシアと共に葬られた以前の人を表すものなのです。

神殿に入る上で、聖別された人、本来の状態からズレたものは何か、

死に触れた人は7日間汚れると書かれていて、読んだだけでは、

その意味が不明ですが、神は、エデンから出た人、死と触れるとは、本来の体験ではない、死に触れたらその人は影響を受けて、そして

その人に触れた他の人にも影響を与える、神から切り離された状態が何かを教えているものでもあるのです。罪、ズレがどんな影響を回りにもたらされるのか、教えているものなのです。

腐敗した食べ物、野菜でも分かる通り、腐敗したものとくっついたらその食物は腐ります。

ズレた腐敗した生き方をする人に触れたら、悪い影響を受けます。

神の教え、言葉は全部で1つに繋がり、神が創造された人の生き方を

教えているものであって、それを人が勝手に捨てたら、神から神の子らはどう生きるのか?を教えられているのに、その意味がよく分からないままになってしまうのです。

エデンの園の最初から、神から切り離される原因、警告がされています。人は、神が創造された通りではない事を、考える、取り入れたら

破壊〜死〜神との隔離された、隔たりの場所に追いやられて、本来の関係の中に生きる事から飛び出すと教えているのです。

食べてはダメ!と言われた事、それを人が敢えてした。今も同様に

神の言葉は修了したから関係ない!と勝手にふるまって、神の教えを退けている。

それは神が伝えている神の教えが廃れたという人間の教えを受け入れて、神の言葉を退けた、アダムとハヴァと同じ事を気が付かないまま

しているからです。

神が伝える人の生き方、神は人を〜〜〜するように造られているから、それら〜神の伝えた通りを生きる、、〜〜〜するようには造られていないから、それらをするのは、あなたの性質とズレている、

あなたを破壊するからそれらはしないと教えているのです。

 

創世記には、神が6日間の中で世界の全てを創造し、7 日目に休んだと書かれています。ユダヤ人の賢者たちは、その日、神がメヌハ

つまり休息を創造し、それ無しでは、人には、持続的な創造性を保つ事は不可能である事実を述べているのです。

人は、神が創造された通りを生きる事が、この創造の6日、7日目で

止まる事でも教えられているのです。

シャバットは、創造の最初から教えられています。

は週のこの日だけを、聖別し特別に唯一祝福されています。

聖書を読む時に、最初に全部書かれていないから、神の教えが継続的に進化したのだというそのような空想で聖書を読んだら、事実が曲がるのです。

人が書いた書でも、その分厚い書全体で、著者の考え、思いを書き表す事ができます。最初の数行で解説できる、一言二言程度で伝えられる、そんな簡単なものではないからです。

神は、神の教えを、モーセの五書全体で教えています。

でも、それら神の教え=トラーはエデンの園から、アダムとハヴァは口頭で神から直接聞いていたのです。

ずっと同じ教え=同じトラーが神より教えられているのです。

だから、エデンから飛び出て、何の解説、説明もないまま、カインと

アベルはコルバンを神の前に捧げているでしょう。

神が受け取ったコルバンは、子羊の初子であるアベルが捧げたコルバンであると書いてあるのです。

イエシュアは最初から語られているのです。それ以前にも、アダムと

ハヴァが、「食べてはならない!」と言われた知識の木から食べて

それを、神に追求、質問され、自分たちの犯した罪をやった通り

考えた通り、どうしてそうしたか、全て神の前に告白して、神に許されて義の衣〜子羊の毛皮を着せられた事が書かれているのです。

イエシュアの義で神が彼らの不義、罪を覆った事実が教えられているのです。

アヴラハムの子孫、ヤコブ〜イスラエルの12人の子供たちがエジプトに降って、そして430年、エジプトに長居をしてしまった後、

モーセにより出エジプトが神が救出した事が記されています。

でも、モーセも、神のトラーを知っていたのです。エジプトに住んだ人も、トラーを覚えていた人がいたのです。神の祭りをするために、荒野〜ネゲブ〜エルサレムに上らせてとファラオに突如として頼んでいるでしょう。何の祭りですか?レビ記23章に記された祭りです。

婚姻契約〜トラーがシナイ山で与えられる前に、モーセが山の中に

行ったきりの間、イスラエルは、金の子牛を作ってイスラエルの神を

礼拝し、イスラエルの神の祭りを祝った記録がされています。

神がイスラエルの子らをエジプトから連れ出した後、神は彼らに安息日について教えました。神の教えを知らない人もいた、出エジプトした全ての人、イスラエルと異邦人に対して教えたのです。

エジプトを出た人の中には、異邦人もいるのです。

ミックス、混合の群れ、それがイスラエルの神の大家族の実態なのです。だから、神の民を、イスラエルと異邦人と分ける、デイスペンセーション神学は聖書とは何の関係もない、人間の思想なのです。

 

つまり、神が創造の業でされたように、神の創造された人も、6 日間働き、7 日目に休むということです。安息日は、脱出の数週間後に神がシナイ山で大々的演出の元、イスラエルと異邦人とに伝えた 10 の言葉、仰せの 1 つでもあります。

それが文字で記されているのですが、シャバットは、エデンの園の

最初から神により人に伝えられているのです。

安息日〜シャバットの意味は、神がどのように世界を創造し、

神は人がどのように、そして神の造られた時の中で生きるように創造したのかを伝え、イスラエルという神が選び出した国民、代表として

そして神が造られたイスラエルという国家〜地上で天の国を、神が伝えた通り反映させる役割を与え、そして偽の神々の奴隷制から解放したときに世界の全ての出来事に介入したかを証言しているのです。

 

私たちの祖先〜神の民が荒野を旅した 40 年間、安息日を除いて、

食物となるマナが天から降りてきました。しかし、誰もお腹を空かせる人は一人もいなかったのです。

そして、履物も服も擦り切れる事なく、病気にもならなかった。

金曜日の日中には、マナが降らない、働かない土曜日のために

1日分余分の追加のマナが与えられて、誰もが聖なる日に十分な量を手に入れることができたのです。

神の教え、トラーではこの日の遵守について非常に簡潔に述べており仕事をしてはならず、火を焚いてはいけないと述べています。

世界は、神の教え、トラーを知らないからこの日に止まらず、7日間

24時間無休で動き続けているのです。

太古では、火を焚く作業は重労働であり、自分の身を支える為の仕事もしない、それが安息日であると書かれています。

働けない日も神が支えて、必要を与えてくださるという証明です。

 

神の教えは、滅び行くものには愚かに聞こえるとあります。

そうです。不思議な事、何でこんな事が重要なの?と思いませんか?

どうして、知識の木の実から食べたら死ぬの?どうしてシャバットは死に匹敵するほど重要なの?でも、それが事実だから神が人に伝えているに、人は神の言葉を疑い、こんな事で?という事で、死〜神との隔たりと、罪〜ズレ=本来の性質を生きる事が困難になる、偽物の

自己像を学習してしまったのです。

婚姻契約が正式に与えられた時、出エジプトしたイスラエルと少数の

異邦人は同じ神から、同じ教え、契約を受け取ったのです。

人種ごとに違う教えなど、神は最初からしていないのです。

10の言葉、十戒と訳されていますが、ヘブライ語では10の言葉です。時間がないから、今要点だけを伝えるね!というのと同じ、

聖書の題目、タイトル、神の契約の中には何が記されているのかの

タイトル、柱だけを最初に神がモーセに伝えたのです。

第4番目の項目、「安息日〜第7日目を覚えて、聖なるものとせよ!」とあります。この意味を、モーセの五書で詳しく解説しているのです。聖別を教える内容は、レビ記に詳しく記されています。

神の民、花嫁となった人の生き方、それは、衣食住、人間関係、

夫婦関係、家族関係、近隣の人との関係全て、人が生きる全てで、

聖別された人の生き方を説明しているのです。

聖別の中心であるものが、シャバット、安息日〜第7日目であり、

神が呼び出している神が聖別された日の暦、日程は、レビ記23章に

記されているのです。そして、エデンの園と同じ、人は何を食べるように造られ、何を食べるようには造られていないのか、食べる事に

関して厳重に教えているのです。体は聖なる宮であり、汚れたもの

別の目的で造られた動物〜清掃動物は、聖なる宮、神が住まわれる宮体内に取り入れるものではないからです。神殿の祭壇の上に豚が

捧げられない理由と同じなのです。それは、イスラエルの神に属さない、人間が体内に、神の住まう宮に取り入れるものではないからです。

そして、聖別された人の生き方は、シャバット、祭り、記念日だけではなく、人の生きる日常を通しても、教えられているのです。

神の言葉を正しく教えるはずの祭司たちも、神の教え、トラーを犯して、聖なるものを汚したとあります。

聖なるものとは、シャバットや、そしてきよくないもの、清いものの区別がない、なんでも取り入れて良い、なんでも食べて良い、今は

いつでもシャバット、神の祭りは終わった!という、今の異邦人の

教えと同じことへの、警告なのです。

 

エゼキエル22:26その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

44:23彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない

 

神の教えが修了、破棄、無効になったという思想を信じる人には、

聖別〜きよいものきよくないもの区別、シャバットを汚しても何とも

感じない、それは神の言葉を捨てているから、何が神の伝えるズレ

罪なのかの、識別、区別ができなくなっているのです。

だから、自分には関係のない教えと思えば、全てその人の中で完結

解決し、神の言葉から引き離された生き方に遠のいて行っても、

危険に気がつけないのです。

安全地帯から、無法地帯へ導かれているのに、分からない、神の言葉という方向指示器を捨てているからです。