パウロの書簡を読む時、聖書を読む時、聖書には、神の言葉=モーセの五書=トラーを否定した、終了させた、無用、無効という、
異邦人が主張していることなどは、1つも書かれていないという
神が人に伝えている神の言葉の永遠の事実、大前提から絶対にズレないで、聖書を読み直してください。
1)神の言葉は、神が人に伝えている通り、永遠普遍、永遠に固く確立され変化しない。
2)パウロは、100%モーセの五書=神の教え=トラーに忠実に
生きて、そして人にもトラーそのままを、教えていた。
3)パウロは、モーセの五書の教えのどの箇所も、勝手に自分流に変形
付け足し、削除するような教えをしていない。
ガラテヤ5:8に記されたように、聖霊に導かれる人は、律法〜モーセの五書の教え、トラー=神の教えの下にいない!という聖書解説が、
パウロの意図とは真逆な、別の教えの解釈になっていることを説明しました。
聖霊に導かれるとは、神の言葉通りの意図を生きることに導かれることなのです。聖霊が、ご自身が書かれた神の言葉に反する教えを
人に伝えるわけなどありません!神の言葉を否定する、神の言葉とは違う教えをする、それでは悪霊が出所の教えになります。
5:18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
ノモスの下にはいない。詰まり、聖霊に導かれて生きるとは、
神の性質通りを生きる、新しい人として、神の教えを生きることで
あり、トラーが伝える罪の縄目の法則の下にはいないと言っているのです。それら、罪の縄目が、19−20節に記されていた数々の状態
なのです。そして、聖霊に導かれて、聖霊=神の言葉に根付き生きる人は、何を生きますか?神の教えです。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、
善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定するノモスはない。
しかし、もしあなたが御霊に導かれているなら、あなたはノモス〜
神がトラーで伝える罪の法則の下にはいませんと書いてあります。
なぜなら、その人の心、内側、頭脳は新しい人とされていて、
聖霊が内側に住んでいるからです。その人は、神のトラーの真髄を生きる、それが聖霊に導かれて生きている状態です。神の言葉に逆らう生き方、聖霊に導かれているのではなく、部分的に別物の教えを生きている状態なのです。
聖霊が内側に住む事実は、自分の肉の行いに頼り、得られるものではない、神の一方的なギフトです。
そして、イエシュアが内側に住む人は、隣人に憎しみを示しません。
人を憎む〜それはあなたではありません!と言っているのです。
本当のあなた、新しくされた人は、どんな人であると、神は伝えていますか?
19−20節に記されたズレた生き方ではなく、その代わりに、
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を表わして生きる人です。(22-23)。
パウロは「このようなことを禁じるノモスはありません」23節と
言いました。
この要点は、肉の欲望を満たす人々の行為を禁じるトラー=神の教えがあるということです。
彼らの罪深い行為は全て違法です。罪は全てずれています。
罪は、全て神の教え、神のデザインした性質に違反した生き方を
することです。
しかし、御霊に導かれている人々についてはそうではありません。
彼らの行為を禁じるトラーはありません。
なぜなら、彼らの行為はトラーの真髄そのものだからです。
御霊の実はトラーの核心、実態であり、トラー=神の教え通りに
その人が生きて機能しているからなのです。
パウロはこれを強調して、自分の行い(割礼と呼ばれる改宗儀式など)によって、自分が義人になっていると考えている人々は、
実際には、その行為は、神のトラーを破っていることを示しています。神が伝えている真理、信仰で義とされることを、知らない、
受け取らないで、自分の行いで義〜聖霊を受けようという、的外れな行為をしているからです。それは命がない、命を生み出す生き方ではなく、変わらずに、神の呪い〜罪に縛られた状態に留まる生き方から
抜け出すことはできません。
しかし、御霊に導かれている人々はトラーを成就〜意図通りに生きて、神の言葉の通りに聞いて、その意図通りに生きるのです。
聖霊=言葉=神=イエシュア=トラーだからです。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
5:26 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
御霊により歩むとは、神の言葉で教えられた通りの人間の性質を実際に生きることが、御霊により歩む!という意味なのです。
ヘブライ人なら、理解できます。異邦人、西洋人は、全て思想、哲学の世界ですが、聖書、ヘブライ思索、神の教えは、実際に神の言葉を生きること!生きること!キリスト!と教えている通りです。
行いのない人の信仰は死んでいる!と書いてある通りです。
口だけで実際には、神が伝えていることではなく、神の教えとは違うことを生きる、神の性質とはズレた生き方をしているのです。
ヤコブ 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せて
あげよう。
次の箇所も、パウロがアヴラハムの割礼は、無用!無効と言っていると誤解されている箇所ですが、パウロがそんなことを言い訳など
ありません。なぜならパウロは神の言葉、教えに100%同意して
生きていると自分自身で証明しており、人に神の言葉、教えに反するような生き方を教えないと言っているからです。使徒21:21
ここで、書かれている割礼とは、改宗儀式のことであり、その中には
もちろん、アヴラハムの割礼が最後に行われるのです。
でも、パウロの論点は、義とされることは、改宗儀式をするという
前提は神の教えにはない!アヴラハムも、神の言葉を信じて義とされ、その後、神が伝えた通りに割礼をし、アヴラハムの家に生まれた他国人、使用人全て!割礼を授けたと書いてあるのです。順番が逆!
もう一度、ここでの論点、「割礼という改宗儀式」が強制されていることに注目してください(第 2 章を参照)。
パウロがこれに異議を唱えるのは当然なのです。
割礼は救済の要件でも前提条件でもなく、人から強制されるべきではありません。クリスチャンの世界でいうならば、救われるために、
洗礼を受けるという、順番が逆のことを教えるのと同じことです。
パウロは更に、割礼を強制する人たちは「見栄えを良くするため」にそれを行っていると述べています。
それは、彼らが迫害されないようにするためです」(12)
そして、「彼らがあなたの肉を誇るようになるためです」(13)
ユダヤ人が編み出した伝統の言い伝えの教えを主張、強要する人たちは、人の承認を得るための外的な印として割礼を行っていましたが、心の内面の状態についてはほとんど気にしていませんでした。
これは、イエシュアも思い起こさせています。
マルコで、イエシュアが正していたのは、人間の教えに固執する人!
このような箇所を、神の古い律法〜モーセの五書の教えなどと、
勘違いしてクリスチャンは解説していますが、正しく書いてある通りの意味に直して、読み直してください。
イエシュアが言われたのは、トラーではなく、人の言い伝えの教えに
固執し、その人たちは実際に神の言葉=トラーを生きてない!という
批判が書かれているのです。
マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
マタイ23:4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、
それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、
彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
23:6 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
23:7 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを
好んでいる。
ガラテヤ6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
<ここで記されている善とは、神の意図通り、それは神が伝える
神の教え、言葉通りを行う!ということです。>
6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。
<この箇所、パウロはモーセの五書にある教えに基づいて話しているのです。申命記23:19>
パウロがここで 記しているのは、ユダヤ人のあるグループ、ユダヤ人になる改宗儀式を異邦人に強いて、それが神の国の一員になる
条件だ!という教え、それは神の教えではないでしょう。
割礼は、契約の印で、永遠に変わらない。
でも、神は義とされること、聖霊を受けることは、信仰によるしか
できないと伝えた通り、先にこの儀式をしたら、義と認めます、その結果聖霊を与えますとした教えは、神の教えではない!とパウロは
言っているのであり、アヴラハムの割礼は永遠であり、契約の印であり、それを受け取る人は、男の子供に8日目に授けるものであることは、変わらないのからです。救いを受ける手段として、この場合、
ユダヤ人になる改宗儀式をしても、外側の印は、そのままでは何も意味がありませんと言っているのです。
6:12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。
6:13 事実、割礼のあるもの自身がトラーを守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。
<パウロの言葉からも、トラー=神の教えをガードし、根付いて生きることは、救われた人の絶対必須条件です!内側に聖霊を受けた人は、聖霊=神の言葉に反する生き方はできないことを、5:19-21
でも説明しているのです。そのようなことは、トラーに反した生き方
聖霊に導かれた生き方ではないからです。>
6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの
十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。
この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしも
この世に対して死んでしまったのである。
<人の行いや、改宗儀式〜改宗儀式を受けた人は、神の前により
レベルが上、ファーストクラスの人だというような意識、
そんなものを、誇りにするのはあってはならない。>
ガラテヤ6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
<贖われた人は、もれなく全て、神が支払った子羊の血の購いの代価
により、新しくされ、命をもらっただけです。
だから、イエシュアの業以外、人が自分の手柄を誇ることなど、
あってはならないからです。恵とは、与えられる資格も、受けるに
値する何もしてないのに、頂いたから、恵なのです。
神の一方的な恵。それが新しくされた人の事実を受けたことなのです。神から譲渡されて、頂いただけなのに、あたかも自分で獲得したように誇るのは的外れだからです。>
この箇所も、読み間違えないでください。
パウロは、アヴラハムの割礼を、無効、軽視、意味ないなどと
微塵にも言っていません。議論の前提は、救われるために、
ユダヤ人になる改宗儀式をするというのは、神の教えではありません!同様に、救いを受けるために洗礼を最初に受けることは、
神の教えではありません!
分かりませんか?違いが。こんなことをしなくても、信仰により義とされる。信仰により義とされた人には、外側の印が初めて意味を持つ
ことになる、それは内側に新しくされた実態〜聖霊を受けているからです。この違いをはっきり、理解し、パウロの論点を理解し、パウロがモーセの五書、アヴラハムの割礼を否定している!という誤解を
全部捨ててください!
大事なのは、それだけではただの印である、割礼や洗礼ではなく
その印が表す、影は、内側が新しく創造された人=イエシュアの命を頂いている事実!と言っているのです。
6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
割礼は、本当に意味があり、そして永遠に変わらないのです。
神の言葉を理解する人には、神が伝える意図が理解できます。
でも、異邦人は、生まれつき親が、トラーに根付いて生きていない
背景なのです。
クリスチャンとて、親がクリスチャンでも、神の教え〜トラーに根付いて、パウロやイエシュアや弟子や1世紀当時の人のように、神の
言葉を知らないし、実践もして来ていないのです。クリスチャンは、西洋人が4世紀以降に作った、西洋宗教の教えの伝統文化、教え、
記念日の方だけを実践し、神の言葉の実践を聖書に書いてあるようにして、生きて来なかったのです。
でも、割礼を通して様々な教えを神がしています。そして、割礼は
肉体的にもあるべきものです。それは、男の子を持つ親、男性なら
体験上、理解出来るでしょう。
でも、ここでパウロが述べている割礼は、ユダヤ人の編み出した
改宗儀式のことであることを覚えておいてください。
そして、その複雑で月日がかかる改宗儀式の最後には、もちろん肉の割礼がありますが、女性には割礼はありません。
パウロの時代の、ガラテヤ、ローマ、コロサイなどで起きていた
問題、彼らの間にあった偽教師の教え、思想、哲学、神秘主義
悪霊とのチャネリング、禁欲主義〜そして、ユダヤ人が編み出した
伝統の教え、それらは全部神の教え=トラー、モーセの五書のことなどではないことを、パウロが話しているということに、目を開いて
パウロの書簡を読み直して下さい。
続く