冤罪 偽証の嫌疑を吹きかけられたイエシュア ペテロ ステパノ パウロ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人間が作った宗教、人造西洋宗教=神の言葉を否定した土台の宗教は神の言葉に照らし合わせると、神の言葉と神学の教理は、全く辻褄が合わず、支離滅裂な分裂思想です。

聖書を1枚の紙のページで2つに分断して、旧約、新約聖書と書いてあるので、あたかも2つ別の教え、2つ別の契約が存在していると

勘違いしてしまうのです。そんなタイトルも、ページも人間が編み出したものなのです。不要、要らないもの、元々聖書に挿入してはならないものなのです。

異邦人クリスチャンの世界で教えられている教え、教理は、聖書で

はない人の編み出した思想土台としている事に、まず気が付かないとなりません。

それは、1世紀後半に入り込んだ、偽の教え、ローマ帝国の勅令の

モーセの五書捨てよ!トラーを実践すれば、死刑!というその勅令のせいです。神は神の教え=トラー=モーセの五書、婚姻契約を捨てよ!終了せよ!などと決して永遠から永遠に渡り言いません。

神の言葉を、蔑ろにするように教えるものは、神の国で一番意味無し

羽より軽い存在になると、イエシュアも警告されて言われたでしょう。マタイ5:19

そして極め付けは、パウロが手紙で書いている内容を、完全に誤解して読み込んでいることです!それらの間違い、ズレた読み込みを

神の言葉が変わった根拠としているのです。どうしようもない誤りの聖書解説が施されてしまっているのです。2ペテロ3:16にある、

トラーに無学で、頭脳が定まらない人が、勝手な解釈を、神の言葉、聖書の箇所、そしてパウロの書いている内容に施している!という

ペテロの警告その通りのことが今に至るまで起きているのです。

神の言葉が廃れたという人間の思想を信じる人には、神の伝える永遠普遍の教え、罪の定義の基準も見えないまま、通じないまま、罪を

罪だとも神の言葉から認識できないままいるのです。

パウロがモーセの五書を塗り替える新しい教えをしていると、本気で信じて、そのように聖書を読んでいるでしょう?イエシュアが神の

言葉など変えない!と言っているのに、その言葉がクリスチャンには全く通じていないのです。

神の言葉は完全であると書いてあります。完全は完全。それ以上、

それ以下もない完全。完結。罪の縄目の法則〜ノモス=律法の下から

解放されたとは、トラーに記されている罪の法則=律法から解放されたのであり、神の言葉から解放されて自由に生きる、その生き方は、防御服を脱ぎ汚染された空気や水を体に取り込む危険と同じことです。

神の言葉を捨てた生き方を、無法=トラー無し!と聖書には書いてあるのにクリスチャンには、その翻訳の言葉が、元の言葉の意味通りには通じていません。

無法=アノモス=神のトラー無しを生きる人への警告!わたしと

あなたとは婚姻契約=トラーに記された生き方、関係にありません!

とイエシュアが言われた言葉を、イエシュアが言われた意味通りに

理解すれば良いのです。

夫が妻に伝えた言葉を捨てて、赤の他人の言う事の方を聞き入れ、

好き勝手に自由に生きる妻、そんな妻の行動は、私の妻の生き方ではありません!とイエシュアは言っているのです。

律法主義とは、神の義、救い、贖い、聖霊を自分の行い、手柄で得

ようとすることです。そんなのは不可能。

馬に馬車を引かせるのに、馬の前足に馬車を繋げて前へ進めないようにする、それと同じです。やっていることが逆。

信仰により義とされる、子羊の血の購いを信仰により受け取り、

新しくされ、罪の代償を支払われて、罪注がれ、そして聖霊=イエシュアを内側に受けた、それは信仰によること以外、可能ではないから、それを人の努力でやろうとするのは、ズレていると言っているのです。最初に新しくされている事実がなければならない!始まらない。

でも、新しくされた人は、内側にイエシュアが住まわれているから

イエシュア=トラー、神の性質通りに生きる!それが、救われた人の

本当の生き方であり、神の栄光を地上でそっくりそのまま反映する

生き方であると教えているのに、クリスチャンに浸透した教えは

厳しい律法から解放された!自由になった!と、神の教えから解放されたから、自由に生きよ!または福音書以降だけを生きよ!

でも福音書以降には、100%モーセの五書の教えの少ない短い抜粋しか書かれていないのです。神の教えの抜粋、不完全版の教えである事にも気がついていないのです。しかも、引用は全て、モーセの五書

少数の預言書。聖なるものとなれ!という意味、理解していますか?

神が創造された通りの生き方を、食を通して教えている箇所を

1ペテロ1:16は、レビ記11章の食を通しての聖別をペテロが引用しているのに、クリスチャンには、神が語る教えの本当の意味は通じていないのです。

神の教えの全ては、モーセの五書に完全版として記されているのに

そこを知らないから、後書き解説だけをちょっと読んでも、何が書かれているのか、本当の意味は見えません!

聖書ではない教え、神の教えは終わりという人が作った教えを、

クリスチャンは、神の教え、聖書だと信じてしまっているのです。

神の言葉を捨てて、そんな無法地帯を生きよという教えは、聖書の

どこにも書いてありません!神は神の教え=トラーをしっかり頭脳に刻み、右へも左へも別の教えに逸れるな!と教えているのです。

その思想が、今のような破壊の生き方の世界になって、牧師が、聖書を否定〜聖書を疑え!と教えている。ずれ、罪の道に導かれるのは、神の言葉の一点一画でも否定する思考回路どのみち同じなのです。

そして、なんでもあり!神の前に罪を犯してOKと教えているのです。

クリスチャンの牧師は、罪の定義を無視しています。だから罪が罪とも見えない、理解していない、分からないままなのです。神の前に何が罪か分からないまま、ずれている、聖別を汚していても、全く何も感じない、気がついていないのです。終わった教え、罪の定義も終了と信じているからです。

危険な思想=人間の編み出した宗教の思想なのです。

次に使徒行伝の中に書かれている内容を、クリスチャンは使徒達が

モーセの五書とは別の新しい教え、新しい福音を伝えていると考えていますが、そんなことは、聖書に1つも書かれていません!

それどころか、イエシュアを信じる全ての人達も100%モーセの五書に忠実に生きていたのです。それを見ていきたいと思います。

 

使徒行伝を読むと、どうして当時の人々が、使徒やステパノ、ペテロ、パウロがモーセの五書に反した教えをしているという、嫌疑をかけたのか分かります。

そして、クリスチャンが理解しないとならないのは、イエシュア、

使徒、パウロが、モーセの五書とは違う教え、新しい教え、新しい

福音を伝えているというのは嘘!それは嘘です。

彼らは、モーセの五書=トラーとは異なる、またはトラーを否定する新しい教えなど1つもしていません。それならば、その罪は、石打ちの刑に相当し、処刑されるのです。でも当時のあるユダヤ人の中で

彼らが今までとは聞きなれないトラーの解説、そして伝統の教えとは違うこと、彼らの先祖の言い伝え=人間の教えをを生きなくて良いという発言や行動が、彼らには神の言葉を違反しているように映ったのです。

クリスチャンの中で、もしイエシュアを信じる日本人が、日曜礼拝は

聖書に書いてあるシャバットではないから祝わない、クリスマスも

イースターも聖書には書いていない、神の祭り、神の仰せではないから祝わない、聖書に書いてある神の記念日、シャバットを第7日目に

祝い、新月や、神の祭りを祝っていると言ったら、途端に異端認定、キリスト教の思想では、古い教えに戻る恵を捨てた生き方だ!となるでしょう?

それが聖書に書かれた神の教えなのに、事実が見えていない。

なぜなら、クリスチャンは神の言葉ではない人間が作った宗教の伝統文化、儀式、記念日を神の言葉の方を捨ててを生きているから、

聖書に書かれた永遠の事実が見えないままなのです。

神の教えでは、きよくない、食してはダメな動物を食する事は、今も神が伝えるきたない清掃動物、汚らわしい行為、〜罪であり、神の宮である自分の聖別を汚す行為であり、神が最も忌み嫌うと教えているのに、神の教えを理解し、神の前にズレたこと、デザイン、性質に

反する事をしないと教えられているのに、クリスチャンは、「恵みの時代、祈ればなんでもきよいのだから、感謝して受け取る事をしないのは、恵を捨てた生き方をする人だ」と映るでしょう?それこそが

2ペテロ3:16で警告されている、神の言葉を理解していない人〜頭脳、心が定まらない、無学=トラー=神の教えを知らない人が、

考える教えなのです。

その発言こそが、異端=聖書とは真逆の思想であるのにも、全く気が付かず、自分たちとは違う事をする人たちが、異端の教えだと思い込んでいる。

それが、1世紀のイエシュア達がしていた生き方であり、神の創造

された記念日を祝っているのにそう受け取られる、そう言われてしまうのです。それと全く同じ事が、1世紀の使徒行伝に記されている内容なのです。

1世紀当時のユダヤ人、彼らの伝統の教えを生きない人、自分たちの編み出したやり方で、あれこれしない人、イコール神の言葉を破っている〜!でも、事実は違います。イエシュアも使徒も、ステパノも、後にイエシュア信者になったパウロも、100%モーセの五書に忠実に生きていたのです。これを、クリスチャンは全く理解しないで、

新しい教えを伝えているのに、当時のユダヤ人が受け取らず、反発していたという無理な解釈を施しているのです。

 

1)モーセの五書=婚姻契約=父の教え=トラーに記されたことを、

イエシュア、使徒、ステパノが破っていたという嫌疑がかけられていたのは、よく読むと、時のリーダー達の妬みから、大衆に使徒達が

神の教え=トラーを破っているという嘘のうわさを垂れ流し、それをh人々に伝えた下りが書いてあります。

使徒達は、明らかに聖霊により特別な力を受けて、彼らにトラー、

そして、トラー、預言書、諸書に記された約束のメシアがイエシュアである事、そして福音の奥義をタナックに書いてある意味通りに、神の権威を持って語ったから、妬ましかったのです。

自分たちの解説がしょぼく聞こえる。

イエシュアなど、群衆がイエシュアの行く先行く先、ゾロゾロついて来て、イエシュアが弟子達に語る教えをこぞって聞こうと、熱心に

イエシュアに着いて行ったでしょう。

新参者のトラー教師に、人々がこんなにもまでも、彼の語るトラーの解説に引き寄せている!お偉えい先生方は向っ腹たったのです。

しかも、彼らの間にあった伝統の教え=口伝律法=先祖の言い伝えをイエシュアは蔑ろにしてる!いや、人の教えなんて、そんな無駄な

厳しい縄目生きる必要などないと、当たり前、当然のことを、

イエシュアは教えていただけです。中身が空だからです。

神の教えではないものは、中身は空で、意味ないからです。

頭きますよね。そんな新参者の若い教師が、私達お偉いラビ、教師を差し置いている!権威を持って語っている、それ理解できるでしょう。事実は、イエシュアも使徒も誰も、神のトラーを破った教えをしていません。前の記事に遡り見てみます。

 

使徒6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を

使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。

<この1世紀当時のイスラエルでも、ギリシャ語しか分からない人、

そして、ヘブライ語を理解するユダヤ人がいたのです。

パウロは、ギリシャ語もヘブライ語もそして、生まれながらの正当な

ローマ市民でもあり、最高峰の教育を受けていた人です。

だから、異邦人の中で、ヘブライのトラー教師、プラスギリシャ語も

分かる、七十人訳に記されたギリシャ語、そしてギリシャ人の家庭の

裕福な家庭の慣わしのたとえを通して、ガラテヤで、トラーに関して教えているのです。トラーは、神の元に導く役割もできる、その側面もある。一旦神に出会った人は、トラーに記された神、メシアに出会うので、神に出会うという、その側面の役割は終わると書いてあるのが、ガラテヤ3:25です。養育係の下にいない、養育係=ペデゴーゴ

その役割は子供を教師の元に連れて行く役割があります。

神に出会う、神に導くという役割を、養育係で表しているのです。

1月8日にこの記事をUpしたので、参考にして頂けると嬉しいです。下矢印

ガラテヤ3:25 養育係の下にいないとは

それを、パウロが解説している背景を知らず、トラー=神の教えが

終了した!などという早合点で読んでいる場合、パウロの解説していることが、全く見えないまま、別の教えを作り出している箇所です。

 

6:2 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。

 6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。

祭司達も、モーセ、預言書、諸書=タナックに記された約束のメシアが、イエシュアであるという事実に目が開かれたから信じたのです。よく考えてみてください。1世紀当時のイエシュア信者は、ほぼ

ユダヤ人だけで占められていました。数百万の人が信じたと言われています。彼らは、100%モーセの五書に忠実に生きている、学んでいる事実が、ずっと記されています。

そして、神の教えは、モーセの五書以外にない!という、永遠の事実を聖霊=言葉から気がついてください。モーセの五書=トラー以外の神の教えは、神が造られた世界には存在しません!!!

モーセの五書以外の教え〜偽教師、偽の教え!と書いてあるでしょう

はっきりと。神の言葉を否定する、イコール死に値する罪です。

それらに注意せよ!と、ずっとエデンの園から黙示録に至るまで、

同じ警告が記されていることに、気がついていないのです。

6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていた。

6:9 すると、いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々などが立って、ステパノと議論したが、

6:10 彼は知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった。

6:11 そこで、彼らは人々をそそのかして、「わたしたちは、彼が

モーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。

<ステパノは、神の教え=トラー、モーセの五書に反する教えをしているのではなく、モーセの五書をイエシュアと同じく、神の視点から天的解釈で人に話している、それに当時の人たち〜宗教〜人間の教え

に頭脳が洗脳されている人たちは、何も言い返せないかったのです。

そして、その腹いせにどうしたと書かれていますか?

ステパノがモーセ=神の教えと、神を汚す言葉を吐いた!という、

偽証をしたのです。これですこれ!人の妬みから来る、でっちあげ、そしてそれが、巷の大きな噂になってしまったのです。イエシュアも同じ、パウロも同じ、ペテロも同じ目にあったのです。イエシュアや使徒達が、神の教え=トラーとは違う教えをしていたという嘘を捨ててください!そして、イエシュア達が、モーセの五書とは違う教えをしていたというのは、1)彼らの解釈とは違う解説をしている、

2)当時のユダヤ人の間にあった先祖の伝統の言い伝えを破っている!実践して生きていない。それは人の教えだから生きる必要がないからです。馬鹿馬鹿しい教えで、人を縛っているものだからです。

迷信みたいなレベルの教えですよね。手洗いの儀式などは。

その結果ステパノは、どうなりましたか?

偽証により、冤罪がかけられてしまったのです。

神の言葉を破るとは、神の教えでは死に値する罪、石打ちの刑に

値するのです。

6:12 その上、民衆や長老たちやトラー学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。

6:13 それから、偽りの証人たちを立てて言わせた、「この人は、

この聖所とトラーとに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。

<この証言は、丸で嘘でしょう。ステパノは、トラーに反することも

言っていない、教えていない、生きていない。神の聖所、神殿に関する偽証もしていない。>

 

 

続く