私達異邦人が一般的に聞いている教えは、純粋な神の言葉、聖書そのものの、その通り、神が語る言葉そのままの真実ではなく、2世紀
以降に異邦人が作った、得に4世紀以降にローマ帝国により作られた、ローマ教、カトリックの教え、その宗教が作った教え、伝統文化、しきたり、儀式、記念日、思想を教えられているのです。
それらは、聖書に記された神の教えでも、記念日でも、儀式でもない
ものばかりです。
でもそれらの聖書ではない、宗教の伝統文化を生きていることは、
クリスチャンでさえも、聖書を読みながら全く気がつけないままであり、それらが昇天以降の、神の教えだと思い込んでいるのです。
聖書のある部分を、自分たち流の教えに変え、自分たち流の儀式に
変え、そして、神が創造された記念日も丸ごと、自分たちの作ったものを祝うことに変えたのです。
聖書の記念日は、レビ記23章にあるものが、神のモアデイム、神が
聖別された神が神の子らを呼び出しているアポイントメントの日で
あり、それらが主日、聖日です。
これはイエシュアが再臨された後も永遠に祝われる「わたしの記念日」神の子らが、神との関係に入っている証拠として与えた契約の「印」として神が人に教えています。
それらは、シャバット、新月、過越、種無しパンの7日、初穂、
そして、シャヴオート。秋は、ショーファーを吹く日、大贖罪日
そして、仮庵の7日間です。
これらは、イエシュアの業を網羅する福音の中核を教えているものであり、同時に歴史の中で実際にイエシュアの業が地上で表された、
これから表される預言的祭りなのです。これら神の本物の呼出日、
記念日がいつなのか、何なのかを、クリスチャンは知りませんし、
教えられもしませんし、よって祝わない。その理由は、ローマ帝国が神の教えを生きることを禁じて、西洋教父も同意し、神の記念日を
捨てた教えが、異邦人信者の間で継承され続けて来たからです。
だから、聖書を読んでも、仮庵も、過越も、種無しパンが書いて
あっても何のことが書かれているのか分からないまま、字面を素通りで読んでいるのです。
一方、聖書に記されていない、神の仰せ、神が聖別された日、記念日ではないものは、宗教〜人間が編み出した記念日です。
それらは、日曜礼拝、クリスマス、イースターです。
それらは、聖書に記された神が定めて命じている聖日、記念日では
なく、人間が作った宗教が作って決めた記念日なのです。
その永遠の事実を、はっきり聖書から確認する必要があります。
いつ、どこで、何人と集おうと、それも、交わりでありますが、
それは、神の定めた日の神の聖日とは別の目的の会合です。
それらは、神が定めたシャバットや、モアデイムとは
異なる!という事実があるのです。
神の定めの日には、神が神の子ら全員を呼び出している日である事を聖書から知ってください。
人間が呼び出した日は、神が人を呼び出して出会う日ではありません!
主は内側に居られ、私達も神の中に二十四時間いつも存在している。
でも神が特別な日を設けた意味がある!それを知れば良いのです。
特別な日に特別な目的、特別な出会いをしよう!と神が特別な祝福を持って出会って下さると約束したからです。
神が言われたことが重要であり、それ以外は神の言葉、教えではなく
人間が作った宗教の文化の習わし、教え、記念日というこの基本的な違うをはっきり理解すれば、見えます。
クリスチャンは、神の仰せはしない、生きないで、西洋人〜人間が
作って決めたものを選択し、継承し、実践しているのです。
聖書、神の言葉ではなく、宗教の教えを選び、生きているのです。
カトリックではその他もろもろの記念日がありますが、それらは、
宗教の記念日です。万聖節も異教徒の悪霊祭りをカトリック聖人の日として、変えた祭りなのです。
クリスマス、イースターは、その裏には異教の神々の祭りが存在して
異教祭りのシンボルや儀式と被せて作った祭りです。混ざっている。
クリスマスは、冬至の時期の異教神、異教徒文化の祭りがあり、
春の春分のイースターも、異教の女神の名であり、多産の女神なので、卵なのです。
過越の祭りの晩餐にする儀式を、聖餐式というものに変えた。
その他、神の教え、儀式を宗教が変えたものは以下です。
8日目に男の子に授ける割礼を、カトリックは幼児洗礼にした。
過越の祭りを祝ってその中でする晩餐の儀式、種無しパンと、四つの杯、それらは出エジプトの6:6−7に記された、贖い出された人たちを表すものです。
1)きよめ エジプト人の重荷から救い出され
2)解放 エジプトの束縛から救い出し
3)贖いの杯 伸ばした腕であなたを救いだし贖い
4)賛美 あなたをわたしの民として迎えた
という意味の儀式なのです。
イエシュアがされたのは、3番目、食後にする贖いの杯です。
そして、カトリックは、もちろん、イエシュアが言われた通り、代々、永遠に過越を皆で祝わうたびに、この儀式を通して、イエシュアがされた業を思い出してと遺言したのに、神の聖日、祭りを祝う!という部分は退けられてしまっています。
しかも、種無しパン〜罪が削ぎ落とされたことを表す、マッツアを
種ありパンに変えてしまって、マッツアで神が表している新しくされた人が、消されてしまっています。
日本人が毎週、お屠蘇を飲んで、正月を祝わないように、この儀式は
過越の祭りの時に行って意味のあるものなのです。
そして、パンをさいてとあるのを読んで、毎週聖餐式をしていると
言いたいと思いますが、パンを割くとは、シャバットの晩餐に集まり2日分のパンを表す、ハーラーのパンを割くということをしているのが、ユダヤ人の伝統の中にあるシャバットの晩餐の祝い方なのです。
神の記念日は、シャバットを毎週祝い、丸ごと1年を通して祝うように神がデザインされ神が神の記念日を創造されたのです。
もしも、パウロが警告したように、イエシュア信者達が偽の教えを
拒絶していたら、又はローマ帝国の迫害によるモーセの五書を生きることを禁じられた勅令に同調せず、聖書=トラーを教えるべき人たち、教師〜初代西洋教父達も、そのような神の言葉=トラーに敵対する思想に同調しなければそれが、起きなければ、聖書に書かれた通りの人々、昇天以降も同じようにモーセの五書=トラーを生きて、神の
創造された記念日を実践していたはずなのです。
ユダヤ人イエシュア信者と同じく。
異邦人は、神の言葉=トラーを奪われ、そして西洋宗教の実践に移行し、そして、パウロのようなトラー教師や、先祖代々トラーに根付いて生きてきたユダヤ人の群れと完全に決裂したから、このような状態になってしまったのです。
パウロの書簡は、それぞれの群れからの質問に対して、モーセの五書
トラーの知恵からパウロが、解決策を書いているものです。
詰まり誰かの電話の会話を又聞きしているように、相手の話していることがはっきり見えない状態なので、難しいのです。
そして、1世紀当時のその群れにあった問題、例えばコリントでは、
神の教えから完全に外れた、不品行の世界にイエシュア信者も生きていたことが記されています。使徒15章も同じでしょう。
エルサレムに居た異邦人イエシュア信者は、イエシュアを信じたでも
神の教えなどに何も馴染みがないから、気持ちだけはあっても
神に聖別された人はどう生きるのか、まるで知恵もない、神の言葉
トラーを知らなかったからです。
異邦人イエシュア信者は、信じた後も、異教神の神殿の祭壇に、
豚を捧げる、豚の血を飲む(神が禁じた動物を食し続け)そして、
動物をしめ殺すという苦しめる儀式をして、極め付けは、多産を願う儀式をするために、異教神神殿娼婦と交わる不品行までしていた。
これ、クリスチャンが読んで、異教の神の神殿に詣出て儀式をする
ということには、完全に抵抗し、神殿娼婦と交わる不品行も罪!と
分かるでしょう。でも、豚を食べる、血を飲む〜それが何?今は
なんでも食べて良いのだと、その部分は、神の言葉を完全否定し、
聖別を汚す行為〜罪である事を、15章の異邦人イエシュア信者同様全く理解していないと思います。それらは同様罪であり、聖別、神の宮を汚す行為だと知らないからです。なぜなら、神の言葉ではない、
神の言葉を否定、退け、曲げた人の思想を信じているから、神が伝えていることが聖書に書いてあるのに分からないのです。
プラス、パウロの書簡、コロサイ2章、ローマ14章、又はマルコ
7章、使徒10章のペテロの幻の箇所を読んで、神が清くない動物を
清いとしたという証拠が書かれていると勘違いしているのです。
この箇所は、解説しましたが、マルコ7章では、「すべての動物=
食べ物が清くなった」という文章は、翻訳者が勝手に挿入した原文にない付け足した文であり、ギリシャ語原典にはない言葉です。
そして、異邦人には分からない、神が神の言葉を否定する、神が罪であるとしたことを、神ご自身=イエシュアが言うなどあり得ない。
この言葉を聞いた当時のユダヤ人の誰一人として、神の教え〜トラーモーセの五書の教えが塗り替えるのだというような冒涜思想は
彼らの頭脳の中にはないのです。
イエシュアも、1世紀の人たちも、汚れた動物など口にしませんでした!それが、今のクリスチャンとは全く違う生き方をしているのです。それらは、神の前に汚れたおぞましい生き方であると、ユダヤ人は神の教えから知っていたから、そんなことはしない。
日本人が、ドブネズミ食べないというのと、同じです。
神が禁じたことをする〜神に敵対する行為だからです。
異邦人は、異教徒背景であり、神の言葉=トラーが絶対であり、
変わらないという、大前提の意識さえないのです。だから、平気で
神の言葉を人間が終了、破棄せよ!と主張し、そして、その教えに
簡単に乗っかって行ったのが、1世紀後半以降の異邦人イエシュア信者の群れであり、それが今に至るまで継続されてしまっているのです。
よくよく考えてみれば見えます。神=聖霊=言葉=イエシュアと
書かれている、神の言うことを人間が覆す、否定する、少しでも変える、別の教えを付け加える、差し引きすることを神が禁じている行為をしているのに、なぜその行為が神に敵対する行為、神に反逆する
行為であるとも全く気がつけず、無感覚なのか?しかも、それが今の世界の義、正義、恵みだ!などと、聖書に書いてもないことを、
イエシュアを信じながら、イエシュアが禁じたことをしているに
全く気がつけないのか?
それは、神の言葉ではなく、人間が作った思想を神の教えだと信じて、神の言葉を退けている結果であると、気が付かないと危ないのです。
ノアの時代も何百年もおぞましい生き方が蔓延り、そして準備のない人にとっては突然洪水になったのです。
ソドムとゴモラも一瞬にして硫黄の火の海で街が消えたのです。
神の忍耐は「長い鼻」というヘブライ語、長い鼻が怒りで鼻先が真っ赤になるには、だいぶ時間がある〜忍耐であるという意味なのです。
イスラエルとて、純粋にイスラエルの神を、混ぜ物の礼拝を通して
していたのです。
神は、長い間、イスラエルの高き所の礼拝〜混ぜ物の教えで、イスラエルの神を礼拝していたことに、介入してきませんでした。
神は1000年近くもそれを放置していたかのように見えた。
でも、人の熱心さなどは、そんなのは神の前には何も意味がない、
関係ない。大事な事は、1つだけ。
神が言われた通り、人は信じて、神が言われた通りをする。それが
神が伝える神を愛する行為、生き様だからです。
それが、神が創造された人間の本当の生き方であり、その生き方こそがヘブライ語で書かれている「礼拝」そのものだからです。
神が創造した意図通りを生きる、それこそが神の前の礼拝であり
生きることはキリスト〜イエシュアの性質通りを生きる!という意味だからです。
イエシュアが再び来られるまで、イエシュアが伝えた通りのトラーを生きて、聖別をガードせよ!と言っているのです。
1 聖別
2 イエシュアが来られる迄の忍耐
2ペテロ3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、
無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
この箇所で、ペテロは、パウロの手紙のところどころは、「わかりにくい箇所」があると言っています。
どういう意味かというと、パウロが書いていることが支離滅裂で
パウロの思考が機能していないという意味ではなく、パウロが書いている「内容を理解するのが難しい」δυσνόητά デイスノエタという言葉が使われています。
パウロの手紙で書かれていることが、ところどころ分かりにくいから、「無学で心の定まらない者」とは、モーセの五書に関して、
無知であり、何が神の言葉、教えなのかよく理解していない人〜心の定まらな人たちが、他のトラー箇所に関しても、同じように、
無理な解釈を施している!
その通りのことが、起きているではないですか?!神の言葉を否定する、それは神の教えに対して、無知、無学であり、頭脳、思索が
神の真理から、ズレている、ぶれているからです。
教師、牧師が、「パウロの語った福音の一番の特徴とは、「モーセの律法からの自由」を説いたことでした。律法を守らなくてもいい、ということをパウロは語ったのです。十戒も破って良い〜守る必要もない?」
などという、神に対する恐ろしい冒涜を平気で発言しているのです。
このように神の言葉に敵対する教えを、真理、義、正義、恵と語る
聖書とは何も関係のない、人間が作った西洋宗教の思想を語って
それが、聖書に書いてある、パウロの言ったことを、とんでもなく
誤解し、勘違いして、パウロの書いた内容に対して、勝手な解釈を施し続けているのです。
滅亡〜そうです。神の言葉をどの度合いでも軽んじる人には、神の
言葉は正しく頭脳に響かなくなり、自分は救われているから、何も
刈り取る結末などないなどと思っているのです。教師は、人を誤りの教えに導くので、誰でも教師になるなと警告されるほど、それほどの覚悟がないとならないのです。
聖書に書いてもいない嘘を、人に教えてはならないからです。
続く