神の教えが変化したと誤解されている箇所を検証 ガラテヤ3:21−22 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

翻訳聖書だけを読んで、しかも1世紀後半以降出現した、神の言葉を否定した土台、異教徒背景出身の異邦人、ヘブライ聖書を知らない

西洋教父の思想、人間の作った西洋宗教、人間の肉の目から解説する聖書解説だけを通して、聖書、得に福音書以降、パウロの書簡を読めば、聖書に書いてある意味通りに把握し、理解するのは、至難の業、無理です。

しかも、パウロの書いている内容、言葉は、1世紀と当時の慣用句や

言葉、時代に蔓延っていた問題、ユダヤ人の世界の人間が作った

神の言葉とは違う、口頭トラー=「律法の戒め」「先祖の言い伝え」

が何なのか、知らなければ見えな内容なのです。

 

世の中には、冤罪があるでしょう。無実の罪に問われて、強盗殺人

などの犯人にでっちあげられ、犯罪者と認定されるてしまう。

十分な証拠も無いのにも関わらず、人の憶測や推測の証拠、情報だけを集めて、無罪の人が犯人に仕立て上げられて、人生の大半を、牢獄で費やす、処刑されてしまう悲劇があります。

袴田事件など、その代表例でしょう。

偽の証言、偽の証拠で、真実、事実を捻じ曲げられてしまう。

真実ではない、嘘なのに、殺人犯にされてしまう。普通に生きられた

はずの人生を、無実の罪で牢獄、処刑されてしまう。

それと同じことを、人は神の言葉に対してしているのです。

人が知らなくてはならないことは、神が伝える永遠の真実、真理、

本当のこと、純粋な神の言葉、教えです。人が作った宗教の文化や、伝統や、人間の思想で神の言葉を変えた思想は、聖書ではありません。

偽科学仮説、進化論などと同じく、いったん嘘が大衆の間に浸透し

それが受け入れられてしまうと、おかしなことなのに、それが真実であると人は騙されて、信じ込まれてしまう。それを覆すのは簡単ではないのです。大衆が嘘に騙されているからです。でも、大衆の30%の人が、真実に目覚めて知れば、その真実は徐々に拡散されて行くのです。

クリスチャンの世界で語られる聖書解説や教えは、西洋人が作った

宗教の教えを土台とした思想から、全てを語っています。

もちろん、メシアは私達の罪のために死なれ、復活し、イエシュアを信じるものは、もれなく神の元に戻る、新しくされ、罪許されて

永遠の命を得るという部分は真実です。

でもそれは、イエシュアが到来した以降の人だけが、受け取れたと

聖書とは違うことを教えています。

イエシュアが来られる以前は、生贄を捧げて仮の赦しが与えられていたという、聖書とは違うことを教えています。

もしくは、古代の人は、律法(神の言葉)を生きて義とされていた

又は、イエシュアが来られる前の人は全て地獄に落ちました〜などと

言っているでしょう。これも聖書とは違うことを教えています。

問題は、聖書に書かれている内容を、正しく理解していない人が、

聖書とは違うことを教えている事なのです。

異邦人は、1世紀後半以降、ユダヤ人の群れと、パウロのような

ヘブライのトラー教師と完全決別しました。

それでは、元の聖書に何が書かれているのか、教えてもらえる教師と

切り離されたということが、分かるでしょう。

オリジナル聖書、神の純粋な言葉が、何を伝えているのか分からないままなのです。

二つ別の福音、2つ別の群れ、ユダヤ人と異邦人と分けて人間の思想が語られているのですが、それは聖書とは真逆の思想なのです。

西洋人が作った聖書とは異なる聖書概念や神学、神の言葉が変化した終了した、無用、異邦人には得に無用。個人の意見で神の言葉を

仕分けて良いなどと、2テモテ2:15を勘違いしています。

西洋教父の思想を教える神学を聞いていたら、本当に聖書をどこまでも曲げて、誤解していきます。そして、聖書のどの箇所でも、変えて良いと考えるなら、それはどこまでも聖書とは別の教えを作り続けます。だから、プロテスタントは、何百万という宗派があるのです。

今の日本でもプロテスタントの教師牧師が、聖書を疑え!

聖書は正しいことだけが書いてあるのでは無いと、「神に敵対するもの」の声、教えを代表して、堂々と聖書を否定した教えを語っているのです。

教師が人を誤りに導くのです。一般の人は聖書を教えないからです。

そのような教師が、LGBTQ、神が罪であるとはっきり教えていることを、罪を犯すように人々に奨励しているのです。

神の言葉を人間が仕分ける、判定する、それは人間至上主義であり、

神に敵対する行為、罪です。

教皇も同性婚を祝福しますと、神に敵対するものの声を語り、

世の末、ノアの時代、ソドムとゴモラと同じ思想、神の教えに真っ向から反することを人に伝えて、イスラエルの神の名を汚しています。イスラエルの神を正しく人に表し、伝えていない。

小さなほころび、神の言葉の一点一画どの箇所でも曲げる行為は、

別の教えを侵入させる破壊、罪に扉を開く行為だと覚えておくと

安全です。

聖霊は、聖霊ご自身=神ご自身である、言葉を否定したり、削除、

付け足し、不要、無用などと言いません。その声は、聖霊ではなく

「神に敵対するもの声」です。エデンの園の警告。

蛇は、神の言葉を曲げ、歪め、変えて、人を騙します。

これを、はっきり覚えておけば、神の言葉がどの箇所でも変化した、

終了、無用という声は、神からのものではない、サタンそのもの!と

知れば良いのです。

パウロの書簡も、神の言葉終了ありき!という教えを、パウロがしていると主張する人々により、歪められて語られています。

神のトラー=教えが与えられたのは、救われる、義とされることを

達成するのが、目的ではありません!

救われた人、贖われた人が、その後どう生きるかの、指針、指導、

神の子らの性質、生き方は何かを、神から直接教えられるためのものです。

それらは、人を守るものです。敵の攻撃から守る安全兜、要塞。

クリスチャンは、メシアが来られて、呪いの律法から解放され、

恵に生きるようにされた!と、聖書とは全然関係ない、神の言葉を

拒否、否定する人間の教えを、聖書だと疑いもなく信じこんでいます。Oh my G-dと言いたくなる程、どれほど私達異邦人は、

聖書ではない、人間の思想を刷り込まれて来てしまったのか、

その代償が、はっきり見えるのです。半分本当、半分嘘。

トラーは、神の教え、指導です。神の言葉=聖霊=イエシュアです。

それを否定する、イエシュアを信じながら、神に敵対する行為。

聖書に書いてある全て、知恵、さとし、いましめ、仰せ、命じ、

etcそれらの言葉全ては、1000%モーセの五書=トラーに記された神の教えを指して、話しているのです!イエシュアの言葉、パウロの書簡も同じです。

基本的な理解が抜けて、律法=悪い=古い=廃れたと、聖書には

書いてない人の思想を教えられている事に、気がついてください。

聖書には、モーセの五書=トラー=父の教え=婚姻契約の中に記された愛の生き方以外、書かれていないのです。愛とは、契約、トラーに

記された人間の生き方の全てを、愛と聖書では言っているのです。

新しい契約は、モーセの契約とは別の契約ではないのです。

新しい=新しく再更新される、同じモーセの五書=トラー=シナイ山の契約であり、イエシュアを通してイスラエルの神、イスラエルと

いう神の大家族の一員にされた人は、もれなく同じトラー=神の教えを生きる!と書いてあるのが聖書なのです。

トラー、モーセの五書以外の教えは聖書のどこにも書かれていない、

トラー=神の教えを否定、削除、付け足しする別の教えは、聖書には書かれていない、それらは偽教師、偽預言者の教えであると

聖書から知ったら、安全に守られます。

自分を守れる、神の前に、神が忌み嫌うと教えている罪=ズレを生きることから守られる、聖別を汚す行為から守られる。

創造主である神に教えられなければ、人はどう生きたら良いのか

分からないからです。今はなんでもOk、自己流で良いんだよ〜これが、クリスチャンの間にある教えですが、神は、神の言うことを聞いて!シャマ!そして、神の言われることから、右へも左へもそれてはいけないと、子供達に注意喚起をしているのが、全く目に耳に頭脳に届いていない、危険な状態なのです。

神の教えからそれたら、安全地帯を飛び出て危険だからです。

罪はズレ、本来の姿とは違うことを生きて自分や他者を破壊する行為をしてしまうからです。

この世界が腐っているのは、環境汚染され、疫病が蔓延るのは、

健康を害するのは、全て人が神の言うことを聞かないで、勝手に生きている結果なのです。

キリストが与えた自由とは、人間が罪の法則に縛られず、自由に

イエシュアと同じ性質=トラーを生きることができるようになった!

と教えているのに、クリスチャンの世界は、ジーザスを信じたら、

自由になんでも勝手に生きて良いという、罪を推奨する教えを伝えてしまっているのです。

神が伝える人の生き方が、神の言葉から理解しない人が、なんでも

やって良い、汚れた動物もなんでも食べて良い!聖別汚して、シャバットも無関係。今は自由に人間が思いつく通りにやればよい。

そんな教えは、イエシュアが教えたことでもなければ、聖書のどこにも書かれていません。

大元まで遡り、聖書とは違う教えのパン種全てを一掃しない限り、

所詮、中途半端で、神の言葉と人の教えが混ざった混ぜ物、偽の種の偽の教えが生え続けるのです。

それを、姦淫の罪と神が教えているのです。中途半端にミックスというのは、真実を知って行く途上では起きるので、仕方ないのですが、

完全に神の言葉に気がついた人は、嘘の教えの全部を捨てて起動修正する、それをしないと、気持ち悪すぎて、耐えられないからです。

偽物〜姦淫の罪、よその旦那は家の中に入れません。

だから、神が吐き出そう!と言ったのです。

Cognitive desonance、認知的不協和です。

真実では無いと知りながら、それを行動することです。

クリスチャンも進化論が嘘と分かったら、2度とそれが真実だと、

人に嘘を言えなくなるでしょう。それです。本当のことが、聖書=

神の言葉から理解できたら、2度と嘘には戻れなくなるからです。

戻りたくもない。本物と偽物どちらを選びますか?という問いです。

ガラテヤ3章の続きです。

20節以降も、クリスチャンが多大に誤解して解説している内容なのです。何をパウロが話しているのか、当時のギリシャの世界を知らないと、見えないものでもあります。

大前提を忘れないでください。パウロは100%モーセの五書だけを

支持し、教え、生きていた!クリスチャンが誤解しているように

パウロがモーセの五書を否定したり、相手によってモーセの五書を

否定した教えや、神の言葉を曲げた教えなど、10000%しなかった!パウロを神の言葉を否定した教えをするという、そんな嘘、

偽証をパウロに対してするのは、今後一切やめないとなりません。

そして、神の言葉を否定する行為は、神に対しての大冒涜であり

死に値する罪に匹敵する!ということを、クリスチャンは聖書から

知らないとなりません。

そんな行為をする人は、偽教師、偽預言者だからです。

 

覚えておかなければならない事実

1)神の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書は、贖われ救われ

聖なる民とされた人だけに、与えられたものである!

2)神のトラーを生きたら、人は義とされるのではない!

人が自分で自分を贖い出せるなら、キリストの死は無意味でしょう。

それ以外に方法がないから、イエシュアが永遠の中から葬られ、

子羊の血の代価を支払われたのです。

婚姻契約は、贖われた事実新しくされた人達に対して、与えられたものであり、復活の命を得て神の元に戻った人が、神の教えを初めて

本来の性質通りに生きることができる!

3)人は自分の努力で、死=罪の縄目にはまった状態から救い出すことはできない

4)人は神に教えられない限り、神が創造した自分をどう生きるのかが分からない。だからトラーが与えられている。

シンプルな事実を前提として、パウロは話してるのです。

 

ガラテヤ 3:21 では、トラーは神の約束と相いれないものか。

断じてそうではない。もし人を生かす力のあるトラーが与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。

 

このような箇所、パウロの論点と背景にあった当時の問題をはっきり

知らないとなりません。

パウロはトラー=神の教え=モーセの五書=婚姻契約に反対しているわけでも、トラー=シナイ山で与えられた契約がアブラハムに与えられた神の約束に反すると言っているわけでもありません。

むしろ、トラーはアブラハムに対する神の約束に、完全に同意してるのです。

アブラハム契約とモーセ契約の両方に矛盾するのは、当時蔓延っていた「割礼党」の教えです。

ここで、「割礼党」の問題をはっきり知って下さい。

当時、福音書でも分かる通り、「先祖の言い伝え」「伝統の教え」

「律法の戒め」などと他の名前でも呼ばれていますが、モーセの五書

神の教えとは違うことをやらなければならない!と主張している人たちがいて、イエシュアの弟子も、ユダヤ人の間にあった伝統の儀式

「手洗いの儀式」をしないと、異邦人の汚れが食べ物に乗り移り

それを食べた人も汚れる!という教えがあったことが、マルコ7に

記されているでしょう。

そのような伝統の言い伝え、当時の人の間には、異邦人〜野生動物、犬、豚と呼んで、汚れた人と交流などしません!というしきたりが

あったのです。ペテロもその伝統の思想に縛られて、異邦人の家に

行ったり、食事を共にすることをためらっていたことが書いてあり、

ペテロは、パウロにも、そのことを指摘され、注意されています。

それが使徒10章の幻を見せられて、歪んだ思想を神から正された

くだり、教えなのです。

1世紀当時、割礼とは、アヴラハムの割礼のことがここで書かれているのではなく、異邦人が改宗儀式をしないと正式に神の国の一員になれないという教えがあったのです。今もあります。ユダヤ教に改宗する儀式をして、正式にユダヤ人と認められるという長くて難しい

改宗儀式のコースがあるのです。そしてエルサレムで権威あるラビの前で、テストを受けて合格して初めて本物のユダヤ人ですという

認定がもらえるのです。それと同じく、1世紀当時も、改宗儀式を

しないと、あなたは神の国の一員と認めませんと考える一派が

いたのです。

なぜなら、これらの偽教師〜割礼という改宗儀式を強要する人達は、あなたはトラーの行いによって義とされるのだと主張していたからです。

分かりやすくいうと、クリスチャンのグループの中で、洗礼受けないと、あなたはそのままでは完全に救われていない、神の前に正式な

神の国の一員とはみなされていない、お客様のような存在、仮免許状態ですという思想と同じです。そんなの聖書の教えではないと、分かりませんか?

儀式をするとは、表向きに見える印であり、意味あることです。

アヴラハムの割礼は、信仰義人の契約の印であり、永遠に変わらない神が与えた「印」なのです。

でもここで言っている、割礼とは、異邦人に対するユダヤ人になる

改宗儀式の事であり、これをしないと、異邦人は神の前に義とされない。つまりクリスチャンが、洗礼を受けないと、教会の会員にならないと、毎月献金納めないと、伝道活動しないと、神の前に義とされませんよと教えたら、それは偽の教えであり、何かをすることで、

義とされる、新しくされるというのは、聖書ではないと分かるでしょう?それと同じことをパウロが話していることを、理解して下さい。

パウロは、「もし命を与える〜人の努力で新しい命を得られる

トラーが与えられていたとしたならば、それならば、義は確かにその

トラーにより得るのでしょう」(21)と仮定して言っているのです。

仮定です。でも、もしそうであれば、そのトラーは神の約束(アブラハム契約)に反することになってしまうのです。

重要なのは、トラーに従うことによっては、人は命を得ることができないので、トラーを生きることによる義はありえないということを

パウロが諭しているのです。

これは、アヴラハムとモーセのまさに両方の契約が教えていることです。神の言葉は一貫しており、神の契約も一貫しています。

パウロが言っているのは、モーセのトラーに関しては弱点がありますが、それはトラー自体〜神の言葉の弱点ではありません。

弱点とは、トラーを生きても義とされない。なぜなら、トラー、

婚姻契約は、信仰により義とされた人だけに与えられたものであり

贖い、救い、義を得ることが目的ではないからです。

アブラハムの契約がなければ、したがって、キリスト〜子羊の血の贖い、救いがなければ、私たちにあるのは、命ではなく、ただの

教え=トラーだけであり、私たちは、命=聖霊が内側に住まうこと

なしには、どう生きたら良いのか、道に迷ってしまいます。

とパウロは言っているのです。

神を知らない人が、神の教えを生きていても、それだけでは救われない、イエシュアと出会う新生体験も、聖霊も内側に住まう状態には

なれないということなのです。

 

続く