パウロが反対しているのは神の教えではなく人の編み出した教えのこと ガラテヤ5:8-6章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの書簡を読む時、聖書を読む時、聖書には、神の言葉=モーセの五書=トラーを否定した、終了させた、無用、無効という、

異邦人が主張していることなどは、1つも書かれていないという

神が人に伝えている神の言葉の永遠の事実、大前提から絶対にズレないで、聖書を読み直してください。

 

1)神の言葉は、神が人に伝えている通り、永遠普遍、永遠に固く確立され変化しない。

2)パウロは、100%モーセの五書=神の教え=トラーに忠実に

生きて、そして人にもトラーそのままを、教えていた。

3)パウロは、モーセの五書の教えのどの箇所も、勝手に自分流に変形

付け足し、削除するような教えをしていない。

 

ガラテヤ5:8に記されたように、聖霊に導かれる人は、律法〜モーセの五書の教え、トラー=神の教えの下にいない!という聖書解説が、

パウロの意図とは真逆な、別の教えの解釈になっていることを説明しました。

聖霊に導かれるとは、神の言葉通りの意図を生きることに導かれることなのです。聖霊が、ご自身が書かれた神の言葉に反する教えを

人に伝えるわけなどありません!神の言葉を否定する、神の言葉とは違う教えをする、それでは悪霊が出所の教えになります。

 

5:18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

 

ノモスの下にはいない。詰まり、聖霊に導かれて生きるとは、

神の性質通りを生きる、新しい人として、神の教えを生きることで

あり、トラーが伝える罪の縄目の法則の下にはいないと言っているのです。それら、罪の縄目が、19−20節に記されていた数々の状態

なのです。そして、聖霊に導かれて、聖霊=神の言葉に根付き生きる人は、何を生きますか?神の教えです。

 

ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、

善意、忠実、

5:23 柔和、自制であって、これらを否定するノモスはない。

 

しかし、もしあなたが御霊に導かれているなら、あなたはノモス〜

神がトラーで伝える罪の法則の下にはいませんと書いてあります。

なぜなら、その人の心、内側、頭脳は新しい人とされていて、

聖霊が内側に住んでいるからです。その人は、神のトラーの真髄を生きる、それが聖霊に導かれて生きている状態です。神の言葉に逆らう生き方、聖霊に導かれているのではなく、部分的に別物の教えを生きている状態なのです。

聖霊が内側に住む事実は、自分の肉の行いに頼り、得られるものではない、神の一方的なギフトです。

そして、イエシュアが内側に住む人は、隣人に憎しみを示しません。

人を憎む〜それはあなたではありません!と言っているのです。

本当のあなた、新しくされた人は、どんな人であると、神は伝えていますか?

19−20節に記されたズレた生き方ではなく、その代わりに、

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を表わして生きる人です。(22-23)。

パウロは「このようなことを禁じるノモスはありません」23節と

言いました。

この要点は、肉の欲望を満たす人々の行為を禁じるトラー=神の教えがあるということです。

彼らの罪深い行為は全て違法です。罪は全てずれています。

罪は、全て神の教え、神のデザインした性質に違反した生き方を

することです。

しかし、御霊に導かれている人々についてはそうではありません。

彼らの行為を禁じるトラーはありません。

なぜなら、彼らの行為はトラーの真髄そのものだからです。

御霊の実はトラーの核心、実態であり、トラー=神の教え通りに

その人が生きて機能しているからなのです。

パウロはこれを強調して、自分の行い(割礼と呼ばれる改宗儀式など)によって、自分が義人になっていると考えている人々は、

実際には、その行為は、神のトラーを破っていることを示しています。神が伝えている真理、信仰で義とされることを、知らない、

受け取らないで、自分の行いで義〜聖霊を受けようという、的外れな行為をしているからです。それは命がない、命を生み出す生き方ではなく、変わらずに、神の呪い〜罪に縛られた状態に留まる生き方から

抜け出すことはできません。

しかし、御霊に導かれている人々はトラーを成就〜意図通りに生きて、神の言葉の通りに聞いて、その意図通りに生きるのです。

聖霊=言葉=神=イエシュア=トラーだからです。

 

5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

5:26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。

 

御霊により歩むとは、神の言葉で教えられた通りの人間の性質を実際に生きることが、御霊により歩む!という意味なのです。

ヘブライ人なら、理解できます。異邦人、西洋人は、全て思想、哲学の世界ですが、聖書、ヘブライ思索、神の教えは、実際に神の言葉を生きること!生きること!キリスト!と教えている通りです。

行いのない人の信仰は死んでいる!と書いてある通りです。

口だけで実際には、神が伝えていることではなく、神の教えとは違うことを生きる、神の性質とはズレた生き方をしているのです。

 

ヤコブ 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せて

あげよう。

次の箇所も、パウロがアヴラハムの割礼は、無用!無効と言っていると誤解されている箇所ですが、パウロがそんなことを言い訳など

ありません。なぜならパウロは神の言葉、教えに100%同意して

生きていると自分自身で証明しており、人に神の言葉、教えに反するような生き方を教えないと言っているからです。使徒21:21

ここで、書かれている割礼とは、改宗儀式のことであり、その中には

もちろん、アヴラハムの割礼が最後に行われるのです。

でも、パウロの論点は、義とされることは、改宗儀式をするという

前提は神の教えにはない!アヴラハムも、神の言葉を信じて義とされ、その後、神が伝えた通りに割礼をし、アヴラハムの家に生まれた他国人、使用人全て!割礼を授けたと書いてあるのです。順番が逆!

もう一度、ここでの論点、「割礼という改宗儀式」が強制されていることに注目してください(第 2 章を参照)。

パウロがこれに異議を唱えるのは当然なのです。

割礼は救済の要件でも前提条件でもなく、人から強制されるべきではありません。クリスチャンの世界でいうならば、救われるために、

洗礼を受けるという、順番が逆のことを教えるのと同じことです。

パウロは更に、割礼を強制する人たちは「見栄えを良くするため」にそれを行っていると述べています。

それは、彼らが迫害されないようにするためです」(12)

そして、「彼らがあなたの肉を誇るようになるためです」(13)

ユダヤ人が編み出した伝統の言い伝えの教えを主張、強要する人たちは、人の承認を得るための外的な印として割礼を行っていましたが、心の内面の状態についてはほとんど気にしていませんでした。

これは、イエシュアも思い起こさせています。

マルコで、イエシュアが正していたのは、人間の教えに固執する人!

このような箇所を、神の古い律法〜モーセの五書の教えなどと、

勘違いしてクリスチャンは解説していますが、正しく書いてある通りの意味に直して、読み直してください。

イエシュアが言われたのは、トラーではなく、人の言い伝えの教えに

固執し、その人たちは実際に神の言葉=トラーを生きてない!という

批判が書かれているのです。

 

マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

 7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

 7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

マタイ23:4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、

それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、

彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、

23:6 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、

23:7 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを

好んでいる。

 

ガラテヤ6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。

<ここで記されている善とは、神の意図通り、それは神が伝える

神の教え、言葉通りを行う!ということです。>

 

6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

<この箇所、パウロはモーセの五書にある教えに基づいて話しているのです。申命記23:19>

パウロがここで 記しているのは、ユダヤ人のあるグループ、ユダヤ人になる改宗儀式を異邦人に強いて、それが神の国の一員になる

条件だ!という教え、それは神の教えではないでしょう。

割礼は、契約の印で、永遠に変わらない。

でも、神は義とされること、聖霊を受けることは、信仰によるしか

できないと伝えた通り、先にこの儀式をしたら、義と認めます、その結果聖霊を与えますとした教えは、神の教えではない!とパウロは

言っているのであり、アヴラハムの割礼は永遠であり、契約の印であり、それを受け取る人は、男の子供に8日目に授けるものであることは、変わらないのからです。救いを受ける手段として、この場合、

ユダヤ人になる改宗儀式をしても、外側の印は、そのままでは何も意味がありませんと言っているのです。

 

 6:12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。

6:13 事実、割礼のあるもの自身がトラーを守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。

<パウロの言葉からも、トラー=神の教えをガードし、根付いて生きることは、救われた人の絶対必須条件です!内側に聖霊を受けた人は、聖霊=神の言葉に反する生き方はできないことを、5:19-21

でも説明しているのです。そのようなことは、トラーに反した生き方

聖霊に導かれた生き方ではないからです。>

 

6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの

十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。

この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしも

この世に対して死んでしまったのである。

<人の行いや、改宗儀式〜改宗儀式を受けた人は、神の前により

レベルが上、ファーストクラスの人だというような意識、

そんなものを、誇りにするのはあってはならない。>

 

ガラテヤ6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

<贖われた人は、もれなく全て、神が支払った子羊の血の購いの代価

により、新しくされ、命をもらっただけです。

だから、イエシュアの業以外、人が自分の手柄を誇ることなど、

あってはならないからです。恵とは、与えられる資格も、受けるに

値する何もしてないのに、頂いたから、恵なのです。

神の一方的な恵。それが新しくされた人の事実を受けたことなのです。神から譲渡されて、頂いただけなのに、あたかも自分で獲得したように誇るのは的外れだからです。>

 

この箇所も、読み間違えないでください。

パウロは、アヴラハムの割礼を、無効、軽視、意味ないなどと

微塵にも言っていません。議論の前提は、救われるために、

ユダヤ人になる改宗儀式をするというのは、神の教えではありません!同様に、救いを受けるために洗礼を最初に受けることは、

神の教えではありません!

分かりませんか?違いが。こんなことをしなくても、信仰により義とされる。信仰により義とされた人には、外側の印が初めて意味を持つ

ことになる、それは内側に新しくされた実態〜聖霊を受けているからです。この違いをはっきり、理解し、パウロの論点を理解し、パウロがモーセの五書、アヴラハムの割礼を否定している!という誤解を

全部捨ててください!

大事なのは、それだけではただの印である、割礼や洗礼ではなく

その印が表す、影は、内側が新しく創造された人=イエシュアの命を頂いている事実!と言っているのです。

6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

 

割礼は、本当に意味があり、そして永遠に変わらないのです。

神の言葉を理解する人には、神が伝える意図が理解できます。

でも、異邦人は、生まれつき親が、トラーに根付いて生きていない

背景なのです。

クリスチャンとて、親がクリスチャンでも、神の教え〜トラーに根付いて、パウロやイエシュアや弟子や1世紀当時の人のように、神の

言葉を知らないし、実践もして来ていないのです。クリスチャンは、西洋人が4世紀以降に作った、西洋宗教の教えの伝統文化、教え、

記念日の方だけを実践し、神の言葉の実践を聖書に書いてあるようにして、生きて来なかったのです。

でも、割礼を通して様々な教えを神がしています。そして、割礼は

肉体的にもあるべきものです。それは、男の子を持つ親、男性なら

体験上、理解出来るでしょう。

でも、ここでパウロが述べている割礼は、ユダヤ人の編み出した

改宗儀式のことであることを覚えておいてください。

そして、その複雑で月日がかかる改宗儀式の最後には、もちろん肉の割礼がありますが、女性には割礼はありません。

パウロの時代の、ガラテヤ、ローマ、コロサイなどで起きていた

問題、彼らの間にあった偽教師の教え、思想、哲学、神秘主義

悪霊とのチャネリング、禁欲主義〜そして、ユダヤ人が編み出した

伝統の教え、それらは全部神の教え=トラー、モーセの五書のことなどではないことを、パウロが話しているということに、目を開いて

パウロの書簡を読み直して下さい。

 

 

続く