神を愛する人は神の仰せを神に言われた通りに生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1日は、夕方から始まります。この意味することは、聖書を読んで

いると見えてきます。人は神が備えた神の完了の業の全てから生きるようにデザインされ造られていることが、分かります。

神の言葉、教えは全部1つとして繋がっています。ですから、人間が

神の言葉を分解したり、書いてある事実を変えてしまったら、神の

伝えている意味を理解できないままになるのです。

神が人に取り全て必要なものを、最初から全て備えてこの地上での

歴史を稼働、スタートされたからです。

欠けるもの何1つとして無い状態から、この世界がスターとしたのです。その意味は、全て永遠の中に備えられている、イエシュアの贖いも、救いも、罪の許しも、人が生きる全て必要なものも、全部完成

されて地上に現れたのです。

だから、異邦人神学が語るように、歴史線上に神の業、神の性質が

時代ごとに変化する、古代の人は不完全な赦し〜免罪符の生贄で与えられたとか、神の律法を生きて、かろうじて義とされていたと言う

肉の発想思想の異邦人の教えが、神の性質、神の創造された世界の

性質、人間の生き性質とは異なることが分かります。

アダムとハヴァと私達が、人間の構造として、どう違うのですか?

同じでしょう。同じDNA、ずれたら傷つく、感情もある、神が内側に住まう必要がある、同じ!画像がないから、何か違う人間が生息していたなどと、考えませんか?同じです!

神は変化しない!人も進化、変化しない!神の人への関わり、アプローチも最初からずっと同じなのです。太古など、神が直接人に語りかけているではないですか。

彼らの方が、神とより深い密な関係にあったのです。

変化しない神の性質と神の言葉を、変化、進化したというのは、

異邦人の空想仮説であり、聖書に記された神の性質、神の言葉の性質人間の性質ではありません。

1日は夕あり、朝ありとある通り、休むことから、始まります。

シャバットの安息から全てを生きる。安息とは、物理的にも心地よい

人にピッタリ完璧に合っている状態です。

これは6日間で、神がこの物理的世界の全てを造られ、完了し、

そして第7日目に止まり、神と創造物全てが揃った完全な状態で人の

生きることが始まったからです。

金曜日の夕方になると、止まるモードになるでしょう?理屈抜きに。

人間には、神が創造された「時』を塗り替える、勝手に支配できる

力も、権威も与えられてなどいないのです。

自分が考える良いとしていることで、実は神の教えを退ける冒涜をし、神の言われる事が理解できないまま、自分よがりの聖別、

礼拝をしている警告が、ずっと聖書には記されているのです。

それは、人間由来であり、神はそれらを拒否しているのです。

カインとアベルの行動を見ても、それ以降の警告でも、理解できます。

創世記 4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。

 4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

神は人間が神の教えを退けて、自分の発想で作り出した高き所の礼拝申命記13章にある、別の神々の教え〜イコールそれは、人間の考えついた教えで、イスラエルの神を拝む違反に対しての警告なのです。カインの罪も、アロンの息子、ナダブとアビフの罪も同じです。

神が言われた通りにしていない!その事こそが、ずれているのです。

 

レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、

10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

 

<神に言われた通りの神が下した火ではなく、自分の手で起こした火〜異火でコルバンを燃やして祭壇に捧げた。どうして?神に言われた通りにしない、人間が神の権威の上にたつ、ズレなのです。

これを、宗教の教えはずっとやっているのです。>

 

祭司は何を教えなくてはならないのでしょうか?

レビ記10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、

10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

 

それが、神が創造された時、人間の生きるデザインだからです。

神が時を造られ、特別な時〜アポイントメントの日、呼出日を創造されたからです。

7日がテーマです。「完結、完全、完了」がテーマです。

神の造られた全ての中のシャバットの安息から、全てが始まることが

書かれています。

この「7」という大事な実態、テーマを異邦人は、1に塗り替えてしまいました。神が伝えた永遠の事実を、異邦人は違反し、塗り替えた!罪です罪。聖書を注意深く読んでいくと、7というテーマと、

神のアポイントメントの日=モアデイムはぴったり繋がっています。

そして、修復の年、7年目シュミタ年、7年を7回繰り返す50年目、ヨベルの年。全て元の状態に戻る、負債がチャラになり、全てが

元の主人の所有に戻る。売られた土地が、元の所有者の手に戻る。

負債で使用人となっていた人も、希望すれば、仕えている主人の家から、自由になれる。でも、その家に仕え続けたければ、その選択も

可能のです。奴隷ではない、使用人〜負債が払えないから、労働で

支払うために与えられた制度なのです。

 

これは、イエシュアが地上でされた業とぴったりしている年でも

あります。全部テーマが7。

エデンから出て、エデンに戻るが、神の定めた「時」の中で表されて、教えられているのです。神の教えを捨てていれば、真実は見えないままになります。

神の祭りもシャバットを中心に、全て「7」がテーマです。

シャバット、7日目。第一の月の7日を2回過ごした次の日が、

「過越の祭り」過越の祭りから7日間が「種無しパンの祭り、除酵祭」と訳されていますが、それが何であるのか、全く知りませんでした。その7日の間の真ん中が、「初穂」呪われた大地の呪いから、

イエシュアが復活し小麦の初穂として、神の前に捧げられたのです。

本物の麦と、毒麦で表されているでしょう。初穂=ビクリムの日に

イエシュアは復活されたのです。種無しパンは、罪削がれて新しく

された人を教えているものなのです。

そして、過越から、7週間後が、シャヴオート〜婚姻契約をシナイ山で与えられた春の最後の祭りです。

この春の祭りの預言は、地上で実際に既に実現した祭りです。

そして、秋の祭りは、再臨の一連の祭りなのです。

第7の月の1日〜新月の日に、王の到来を告げ知らせる、ショーファーを吹く日。10日が大贖罪日、そして1日から7日を2回繰り返して

7日間の「仮庵の祭り」第8目の記念日は、イエシュアが統治する時代が始まる祝いなのです。

 

創造主がデザインされた記念日は、イエシュアの業、福音を完璧に

網羅しているのです。

異邦人は神の記念日、祭りの方捨てて、人間が作った宗教の記念日を尊重しています。人の作ったものは不完全であり、神の仰せではない人の教えだけを生きていれば、聖書に記されている奥義は見えないまま、実践もされないので、実際に生きて学習し、神と出会う機会を

奪われているのです。

ノアの洪水は、最初の創造を再度繰り返していることが表されています。そして、そこに書かれている日が、神のモアデイムと合っています。そしてずっと7日目がテーマです。聖書を読むと最初から、

人は神の言うことを退けて、別の声を聞き続けていること、これは

神からの警告ですが、それが記されています。

ずっとそうです。なぜ人は神の言われることが嫌なのか、退けたいのか?

神に創造されたに過ぎないけれど、自分の知恵の方が神の知恵を

うわまる、優れていると密かに考えているから、神の言葉を退ける

ことが、正義だと思いこんでいることが、ずっと記されています。

 

その結果、全部神の創造、デザインを破壊、崩壊、愚かしいに導かれてしまうのです。

神はある時は何も言わずに、人間のすることを放置しているかに見えます。イスラエルの高きところの混ぜ物の礼拝=宗教を1000年近くも何の介入、裁きがないままで、人々にそのままにさせています。

神の約束を待てないサラは、召使のハガルを通して約束の子を得ようと、自分の考えで神の言われた言葉を信じ続けるのをやめました。

その結果どうなったか、「争い、戦い」が家族内で起きました。

そうです。二人の妻なんて、あり得ません。

重婚は、神のデザインではありません。そのようなことをしなかった

イサクには、複雑な問題はありませんでした。

でも、その子供のヤコブには、騙されて背負わされたレアがいて、

ラケルもいて、様々な問題があったのです。

でも、神は何も介入されず、人間のズレの代償を負わせているのです。

私は18年前迄は、キリスト教という教えしか知りませんでした。

新約聖書だけを主に翻訳で読み、日曜礼拝、クリスマス、イースターだけを祝い、古い箇所〜旧約聖書と異邦人がタイトルつけた箇所は、

古い律法の教えで、怒りの神が記されていると教えらました。

確かに、歴史の中では、神の教えに反した生き方をしたイスラエルに

厳しい結末が与えられている記録が記されていますから、

こわ〜い神様がいたんだね〜という印象になりますよね。

そして、世界で起きている出来事だけみたら「神などいない!」

と思うのが、肉の目から見た感想です。でも、事実は違うのです。

 

神の立場、神の目から見てください。人がもし、神に伝えられていることが分からなければ、無法地帯〜アノモス〜神のデザインを破壊する、その意味は人が破壊されるほどの危険が、危険とも分からない

無感覚、危険状態になるのです。

放射能と同じ、その時触れても、臭いもない、何も感じないけれど、後から体が破壊されて気が付く、それと同じです。

1つは、神は人を縛る教えをしていた〜呪いの律法、人の生きられない律法を与えたと、クリスチャンは教えられています。

でも、事実はまるで違います。神は神の創造された世界と、神の似姿に創造した人は、何を生きるように造られ、何を生きるように造られていないのかを教えているだなのです!創造主からの直のマニュアルです。

クリスチャンは福音書以降だけを読んで、そこに書かれた教えが、新しい教え、新しい契約だ!と勘違いしています。でもその箇所は、

契約書でありませんし、契約書であれば、不完全な契約書です。

なぜなら、神の教えの全て、人に必要な教えの全てなど、全部記されてなどいないからです。

そして、福音書以降は、預言者が記した書ではありません。聖書は

もう既に、マラキで完結しているのです。モーセの五書が神の教え、約束、契約書の完全版です。ヨシュア〜マラキはモーセの五書を解説しているものなのです。最初の聖書の75%で完結しているのです。

そして、最後の部分〜福音書以降は、同じ契約が、エレミヤ31章、再更新された同じ婚姻契約が、イエシュアにより教えられた記録であり、使徒は同じ契約が、世界の四隅の全ての民族に伝えられる記録であり、書簡は、トラー=婚姻契約の知恵を生きることが解説されて、

黙示録は、最後に全世界の全ての人に神の婚姻契約が、知られて、

理解される記録なのです。聖書の最初の75%に対する、短い短い

解説、註解に過ぎない書であり、預言者ではない、使徒が書いた書簡なのです。聖書は、預言者達が書いたのです。そしてその箇所はもう絶対に変わらないのです。使徒により、預言者が書いた聖書の解説、それが福音書〜黙示録なのです。

キリスト教の教師、牧師が、イエシュアによりモーセの五書の束縛から自由に解放されたので、今は十戒、神の教えは生きなくて良いんです!と一般的に教えています。

モーセの五書=聖書=聖霊=イエシュアから、解放されましたと

言っているのです。その主張、教えは、神の言葉、教えに真っ向から敵対する、違反した思想を堂々と述べているのです。大衆がその思想を信じて、支持しているからです。そして、神の言葉が廃れたという嘘を信じている人には、神の言葉を否定する罪=死に値すると神が

教えていることさえも、理解していないのです。

無学〜神の教え=トラーを知らない、心の定まらない=何を信じて

言っているのか、不確かな人の教えを聞いても、そこの真実はありませんから、聖書に戻る事をしなくてはならないのです。

 

2ペテロ 3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。

その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

 

続く