ローマ1:7 ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。
わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、
恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ここにある、「聖徒」とは、聖別された人です。
パウロは、「罪人たちへ」とは、書いていません。クリスチャンの
世界では、ある人たちは、人を罪人罪人と平気でそう呼ばわり、言い続けていますが、聖書では、神に義とされた人を、聖徒と聖書では呼んでいます。
聖徒〜聖別さた人なのに、聖別の意味が、分からず、神の教えとは
ずれた生き方をしているのは、ずれている!本来の生き方ではありませんと言わないとならないのです。そして、神の創造のデザイン〜
イエシュア=神の似姿、トラーに記された神の創造された本来の性質を生きること、これが生きること、キリスト=イエシュアが生きた
通りを生きる!と教えているのです。
イエシュアを信じ、内側にイエシュア=聖霊=神が住まわれているから、神の性質とピッタリ合う生き方=それが、トラーに記されているのに、クリスチャンの世界の教えは、神の言葉に敵対せよ!古い教えに戻るな!という、神が教えている事とは、真逆なことを人に伝え
続けてしまっているのに、聖書からそのズレ、罪が全く見えないまま、皆がそのスローガンを唱え続けているのです。
聖別とは、きれい、きたいないという翻訳のコンセプトと、
ヘブライ語での意味が違う言葉です。
コデシュקדשとは、「神の目的通りに分たれている」という意味です。
だから、神の目的通りとは、神が伝える通りを生きる人たちの事で
あり、神の創造された性質通りを生きることに分たれているという
意味です。クリスチャンの世界で語られる、今は人の意見で、神の
言葉を仕分けて、生きても、生きなくても良いというのは、神の教えなどではなく、人間の解説なのです。
神は聖別を、様々な事を通して教えているのです。日々の生き方、
衣食住を通して、そして、神の記念日を通して、聖別された人の生き方を教えているのに、カトリック教は、これを捨てるように教え、
実際にそうしてしまったのです。
そして、カトリックと同じ信仰の土台を引き継いだのが、プロテスタントなのです。
でも、16世紀の宗教改革の後に、カトリックが変えた、安息日〜
第7日目を、第一日目は、聖書の通りではないから、プロテスタントは第7日目に戻そう!変えよう!と、主張した人たちがいたそうですが、却下されてそれが実現せず、叶わなかったそうです。
人間が神の言葉と、記念日を変えた!という事実を、クリスチャンは
知らないとなりません!
神の記念日レビ記23章は、聖別された人に与えられた、聖別を生きることを教えている、神の記念日であり、イエシュアの業を網羅した
記念日なのです。それを、人間が変えた!
ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
<これは実際にイエシュアが生まれる前の紀元前167年、ギリシャ帝国により、ユダヤ人は、神に敵対するもの〜神の教え、トラーと、神の記念日を捨てるように迫害され、神の教えを生きる人は全員
ギリシャ帝国に処刑されました。偶像礼拝をし、豚を食べるように
強いられたのです。マカバイ戦争で、神殿が取り戻された事件の背景なのです。同じことが、1世紀、神殿崩壊前後にも同じことが起きたのです。モーセの五書を捨てよ!生きる人は処刑されたのです。
そのおかげで、当時の異邦人イエシュア信者は、ユダヤ人と同じ
トラー=モーセの五書を生きていないという面向きの証明をするために、ユダヤ人とは違うアイデンテイテイを確立して、ローマ帝国の
迫害から逃れたのです。それは神の教え=トラーを捨てること!
豚を食べ、シャバットを汚し、神の教えとは違う、ローマ帝国に
賛同した、西洋教父たちの教え=モーセの五書を否定した教えを
生きることを、実際に行動で異邦人は示したのです。
その意味は、神の教えを異邦人は捨てた!
ヨハネがこれを書いたのは、神殿崩壊前後です。
その警告が、はっきり書いてあるのに、ヨハネが書いた本当にの意味をクリスチャンは理解していません!
ヨハネは、ローマ帝国が分からない用語=トラー用語、婚姻契約用語で、これを書いているのです。はじめの愛=シナイ山で与えられた
婚姻契約=トラー=モーセの五書=イエシュアが教えた教えを、
異邦人は捨てた!
神の教えから、離れた!!!その通りのことが、起きて、今に至るまで、同じことが続いているでしょう。
律法は廃れた〜それは、この黙示録の2:4の実践の継承の結果なのです。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
その異邦人の屁理屈の解説が、今は恵の時代、キリストの律法を生きるなどと言っているのですが、何を根拠に言っているのか分からないのです。神は永遠から永遠に恵の神、許しに富、憐れみ深く、怒るのに遅くと、神の性質を伝えているのに、神の教えを捨てる人には、
全て頭上を通り過ぎる、神の言葉の事実なのです。
変身する神とは、デイスペンセーション神学、人間ダービーの創作話です。聖書の教えではありません!
人間にすぎないアイルランド人の言うことを信じるのか、それとも
聖書=神の言葉、神の言う事を信じますか?神の言葉を捨てて、
人間の教えを信じているから、神の言葉が古い、新しい、変化したと言う神の証言に反する大嘘を、神の言う言葉を退けて信じることができるのです。
創世記6:8しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
出エジプト34:6主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの
豊かなる神、
<神の一番親しい、親密な名を、2度も繰り返している!これは強調なのです!これが事実、神の性質は永遠から永遠に同じ!>
イザヤ40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
神が一旦口から出した言葉は、永遠の真実であり、否定、訂正は
ありません!神が伝える、神の性質、神の言葉の方が真実です。
人の嘘=広き門=大衆に支持されている教えに騙されるな!
エデンの園の警告をすっかり忘れているのです。
聖書に書いてある言葉、概念、意味は、最初から最後まで同じです。
だから、神の教えを自由自在に、人間が塗り替え、却下し、それぞれの思う所を今は生きて良い、それが恵の時代だ!神の教えを生きるのは律法主義の時代の生き方だ!今は恵で、愛を生きる、キリストの
律法を生きるのだ!と言いますが、一体何を言っているのか、そう
主張する人は、聖書に基づき、言っている意味を正しく解説などできないまま言っているのです。
なぜなら、神が定義する愛とは、モーセの五書=トラーに記された
神の教え通りを生きる生き方のことであり、契約の中に記された生き方をガードして生きること、それが生きることはキリスト=イエシュアはトラーが肉体となって地上に現れたと書かれている通り、
イエシュア=トラーである事実に全く盲目なのです。
トラー=神の婚姻契約に記された、神の言葉を捨てるとは、イエシュア=聖霊=神を自由自在にもぎ取り、捨てる行為であるとも、
その教えを信じる人には、気がついていないのです。
冒涜、神に敵対するもの=サタンの業に加担していること〜神の教えを捨て、人にもそうするように教える事が、どれほど恐ろしい行為であるのか、全く無感覚なのは、神の言葉を捨てているからです!!!
イエシュアがされた生き方を生きる、それは父の教え=トラーに記された生き方であり、それがキリストの律法というものなのです。
イエシュアが生きた通り、イエシュアのされた通りの神の言葉を生きること!それが新しい戒め〜誰も地上で本物の生き方、トラーに記された神の創造された本来の人間の生き方を目の当たりに見た人が
いないから、新しいと書いてあるだけで、別物の教え=新しい=
キリストの律法などではないのです。
大体、神の教えが終了とは、イコール罪の定義は終了し、よって
罪の定義が無い、罪を犯しても良い、誰も罪に認定されることがなくなり、それなので、イエシュア、子羊の血の贖い、救いも、恵みも
必要なくなりました!ということを言っている事に気がついていますか?
罪とは、聖書の定義では、「神のトラーに違反すること」が罪であると教えているのです。トラーが廃れたら、無法地帯、罪の定義がなくなり、よってイエシュアも不要、恵も無用になるのです!
1 ヨハネ 3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。
罪は不法である。
<不法、アノミヤ=トラー=モーセの五書無し、罪は、モーセの五書に違反すること!と書いてあるのです。日本語翻訳では、はっきり
見えませんが、罪とは、トラーを違反すること!と、ギリシャ語では書いてあるのです。>
マタイ7:23 無法=アノモス アノミヤは、神のトラーを無視して
勝手は教えを基準に行動する人たちへの警告なのです。
イエシュアは、詩篇6:8にある内容を引用しているのです。
これはもう少し、解説が必要です。
マタイ7:23「そのとき、わたしは彼らに言う。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法=アノモス=トラー無しを働く者どもよ、
わたしから離れ去れ』」
テトス2:14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、
わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、
ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
<トラー=神の教えに違反して生きていることから、贖い出して!とかいてあるのです。>
不法 〜イエシュアは詩篇6:8を引用しています。
イエシュアが何を意味して警告しているかを知りたいなら、
ヘブライ語の「アヴェン」と言う言葉を調べる必要があります。
この節に「不法」という言葉があるのは、ギリシャ語の「アノミア」に由来しています。
ここでは「不法、神の教え無し」つまり神の教えに反するものが出てきます。
しかし、ヘブライ語にはもっと豊かな意味、背景があるのです。
詩篇の考えでは、「アヴェン」は邪悪な人の2つの要素を捉えて、
語っています。
詩篇6:8 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
1つ目は「問題」の概念です。私たちが生活の中で遭遇する試練や困難のような問題ではありません。
ここで語られている種の問題は、悪い選択から生じる問題です。
ヨブ34:36 どうかヨブが終りまで試みられるように、
彼は悪人のように答えるからである。
それは正義の道から意図的に離れることであり、私たちを悪い結果へと導く小さな誤った方向です。道=神の教え、トラーから外れることを実践する者は、決してイエシュアに歓迎されることはないのです。そしてそのようなことをする人、そのように人に教えて、神の言葉から意識を、行動を引き離すように教える人々は、大問題=トラブルを覚悟しなければならないという警告をイエシュアがしているのです。
全然、そのような意味に耳に目に頭脳に届いていないでしょう?
それは、今は何でも許されるなどと、免罪符みたいなことと勘違いしているからです。人は、悔い改めないならば、刈り取る結末があること、忘れているのです。
「アヴェン」の2番目の要素は、欺瞞から偶像崇拝への移行であるのです。これが、高きところの礼拝として記されています。
イザヤ66:3 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者は、また犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血をささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。
例えば、嘘をつくことを実践するなら、それは偶像崇拝者となるのです。神の教えをのどの箇所でも違反して良いという意味は、
神の創造されたデザインと反することをしても、大丈夫だという
危険な思想なのです。
神の言葉を、偽証することは、嘘つきになります。
続く