次の4章ですが、これらの節には、相続人、保護者、奴隷、投獄に
関する3 章と同じテーマが含まれていることに注目してください。
4 章は、3 章を踏まえて、書かれている内容を理解した上で読む必要があります。
パウロは、キリストなし~命を内側に受けてはいない状態では、
人はどの人も奴隷のようなものだと主張しています。
キリストなしでは、トラーだけでは、私達のズレの性質、そして人は何をすべきかだけを教えるものだけでありますが、同時に神の言葉は私たちがこの基準を満たしていないことを示す保護者として機能していることを、パウロは伝えています。
神の言葉は、神を知らない人にとっても、もし分からないままでも、神の言葉に沿った生き方をしているなら、安全に保護されるのです。
命を持たないとは、家の外に居て、外から家の中の様子を眺めるだけで、実際に家の中に入れない、暖かい家の中で、家族と共に団欒が出来ない状態でいる、野宿状態です。
家の中で暮らしたい、暮らすには、この家のメンバーになる必要が
ある。それが、信仰義認、新しく生まれ変わる事実を内側にまず得ることです。
だから、命=聖霊を内側に受けていない状態では、道徳的に、人道的に、どんなに立派に生きていたとしても、全ての人は皆、刑務所~罪の奴隷状態のままでにいるのです。
しかし、キリストの救いの働き、信仰により信頼して受け取る時に、私たちはキリスト=復活の命、新しくされた人を着て、もはや奴隷ではなく、イエシュアと同じ性質にされるのです。
私たちは神の子となり、したがって、彼の中で永遠の命を受け継ぐのです。それが、贖われ、救われた人の状態です。
4:1 わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、
全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
これは、永遠の中に選び出されていても、神に出会うまでは、しもべ
使用人と同じであり、子供の身分ではなく、その相続の権利に手を
触れることはできないという事実をパウロが話しています。
肉の生まれつきのままでは、家族の一員にはなっていない。
ユダヤ人は神に選び出されました。神の契約の民です。
でも、その人達でさえも、もれなく、イスラエルの神と個人的に出会うまでは、他のしもべ~全ての人と同じく、神=父の元に戻っていない状態なのです。これは全ての人が同じ条件なのです。
全ての人は、神の中から、神の外側に飛び出て、皆、恵から漏れたとある通りだからです。義人はいない、一人もいないとは、救われた人のことではなく、神の中から飛び出した人全て、神の元にイエシュアを通して、父の元に戻っていない、聖なるものとされなていないことです。全ての人は、ズレた!罪に陥ったと書いてあります。
エデンの園を飛び出して以降、生まれつき新しい命を得て、神と出会った実態を持って生まれてくる人はいません。
それは、メシアだけです!
生まれがユダヤ人、イコール、聖霊が内側に住む現実を、自動的に
得られるわけではないからです。なぜなら、全ての人はもれなく、
神の内側から外側に飛び出して、隔たり場所に閉じ込められているからです。ローマ3:9−39 全ての人は神の恵から漏れた、全ての人は、神の中から外側に飛び出し、ズレ=罪の中に閉じ込められたからです。
全ての人は同じ条件です。生物学的な肉の生まれは、贖い、救いに
何も関係ないのです。同時に、異邦人も同じです。
ユダヤ人だから、生まれつき自動的に聖霊を受けるのではないでしょう。読めば分かりますが、全ての人が、イエシュア=神と直接出会う
体験をしていることが、聖書には記されています。
でも、神は選び出した一人一人、異邦人を含め、個人的に必ず神が
アプローチして下さるのです。
タナックを読むと、得に直接物理的にもイエシュアに出会っていることが幾度も書いてあります。でも、人はメシアを見たから信じたのではなく、人は腹の奥底、自分の頭脳にはっきり見えない神を、霊の目が開かれてみる体験がないなら、たとえ今、目の前にメシアが現れても、分からないのです。内なる深い納得は得られらない。
分かるとは、次元の違う分かるです。目に見えない世界を、目に見えない目で見て分かることだからです。
全ての人は、イエシュアを通して以外誰も父の元に戻ることは出来ない!という事実、条件は同じだからです。
契約を受け取る代表であるユダヤ人としての肉の生まれでなはくても、神は永遠の中から既に、異邦人も選び出していた!という不思議な事実が書いてあるのです。
4:2 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。
2節では、パウロは、トラーを、管理人、後見員、監督と擬人化しています。これは、身柄拘束を理解すれば、見える内容でもあります。
ある人が、犯罪者に付け狙われているから、その人の身柄を拘束して
安全な場所にかくまうことと同じことを、ここで話しているのです。
神と直接出会う体験をする前も、人はもし神の言葉、教えに沿った
生き方を、知らないままでもしていたら安全に守られるでしょう。
世の中、神を知らないまま、人の本来の性質に沿った生き方をしている人がたくさんいるのです。それを、人の道に外れない、又は犠牲的な行動などと言ったりしますが、人としてズレた生き方をしない、
それは、神を知る前でも、そのような神の性質に沿った生き方に近い生き方をしている人は、破壊的な生き方から守られるのです。
逆にイエシュアを信じているのに、とんでもなくズレた生き方をしている人もいる。それは、メシアの実態を生きないで、古い人のまま
生きているからです。
そして、この管理人や後見人というのは、トラー自体もそうですが、
ユダヤ人の場合だったら、生まれた家族の中に、親や親戚、共同体があったのです。周りの人が、神の教え=安全な生き方をしていたら、
トラーを生きていたら、そこのコミュニテイに生まれた子供は、
何も分からなくても、健全な安全な親や親戚、近所の人たちの守りがあったのです。これは本当に幸いな環境です。そして、そのような家族や親戚、仲間に神の性質を生きることをお手本を持って教えられて、成長するのです。
逆に神の教えを知らない、とんでも無い親、毒親、自分の理想を子供に押し付ける親、無関心な親、又は虐待する親などの下にいる環境は、悲惨、破壊だと分かるでしょう。
クリスチャンは、2節を読んで、律法の支配、監視の下にあって、
縛られた状態だったなどと、ズレた解説をしていますが、神の言葉が一体何であるのかを正しく理解していない人の受け売りの教えを
捨てないとならないのです。
だから、2テモテ3:14−15にあるように、誰にトラー(聖書)を学んだのか、そして、トラーを幼い頃から教えられてきたとあるのが
それです。
つまり、トラー=神の教えを生きているコミュニテイの中に生まれたら、周りの人達の生き方で、自分も守られて、彼らの生き様~義の
生き方を、目の当たりに日々見て成長する、自分でやがて個人的に
メシアに出会う時迄、安全に幽閉される、守られるからです。
父の定めた時とは、その個人が直接神に出会う体験をする迄のことです。その時までは、肉の生まれがユダヤ人~契約の継承者であれ、
他の人、使用人と何も変わらない、新しく生まれ変わる経験のないままいる、神の家族の正式な一員ではないということです。
でも、そのようなコミュニテイの中に生まれた人は、安全な環境に
置かれているということも、真実なのです。
同時に、異邦人でも「この世の礎が造られる以前から選ばれていた」とあるように、神の許しの元で、神と直接出会う迄、神の守りの中に
あったという事実があるのです。
信じて、救いを受けた時以降から、神の計画が自分の中に初めて始まったのではないのです。永遠の中から神の計画の中に造られている!だから、知らない間も、神の守りの下に実はあったのです。
だから、人生に起きる1つ1つの出来事を通して、それらを神が
使って、神が裏で働かれていた事実があるのです。
たとえもし、ひどい体験をしても、神はそのことをも益=トヴ、神の
計画の意図通りに使ってくださるのです。
神と直接に関わりがなかった時には、自分のうちに、命が本当には
ないから、諸々の霊の力の下に奴隷として縛られた死んだ状態で
あった、これは、肉の生まれに関係なく、全ての人に共通の現象なのです。死んだ人は自分から、神の元に戻ることは出来ません!
だから、神の一方的な業〜購いの業、神の方から私達一人一人を
救出するために、閉じ込められたいた隔たりの場所まで、来て下さったのです。
4:3 それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
そうですよね。子供~メシアに出会う前は、全ての人はもれなく、
罪の法則の下に縛られて生きていた、命が内側になかったからです。もれなくどの人も同じ。身分や生まれ、国籍や時代も関係ない。
次の箇所は、よく理解しないと意味不明、又は誤解してしまう箇所でもあります。
4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、
トラーの下に生れさせて、おつかわしになった。
4:5 それは、トラーの下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
パウロは、聖霊を内側に受けていない人は、神の善悪の基準を知りながらも、罪の法則の下に縛られた状態なので、神の性質通りを生きることには、従うことができない人々を指すために、フポ・ノモス〜「律法の下」という語句を使用しています。
ノモスは、律法と訳されていますが、神の言葉を指す場合、神の教えであり、罪の法則を表す場合は、罪の法則、又は法律であったり
様々な多様性の意味があるギリシャ語なのです。
フポは前置詞~下にという言葉です。
通常、フポ・ノモスという言葉でパウロが語る時には、創造主に
ついての被造物の証言を受け入れることを拒否した堕落した人類
(ローマ1:20)や、トラー=神の教えを拒否し、それによって
レビ記26章と申命記28章でトーラーに規定されている裁きを受けた
イスラエルを表すために使用されています。
しかしここでパウロは、メシア自身がフポ・ノモスとして生まれたと言っています。私たちはメシアが罪のない方だと知っているので、
イエシュアが自然の法則やトーラーの啓示された法に反する行為を何もしていないと知っています。でもパウロは、イエシュアは女性から生まれ、人間と同じ法則ののもとに生まれたと言っています。
1つ分かることは、神なのに、時間と場所の制限があるこの地上に
人間と同じ肉体を持って来られたこともそうでしょう。神であるのに、神の特権を捨てて、人と同じようになられたと、パウロは言っているのです。
4:6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
聖霊が内側に住まわない人は、神を認識できず、アバ父よと呼ぶことも出来ないのです。イエシュアを通して以外、誰も父の元に戻ることは出来ない。救いの方法は1つ。どの時代のどの人種もイエシュアを
通して、父の元に戻る。これは、人の努力や、神の教えを生きて
獲得できない、完全なる一方的なギフトなのです。
4:7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。
子である以上、また神による相続人である。
全ての人は、時代、人種に関わらず、信仰による義とされた人は
漏れなく、神の国=家の共同相続人であると、ここでもパウロは
言っています。デイスペンセーション神学の思想と、聖書とでは、
真逆なことを伝えているのは、聖書の至る所に記された神の言葉の
真理、真実に基づき証明されます。
4:8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
そうですね。神々、それは人間の教えや、人間の考える価値基準や、
人生目標、理想、様々なものです。
次の8節から11節の箇所は、クリスチャンが多大に誤解している箇所です。
ローマ教は、神の言葉は廃れた、得にユダヤ色の強い教えは廃れたというのは、それは異邦人には異物の教えを、ローマ帝国が禁じたから
モーセの五書を廃止、そして、神の記念日を祝うことを禁じられたのです。人間に禁じられたのです!神は神の言葉を生きて、神の記念日を代々永遠に祝うように教えているのに、神の言葉を捨てた人達には
神の教えは届かない、自分たちが考える、これが正しい神の言葉、これが今も有効な教えという部分だけを、生きているから、永遠普遍の神の言葉、教えの真実が見えてこないのです。
以下の箇所は、パウロが当時はびこっていた、思想、偽教師の教え
人間の哲学に関して言及している箇所です。
4:8 神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
イエシュアを知る前は、偽物の教えの奴隷でした。
それは明らかであり、簡単に理解できます。
では、当時1世紀は、ガラテヤの人たちの間では、どんな思想、
哲学、教えが蔓延っていたのかを、知らないとなりません。
続く