パウロが書簡で書いている、ユダヤ人にはユダヤ人のように関わるとはどういう意味でしょうか?
トラー=神の教えを知るユダヤ人、そして、彼らの中に存在していた口頭トラー、口伝律法、それらはトラー=モーセの五書の神の教え
以外の、ユダヤ人が編み出したルール、掟、教えの数々、それらを生きている人達に、分かるように話す、関わる。
パウロは、話す相手により、神の教えを変化させよ!などと一度も
一言も言っていません。そんな冒涜は、異邦人ではない限り、当時のユダヤ人、ましてパウロは100%モーセの五書を支持して生きているトラー学者なのです。そんな馬鹿げた教えは絶対にパウロはしません!!
モーセの五書も、人間の編み出した口伝律法も、共にノモス=律法と
訳されてしまっていますから、ギリシャ語言語の下知識が無いまま、パウロの書簡を翻訳聖書だけ読んで、そして、置換進学や、デイスペンセーション神学のように、人間の思想=神の言葉は廃れた!という異邦人が編み出した口伝律法から、聖書を歪めて読めば、完全に
パウロの書簡をどのようにも誤解出来ます。
そして、CMテニー氏のような新約聖書学者と言われる人が、
「使徒行伝は、神の言葉が変化する過渡期の記録である」などと、
神学校で使う教科書=著書で解説してしまっているのです。
神の言葉の進化論説=架空の教えを信じているのです。
学者にそう言われれば、一般の人はそれが本当と思う。テレビが言えば、それが本当だと信じるの同じ事。でも偽情報は、永遠に偽情報に
過ぎず、偽情報に騙される事はずっと続いているのです。エデンの園から同じ、偽情報に騙されるな!神の言葉を塗り替える教えに騙されるな!が、神からの最大の、そして、最初の警告なのです。
神の教えのどの箇所でも否定する思想では、聖書とは異なる、神の
言葉に反するどんな教えでも編み出す事可能になります。
それは、人が神の言葉を、今は自分の意見で、勝手に変える、削除して良い、受け取らなくて良い、自由にすれば良い、又は、関係ないから生きなくても良いと教えるからです。人間主体、人間至上主義。
人間が神の上に居座り、神をコントロールする思想です。
一般的なクリスチャン教師が語る思想を、前の記事で書きましたが
読めば読むほど、神の言葉を理解する人ならば、これがどれ程
神に対する冒涜の発言であり、完全に聖書から逸脱している、
そして「一体自分が何を言っているのか、分からないのです!」という思想そのものなのです。
「パウロの語った福音の一番の特徴とは、「モーセの律法からの
自由」を説いたことでした。律法を守らなくてもいい、ということを
パウロは語ったのです。これは驚くべきことです。律法の中でも
一番大事なものは十戒ですが、皆さんは十戒を守らなくても良いのです。」
本当に酷いですね。パウロがそんな事言ってもいないのに、言うわけなどないのに、あたかもパウロが言ったと言っている偽証!
そんな事聖書にも書かれていない。このように、聖書に書かれていない事を書いてある!という、こういう聖書解説は、気がついた人が
訂正する、自分の中で、正しく聖書を解釈する軌道修正をしなくては
ならないのです。パウロの書いた内容を、クリスチャンが正しく
教えられていないからです!
このような事を語る場合に、先ず神の言葉は、100%モーセの五書
トラー=神の教えを土台として語っている事実に盲目な事が証明されます。
そして、十戒とは、ヘブライ語で「10の言葉」であり、10の項目で聖書全体のタイトル、要約を、先ず伝えているのです。
そして、モーセの五書全体で、この「10の言葉」の意味を解説しているのです。
全部をいっぺんに伝えられない、伝える時間もないから、先ずは
この書に何が記されているかの項目だけを伝えましょう!
それが十戒=10の言葉なのです。だから、10の言葉のどれをも
今は人の選択で生きなくて良いという思想は、神の言葉を完全無視した行為であり、それぞれの人が思いつく考えを生きて良いですと神が言ったという、嘘になります。そんな事など、聖書のどこにも書いていないどころか、上記のような思想、発言、行動を、神は断固として禁じている事に、全く気がついていないまま、結局神に反抗する思想を、それが正義、恵の教えだ!!!と信じて語っているのです。
悲劇です。なぜなら、神の言葉は人を守る安全な囲い、鎧兜、要塞
だからです。だから敵に侵入されっぱなしなのです。
その綻びは、神の言葉に対して真っ向から信じない、神の言葉の方を疑え!LGBTQは賛成!など、神の言葉からどんどんどんどん引き離す
人の意識を神の言葉から離れさせる思想を、牧師が語ってしまって、人を誤りの教えに導き続けているのです。だから、神は右へも左へも、神の教え=トラーから離れるな!命の言葉=トラーをしっかり握り離れないで生きよ!と教えているのに、神に敵対するものの声は、神の言葉から離れよ!離れよ!と教え続けて今に至るのです。
狼の声を聞くなかれ!本物の羊飼いの声=神の言葉に留まる!
それでは、神の言葉、聖書の事実ではなく、そのような思想を編み出した西洋教父達から引き継いでいる人間の思想を語っているだけなのです。
柱、土台のどの部分でも曲げたら、その上に建つべき建物は崩壊、
歪み、ピザの斜塔になります。実際にそれが起きた、起き続けているのです。
それらの思想は、聖書には書かれていませんし、もしもそんな事を
言うならば、ヘブライの世界の人にはその教えがどう響くと思いますか?
神に対する死に値する冒涜を語っている、それは神の教え、言葉ではない!と認定されます。偽教師、偽預言者認定されます。
使徒21章に書かれている事をよく考えて下さい。聖書に登場する人たち、預言者、残りの民、イエシュア、使徒、当時のユダヤ人や
イエシュア信者達は、皆100%モーセの五書を支持して、生きていたのです。
イエシュアを信じる人は、神の教え、み言葉、福音とは、モーセの
五書に記された教え以外には何も他にない!という事実をはっきり
聖書から再確認しないとならないのです。
ユダヤ人にはユダヤ人のように〜トラーを知るユダヤ人、そして口伝律法のしきたりを同時に神の言葉の他に生きているユダヤ人たち、
そしてギリシャ人にはギリシャ人のように、詰まり先祖代々生まれた時から、神の教えを知らない異邦人には、異邦人が分かるようにと
いう意味ですが、今の時代の西洋宗教の教えを信じる異邦人達には、
又は、デイスペンセーション神学にどっぷり浸かった、諸外国にいるユダヤ人メシア信者にも、聖書に書かれている永遠の事実が通じなくなっているのです。
なぜなら、聖書のある部分の真理は知っている〜子羊イエシュアの血の贖いにより、罪が取り除かれ、罪の責めから解放され、そして
新しくされ聖霊を受けた。聖書の最初から記されている、救い〜イエシュアの贖いの事実は知っていても、その他の聖書解釈、聖書概念が、神の言葉が終了した!という、聖書とは全く関係のない異邦人が
作った思想を土台に、聖書の全てを考えているから、ずれている!
事実とは異なる事を語り続けて、聖書に書いてある事実が通じなく
なっているのです。
神の言葉は変わらない、廃らないと口では同調していても、結局上記のように、モーセの五書〜神の教えから解放された!などと信じているので、これこそ1世紀の中にあれば、「異端思想」と判定される
教えが、当たり前のように横行し、浸透してしまっているのです。
使徒行伝は、神の言葉が終了し、西洋人が作ったローマ・カトリック
教という教えに移行する、いわば猿から人間に進化する変化が書かれていると聖書学者MCテニー氏が解説していますが、それは聖書解説ではなく、人間の思想哲学解説をしているだけ、聖書の事実などでは
ありません。
では1世紀のイエシュア信者達は何を考えて、何を信じ、何を実践して生きていたと聖書には書かれていますか?
聖書に書いてある事実を、勝手に曲げないで読んでみて下さい。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは
異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、また
ユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
この噂のおかげで、パウロは、神殿に於いて、この噂は100%嘘!
パウロはモーセの五書に忠実に生きて、モーセの五書を正しく説いて教えていると証明したのが、この章に書かれていることなのです。
1世紀は、イエシュア信者の殆どがユダヤ人であった事実があるのです。聖書は、モーセの五書、預言書、諸書=タナックしか存在しません。そして、神の言葉の完全版は、モーセの五書です。その中に人の
生きる全ての詳細が記され、罪の定義の完全版が記され、そして
聖別の定義の完全版、プラス、神の創造された神が神の子らを呼び出しているアポイントメントの日の全てが記されているのです。
福音書以降の部分だけでは、それだけでは聖書の完全版にはなりません!なぜなら、それは、福音書〜黙示録は、聖書の最初の75%、
タナックの短い短い注解書に過ぎないからです。
預言者が書いた、最初の聖書の75%を塗り替える別の教えなど
書かれていないからです。使徒が書いた書!
最初の部分は、預言者が書いた書です。それが聖書の完全版です。
そして、大元=モーセの五書が神の言葉、教えの完全版。
ヨシュア記〜マラキは全て、モーセの五書の解説なのです!
福音書以降には、神の教えの完全版の全ては書かれていません。
神の教えを重複して書く必要がないからです。モーセの五書を知っている前提で書かれていて、ほんの少量の神の教えしか書かれていない、抜粋しかかかれていないからです。
だから、聖書の最後の部分だけ読んでも、神の教え、何を話しているのか、教えているのか分からないままになるのです。
福音とは、最初から1つしかありません。
さて、ここ21章に書かれている通り、もしも今の世界のクリスチャンの置換神学、デイスペンセーション神学思想を、牧師や教師、
そして、信徒が語るように、1世紀の聖書に記されている世界の人々にモーセの五書終わりありき!などという神の言葉に真っ向から反する事を、誰かが一言でも言うならばそれは、偽の教え!偽教師、偽預言者と即座に判定され、追放されます。ボコボコに叩かれます。
この使徒21章の箇所を読んで分かりませんか?
パウロが、トラーに背く教え、反する教えをして、割礼を禁じたり、しているのか?と噂されている!と、警告している件です。
今のクリスチャンの世界は、モーセに背く教えを堂々と発表して
主張いるでしょう。聖書に基づきその行為が何を意味するのか、全く分からないまま、何も違和感感じない、無感覚のまま。
異邦人には通じない、神の言葉を知らない、知らないだけではなく
神の言葉に背いて良いという教えをされてしまった人達には、
神が伝えている言葉が正しく通じなくなってしまっているのです。
異邦人には通じない、だから異邦人に通じるように、聖書を1から
正しく書かれている通りに紐解かなくては通じないのです。
聖書はヘブライの世界、ヘブライ聖書、神の教えが書かれていて
西洋宗教の教えが書かれているのではないのです!人間の作った宗教の教えは、聖書には書かれていません。同時に、ユダヤ人の間にあった口伝律法=ノモス=律法=人が編み出した教えも、タナックには
記されてなどいないのです。
神の教えではない、人間の思想や、考え、ルールを盛り込んだものが
宗教なのです。
ヨハネ12:39 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。
イザヤはまた、こうも言った、
12:40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。(イザヤ6:10)
ヨハネ12:44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
12:45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
12:48 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
12:50 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
永遠の中、エデンの園から語られている、太古から語られる、永遠から語られている同じ福音です。
当時のユダヤ人が、イエシュアがタナックに記された約束のメシアであることに気がついた人達が、大勢イエシュアを信じたのです。
使徒15章にあるように、1世紀はパリサイ派が主流ですから、
その人達がイエシュアを信じたのです。
ここで、イエシュアが「言葉」、父の言葉、仰せと言ったらそれらは
100%モーセの五書に記された教えであり、モーセの五書、
預言書、諸書に記されたメシアであることを話していることは、
理解できるのです。でも異邦人はそうではないのです。
なぜなら、イエシュアが語る教え、言葉と聞いても、それがトラー=
モーセの五書であるという事実にクリスチャンは繋げられないまま、イエシュアが別の教えをしているのだ!と思い込む、それは福音書以降には、イエシュアが来られる迄聞いたことがない、福音、救いが
初めて語られていると勘違いしているからです。
全ては、既にタナックに記されているのです!イエシュアはタナックのページ全体で語られているのです。
だから、ユダヤ人はずっと約束のメシアを待望していた、得に神の
ハギム=祭りにメシアがエルサレムに現れると待っていたでしょう。
続く