神の言葉が伝える意味を検証をし直さないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

「不法」という言葉を見る、読む場合、不法〜法律に反する、規則に反すると考えますよね。不法入国、不法滞在、不法侵入。

日本の場合では、日本の法律に反して違反する行為〜犯罪、

不法〜犯罪、国の法律や規則に反することを実行することです。

 

聖書に記述されている「不法」という翻訳は、単に犯罪を犯す、

悪いことをする〜人間の基準の法律や、道徳に外れることだけではないのです。聖書にある、神の国〜創造主が創造された世界を生きる人達は、神の創造された通りに生きる〜それが神の教え=トラー、神の

国の憲法であり、その神の言葉=トラー=モーセの五書=婚姻契約のどの箇所でも違反したら、どんな行為もそれは、ズレ、罪であると

神が人に教えているのです。

不法とは、神の教え=トラーに反した生き方をすることであり、聖書

神の伝える罪の定義は、神のトラー=教えに違反することなのです。

それは、どんなことでも、違反、罪なのです。

そして、そんなに難しいことは、聖書には書かれていません。

誰でも分かるのです。でも、その意味するところは、言語、そして

神が教えている意味を、ヘブライ語で書いてある通りに正しく教えられて、理解して初めて分かることなのです。今の現代人、日本人が、古典をそのまま読んでも意味不明なのと同じことです。

〜と訳されて、東としか見えませんが、ヘブライ語には2つ別の

言葉で記されているのです。

日の出るところ〜東〜ミツラック、単に地理を表す言葉と、ケダム〜

これも東と訳されていますが、これは「時」を表す言葉で、

永遠を表す言葉であり、東という方向も表している言葉です。

こんなのは、翻訳では全く見えません。

それに、この「ケダム」という概念は、ずっと聖書に記されている

のです。それは、深掘りして聖書を学ぶと、色々な事が見えてくるのです。神が時空を超えて、永遠の中から人に語られている事実は、

ヘブライ語から分かるのですが、翻訳を西洋思想で読んでいても、

それは、全く把握できないのです。

イエシュア〜子羊の贖い血、許しは、永遠の中に存在し完結し、

どの時代のどの人種にもアクセス可能なことが、書かれているのに、

クリスチャンの教えは、2000年前から新しい神の許し、業

聖霊が人の内に住まうことが始まったという、時系列上に聖書を

曲げて読んでいるのです。永遠の中からイエシュアは存在し、神は

永遠から永遠に変わらない!神の言葉も業も永遠から永遠に変わらない!という事実を、正しく理解していないのです。

だから、デイスペンセーション神学のように七変化の神、七変化する

神の教え、肉の目から見た人間の思想を編み出せるのです。

 

ヘブライ聖書には、基本となる概念が書かれている、それを知らないと、ただ字面を読んで、何が書かれているのか、全く上部しか見えないままになるのです。海を上から見て眺めて、水の動きは見えます。でも、水の中に地上のエデンの園、世界が広がっているでしょう。

水中ダイブ、潜る人は、その景色が見えて写真でも見える、それが

あるのです。中に入ると見える!上から字面を眺めて見ていても

水の中にエデンの園の世界が見えない。それが翻訳の世界なのです。

だから、それを教えられるパウロのような教師が必要なのです。

人間の思想=人間が作った宗教が編み出した非聖書的な教えを教えないで、純粋な神の言葉〜聖書だけを教えないとならない!

混ぜ物の教えは、排除しなくては、神の言葉の真実が覆い隠されたままになります。

現代人の目で同じ古代の日本語を読んでも、同じ意味では書かれていない。発音や言葉までが違う。

ましてや、異国、外国、古代、ヘブライの世界を、西洋哲学思想や、

現代の人の文化や慣わし、思想で考えていたら、全然見えない世界が聖書には書かれているのです。

でも、書いてある意味を、意味通りに分かれば、神の言葉の基本的、概念が把握することが可能なのです。

そういう聖書教育が、異邦人クリスチャンの世界には、全く欠けているのです。それは異邦人が頭脳に問題があるのではないのです。

パウロたちのようなトラー学者、教師から、異邦人は完全決裂し

自分たちの作った西洋思想人造宗教、人間の編み出した思想=神の

言葉を否定した思想を土台とした、宗教の教えを信じる実践に完全

移行してしまって、ユダヤ人の群れ〜イエシュアや弟子たちが生きていた神の教えを生きる事と、パウロのような優れたトラー教師を持たないまま、西洋神学に長けた教師〜聖書とは違う教えを、教え込まれてしまったから、このようなこと〜聖書を正しく理解して読まない、

教えられない状態になってしまったのです。

だから、見渡す限り、ユダヤ人のように、どの国にいてもヘブライ聖書を読む、教えるという環境が丸でないのです。

そして、もう一つ問題なのは、ユダヤ人とて、世界にはズレた思想を持っている大勢の人がいるのです。でもそれは、聖書に照らし合わせれば何が変なのか分かります。ヘブライ聖書なのに、デイスペンセーション神学=人間の思想で聖書を解説する〜それは神の教えではありません。

そして神秘主義〜文字と文字の間に隠れた意味があるとか、ヘブライ文字は数字を表す意味を持ちますから、ダビンチコードのように、

この文字と文字の数を足すと隠された意味が出るとか、そんなのは

聖書、神の教えではないですが、分からない人が聞くと惹かれる教えに聞こえてしまうのです。

パウロがいた1世紀当時も、偽教師、偽の教え、グノーシス主義、

神秘主義、天体崇拝、禁欲主義、そして、人の教え、伝統の先祖の

言い伝え〜改宗儀式をしないと異邦人は救われない、ユダヤ人にならないと、天の国の正式メンバーになれない、神に受け入れてもらえないなど、様々に神の教えとはズレた思想が蔓延していたのです。

モーセの五書を読めば、そこに神の教えの完全版が記されています。

神の言葉は完全なので、訂正も変更も付け足しも必要などないのです。7日目のシャバットでもそれが表されているのです。

付け足す物何もない、完全な状態が全て物理的創造の世界に現れ出たから神が歓喜、感嘆し、その日を特別に祝福し、止まったのです。

 

神は、神が創造された神の似姿通りに造った人間は、何を生きるように造られている、何を生きるようには造られていないと教えているだけです。肉の人間には、その神の言葉がうざったいのです。そう書いてあるでしょう。肉の人は、神の教えを喜ばないと。都合悪いし、

面倒くさい。なんでも自由の方がいいでしょう。学校の生徒のように、先生がいない、監視、監督がない授業時間は、楽しい、やりたい放題!神の言うことなど、聞きたくない!勝手にやりたい!

それが人間の編み出した神学であり、肉の人間の性質なのです。

聖書に1つも書いてもない、なんでもする自由が今はあるとクリスチャンは主張し、それが聖霊により導かれる恵の生き方=これ全部嘘!人間の創作空想の冒涜的教えです。

神の教えに真っ向から反する、エデンの園の蛇の声そのもの!

エデンの園の、神の教え、インストラクションはそんなに難しいことでしたか?この木、知識の木の実以外は、全部食べて良い!

そんなに難しい事なのですか? 人はダメと言われたらやりたくなるからという解説をして、その為に罪の定義が消えるべきなどという、

勝手な思想を述べていますが、人は神に造られたことを忘れてたら、

どこまでもズレる事可能です。人間が神の上に立ち、神の言葉を操り、支配している、それが問題の根、エデンの園から同じ問題なのです。

日本国の法律でも、この法律は守って、これは守らなくて良いなどと

いうことはないでしょう。人の判断で破ってもよいルールがある?

窃盗は罪ですが、スピード違反で人に迷惑をかける、人を引いて、

怪我させる可能性のある行為は良いです、などと考えるのはおかしい思考です。

全ては、人がお互いに不快なく過ごすため、お互いを守るために存在している人としての生き方なのです。人を窮屈に縛るための、ルールもありますが、それは、要らないルールです。

ルールのためのルール。人のためではありません。

神の言葉は全てで1つであり、どの箇所ももぎ取れません。

人間の体が、全部の臓器揃って1つの完全なるものであるのと、同じことなのです。何かを差し引いたり、臓器移植して別物を付け足したら、正常に機能しないのです。

法、律法と聞くとなんか厳しい感じがしますが、これらは人が共同体、家庭、学校、隣近所、町内会、住んでいる地域で、お互いが守られるための指針だと、普通に理解しているでしょう。

誰かと関係の世界に入る。それは、住む場所、地域もそうですが、

夫婦、家族、又は労働関係でも、契約の中に入るとは、お互いに

守るべきルール、生き方があるのです。

 

人間の作った教え、神の言葉が廃れたという思想が、これがどれ程

神に対して冒涜、不敬、人間が神に成り代わっている教え、思想で

なのか、全く理解していないのです。神の言葉、教えを生きることと、救いを得ることを、クリスチャンの教えは全く混同しています。

内側に聖霊がない人が、神の教えを生きたり、善行をしても救われないと、新生体験したクリスチャンなら、分かるでしょう???

そんなことで、救い、義は得られないと体験的に知っているのに、

なぜ、聖書とは真逆な思想を信じているのですか?

ユダヤ人は行いで義とされる。そんなことあり得ないと分かるでしょう。ユダヤ人も異邦人も元は同じ土=アダマ=アダムから出た同じ

人間であると、どうして理解していないのでしょうか?

罪の定義があるから、罪に引っ張られるのだ〜だからそれらが無くなれば、罪を意識しなくても良くなるという、支離滅裂な思想、聖書とは全く関係のない教えが、今も今日もずっと伝え続けられています。

 

神に贖い出された人〜聖霊が内側に住む人は、聖霊を悲しませない

聖霊=神の言葉に反する生き方はできなくなる!という事を理解していないのです。神の言葉を生きる〜律法主義と、聖書に書いてない事を言って、聖霊、義、新しくされる事を、努力で得ようとする行為と

勘違い、混同して、そう言っているのです。

イエシュアが内側に住まう人は、イエシュアの性質=トラーに書かれた神の性質通りの生き方をする!と教えていることに目を開いて

神の言葉に基づき、間違った思想〜神の教え終わりありきの蛇の嘘から目覚め、脱却しないとならないのです。

 

ヘブル1:9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。

それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、

 

義とは、トラーに記された神の教える義です。人間が考える義は、

宗教の教えの義であり、神が提示する義とは異なります。

義の定義が、トラーに記されている、義を生きることが書かれているのに、トラー=モーセの五書が廃れたと教える人は、何が神の伝える義なのか知らないままになります。

自分よがり、思いつき、空想の義を語っているだけです。

そして、不法とは、神の教え=トラーに記された神の教えを、捨てた

生き方のことです。これをやっている、奨励していることに、気が

付かないと危ないのです。神の教えは最初から同じなのです!

エデンの園の警告、蛇の嘘、誘惑、騙しは、神の言われることとは違うことをせよ!

その嘘、騙しをずっとデイスペンセーション神学思想は主張しているのです。

神の言葉を捨てる人には、言い訳の余地は与えられていません。

不法とは、普通の人間の世界で考えるルールに反すること、犯罪という意味ではないのです。神の国の憲法、婚姻契約に提示された神が

示す神の子らの生き方に違反する生き方〜無法!と聖書では言っているのです。

マタイ7:23でイエシュアが言われた、「不法」を働くとは、単に犯罪悪い行いではなく、神の教え、インストラクション=トラー=モーセの五書に書かれた生き方に反することをする、神の教えを無視して

生きて、主の名を利用しながら、預言、様々な不思議や奇跡をしていた人への警告が書かれているのです。神の言葉、教えを無視しながら、同時にイエシュアの名を使って、人に神の教えではないことを教え、預言や、奇跡、不思議をする人たちは今世界に満ちている、そのことなのです。

イエシュアは、詩篇6:8を引用しているのです。

この中に記されているイエシュアが指摘している問題は、

「アヴェン」という言葉の2番目の要素は、欺瞞から偶像崇拝への移行であるのです。神の教えのどの箇所も捨てる行為〜これが、偶像崇拝、混ぜ物の教え、神の教えとは違う教えへ導く罠だからです。

これが、高きところの礼拝として記されています。

一部の学者は、詩篇のこの節で「アヴェン」が使われているのは、

魔術の儀式を実践する者を表していると考えています。

彼らは悪(トラブル)を犯す意図で神の力(嘘)を呼び起こしたからと考えているのです。

しかし、ここに衝撃的な啓示があるのです。イエシュアはこの言葉を、ご自分の名において、様々な業をしていると主張して、自分の

美徳を称賛しながら、イエシュアのもとに来る者たちを表すために

使っているからなのです。

もっと分かりやすく言うと、神の教え、モーセの五書は廃れた!と

言っていること、それは神に対して最も冒涜、神の教えを否定しながら 主よ〜愛してます〜と神を神の記念日を捨てて、西洋人が作った、ラオデキヤ会議で決めた日曜日が安息日などという、聖書に書いてもない嘘を信じて、主張すること、それは人間の教えであり

偶像礼拝であり、神の教えではないという識別をしない人に対しての警告なのです。

誤解を招かない為に、はっきり記述しますが、何曜日に何の目的で

何をして集まってもそれはokなのです。

でも、神の教え、仰せ、記念日を捨てることは神が伝える罪であり、日曜日を、安息日、主日、聖日という、それはイスラエルの神が聖別された主の日、安息日、聖日ではない!!!イスラエルの神の記念日を人間がすり替えたのに、あたかも神が変えたという偽証、嘘を言い続けることは罪である!と知らないとならないのです。

日曜日は永遠に安息日ではないことが、聖書の至る所、未来預言でも

伝えられているのを知らないのだと思います。

 

詰まり、ずっとそれは最初から警告しているでしょう。

エデンの園から。アダムとハヴァは神の言われたことを無視、無法を

働いて、神の言われたことと反し、蛇の声を信じて行動してしまいました。ただ食べただけなのに、全人類に死、罪が入り込み、エデンから飛び出したのです。

今も同じです。神の言葉を捨てて、人間の教えに固執して生きている

同じことなのです。

人間の教えなのに、固執して信じて、神の言葉に律法と名付け、

クリスチャンに敵対心を持たされている、サタンの嘘、悪行は見事なまでです。

 

続く