ガラテヤ書 誤解した聖書解釈を一掃する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ2:16 人の義とされるのはトラーの行いによるのではなく、

ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、トラーの行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。

なぜなら、トラーの行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。

 

パウロが書いたのは、神が伝える通りそのままです。

人は誰一人、神しかできない事、罪の贖いの代価=イエシュアの命と

匹敵するような代価を払う事、術はないからです。

永遠の中それは既に支払い済み、完了しています。それは、この世の

礎が造られる以前から、私達は神の中に選ばれ存在ていたからです。

神は人に必要なものを、この世が物理的に造られる以前から、全てを用意してくださっていたのです。人の努力で、人が自分を贖い出し、救い出せるなら、それこそイエシュアの命の代価は、茶番劇になります。必要ないでしょう。

 

何かをしたから、救われる、義とされるのではない!

それは不可能だからです。

そして、神の前に義とされようという、そのズレた目的の為に、神の教えを生きるなら、ズレます!という事です。そのような目的の為に神の教えが与えられているのではないからです。

神の教え=言葉は、義とされた人、贖い出されて救いを与えられ

神の花嫁となった人達に対して与えたものです。それは、神の性質

通りを生きる、神の家の一員としての生き方、イエシュアの性質

そっくりそのままが、どんな生き方なのか、神から教えられる、

それが神の言葉であり、神の伝える性質通りを生きるのが、神の似姿=イエシュアの性質を頂いた人が生きる生き方だと、神が言っている意味が、見えれば良いのです。

クリスチャンの教えは、救われたから、もう神の教えは生きなくて

良いですなど、神が言ったことではない、その真逆、人が考えついた教えを唱えているから、実際に何を生きたら良いのか、分からないままいるのです。そして、神の子らとなったのに、聖別を汚す生き方を続けていても、全くそれに気が付かないままなのです。

神を愛する人は、神の言葉を生きる!言葉とは、トラー=モーセの

五書に書かれた婚姻契約の生き方のことだからです。

人が教える宗教の教えを生きて、神に何を生きよと言われているのか、部分的にしか見えていないことが起きているのです。

 

次の箇所も、完全に誤解した読み込みをしている箇所です。

 

ガラテヤ 2:19 わたしは、神に生きるために、トラーによってトラーに死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義がトラーによって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

 

19節から、見て行きましょう。

一見すると、この聖句は使徒にとって、トラーとの関連性が終わりを告げているように思えます。

しかし、注意深く読めば、その本当の意味が明らかになります。  

この節は「for」(ギリシャ語=ガー)という単語で始まり、前の議論とのつながりを示す接続詞です。  

 

2:17 しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に

仕える者なのであろうか。断じてそうではない。

 

この場合、パウロの「for、ために」は、17 節で導入された「if、もし」節への答えを表しています(「もし、私たちがキリストにあって義とされることを求めるうちに、私たち自身が罪人であることが明らかになったら…」)。 

 

 19 節を理解する鍵は、17 節にある個人としての私たちがどのようにして「私たち自身も罪人である」と認識するようになるのかを正確に答えることにあるのです。何により罪が示されたのですか???

 救いを経験するまで、パウロは自分の本当の状態、つまり神の教えに対して違反してた状態と、そのズレ=罪で死んだことを、ある部分が盲目にされていました。  それは全部ではない!メシアに関して、

勘違いをしていたでしょう。パウロも。

しかし、イエシュアの犠牲の死の事実を知ることを通して、聖霊が

パウロの内側に住まう状態になった今、パウロはトラーが、彼にこの新たな自分自身の啓示をもたらすのに、どのような役割を果たしたかを振り返ることができると言っているのです。

詰まり、トーラーは神の聖霊と共に、相働いて、神の義の基準に違反するという罪の正体を、パウロに明らかにしたのです。

したがって、トーラーを通して、つまり罪を明らかにし、非難するというトーラーの適切な機能を通じて、個人はトーラーの目標、つまりメシア自身の啓示に導かれたと言っているのです。

なぜなら、人は神が伝える罪の基準の意味、トラーに記された事を

知らないなら、何が罪であるか気がつけないからです。

トラーの側面の1つは、神が定義する罪の基準を通して、人間のズレた生き方を理解させるという性質があります。

だから、クリスチャンが、神の罪の定義が取り払われたと、自分勝手な思想で、この部分は終わり、これは異邦人に関係ないと言い続けて、聖別を汚す行為が、神の前におぞましい罪であるとも、気がついていない、その状態と同じなのです。

もし、この道は、時速40キロ以上では走ってはなりません!と書いてあるのに、70キロで走るなら違反でしょう?それを、交通ルールの時速の定義を外したら、暴走する、スピード違反が起きるのに、

今は、アウトバーン200キロもOKですと言っているのが、クリスチャンの世界の、神の罪の定義取り外し、神の教えは破棄されたと

言っていることであることに、気がついてください。

人間がどう生きるか?と神が教えているその教えを、神が捨てよと教えたと言っている、それがクリスチャンの世界で浸透した、騙し、嘘なのです。

パウロは、ある面では、神の罪の定義を知り生きていましたが、

タナックに記されたメシアに関してのことが、よく分からなかったの

でしょう。

どのズレも同なじです。クリスチャンは神の罪の定義を捨て、ある

事柄だけ理解しても、神の教えが変わらないと知らないから、神の前にパウロとは違う違反ですが、罪=ズレをしていても気が付かないままです。清くない動物を平気で食しても、それが正義だと思う。

神のシャバットを汚していても、それが今の時代、恵みの時代の生き方だと勘違いしている。神の言葉が廃れたと、神に対する偽証、神の言葉を否定する行為が、死に匹敵すると、神が罪としている事にさえ、気が付かないまま、人の思想を、神の言葉にすり替えて、宗教の教えを語る、それと同じなのです。

パウロの場合は、イエシュアがメシアと分からず、その面でのズレ=罪に気が付かなかったけれど、トラー、預言書に記されたメシアが

本物であると気がつけば、パウロが自分自身がイエシュアに対して

偽物のメシアであると主張し、同調していた行動が、罪であると

トラーから示された!という事なのです。

罪の中に留まり続けるか、血の力によって解放されるかの選択に直面したとき、パウロは、自分は古い自分に「死んで」、その結果、人生を選択する人に認められる新しさの中で生かされたと告白します。

 

そして、聖霊が内側に住まわない、贖い救いを受けて居ない人に

取っては、トラーに示された罪を指摘されたら、それこそ自分の中にそれを解決する手段がないから、罪がもたらす呪い〜神の前に意味なしになると言う事から、逃れられない不安の状態、意識をもたらすだけなのです。それがトラーに記された罪の下、呪いの下にあると言う意味です。神の教え=トラーが呪い!と完全にクリスチャンは読み違えて、言い続けて、偽情報を頭脳にインプットし続けているのです。

 

ユダヤ人の中では、メシア=イエシュアが分からない時は、罪の許しの確信がなく、揺らぐというのを告白していたのを聞いた事があります。それぞれが、違う意識ですから、皆が同じように考えているとは言えません。クリスチャンも同じでしょう。それぞれ、人生の途上

信仰の旅路で、理解している内容は異なるからです。

本当に許されているのか分からない。本当に神は自分を愛しているのか、又は天国行けるのか?それはそれぞれが感じている事、考えている事体験している事であり、クリスチャンが全員同じ意識で生きているのではないから、何を信じて生きているのかなんて、十ぱ一絡げに、言い表せないのと同じ事だと、理解してください。

クリスチャンだって、同じような疑問を持っている人は大勢いるのです。

ただパウロは、本当に正義感で、偽教師、偽預言者、偽メシア

イエシュアだと誤解していたのです。偽物が神の子だなどという冒涜を言っていると考えていたからです。でも、大勢のユダヤ人は、

イエシュアが、タナックに記された約束のメシアだと、はっきり分かったのです。だから1世紀当時、何千何万という多くのユダヤ人は、イエシュアをメシアと認識し信じた事が起きたのです。

 

パウロが19節でトラーにより、トラーに死んだとは、トラーの教えを捨てたという意味ではなく、このような発言でパウロは何を意味しているのでしょうか。

私達は、パウ​​ロがイエシュアに於いて、トーラーへの従順に対して

死んだとみなすべきなのでしょうか?決てそんな事はあり得ません。

パウロは、使徒21章でも、証明しているように、100%モーセのの五書に忠実に生きて、実践している人である請願をした記録が

あるでしょう。パウロが、その場限りの嘘を言い、クリスチャンの世界で語られるように、コロコロ、カメレオンのように、対応する人に

応じて自分の信じている事を、否定したり変えたりするような、

パウロに対する完全な誤解を、払拭しないと、パウロが書いている意味、そして、偽パウロ像で、聖書の記述を塗り替えるような事を

ずっとしているのです。

簡単に言えば、彼は今、御霊における新しい人生は、以前は自分が

守っていると思っていたまさにそのトーラーによって、罪人として

断罪されるという恐れなしに生きる、人生に変わったと理解しているのです。古い人はイエシュアと共に死んで葬られた!という事です。

そう書いてあるでしょう。聖書に。

トーラーには、罪人を神の裁きと究極の拒絶の対象とするよう、宣告する機能が適切に組み込まれています。その拒絶は、人が命のメシアを選ばなければ、死に至る事になるからです。パウロはガラテヤ人に、イエシュアを選んだことは、トーラーが断罪した自己=イエシュアと共に葬られた人=以前の人生を捨て、御霊を通して神に仕える新しい命を与えられた、その生き方を選ぶこと、つまりトーラー自体の中にある、イエシュアが伝えた神の教え=生き方の啓示によってもたらされた選択であると理解すべきだと教えているのです。

メシアにおけるそのような自由は、人をトーラー=神の教えから解放するものではなく、むしろ、神から神の教えを正しく教えられ、適切な助けを受け、神の視点から見て、神の教え=トーラーに歩み入ることができるように人を解放すると書いてあるのです。

クリスチャンは、完全にパウロの書簡、聖書を読み違えているのです。そして、次の箇所も正しく理解し直さないとならない箇所です。

 

ガラテヤ2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしが今、肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしの為に、ご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

 

キリスト=聖霊=神が私達の内側に住まわれている。

それは、イエシュアの贖いの代価を信じる信仰により、アヴラハムに

約束された信仰による義〜新しくされる事実と、神=イエシュア=聖霊が内側共に住まう事実を与えてくださった。それは、人の行いや

手柄、何かした事で得られるものではない!それは、どの時代のどの人種も同じ!

だから、人の教えで語られる、ユダヤ人は律法を生きて義とされた

一時的に動物を通して許された、又は太古は、動物で罪が許されたという、聖書の語る事実とは異なる事を言う教えは、聖書ではないと

聖書から確認しないとならないのです。

 

人の手柄で、神の教えを生きたら、義とされるとするならば、

キリストの死は無駄!他の方法がない〜イエシュアの子羊の血の代価

永遠の中に屠られ、支払われた贖いの代価以外にないから、神はそれを、この世の礎が造られる前から、そして私達を永遠の中から選び出して、その人達のためにあらかじめ用意してくださっていた事が

聖書には、最初から最後までそれが記されているのです。

だから、トラーによって〜と読み、神の教えが廃れたという、聖書とは異なる思想を全部削除しないとなりません。

言葉=神=聖霊=イエシュア=トラーだからです。

神の言葉を退けるとは、聖霊=イエシュアを退ける事である事を

覚えておいた方が安全です。

 

2:21 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義がトラーによって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

 

神の言葉は全部揃ってシャローム、一体完全なのです。

神の言葉全体で、人の生き方を教え、そして神が誰かを教えている。

そのどこでも、削除、付け足し、変形、別の教えに変える、その行為は遺伝子組み替え、人間が神に成り替わり、神の言葉の判定を勝手に

している、危険な行為である!のです。

神が伝える永遠の真実を見えなくさせる作業に、サタンの作業に加担する行為だからです。

ガラテヤにあった問題は、エルサレムから来た宗教エリート達、

ユダヤ人の中にあった「先祖の言い伝え、伝統の教え、戒めの律法」

それらは、モーセの五書=神の教えではない、人間が編み出した様々な規定、ルールの数々です。割礼と言う呼び名で呼ばれた、改宗儀式もそうですし、神の教えのあれこれをして、人間の行いで義とされるというのもそれです。その人達は、多分イエシュア〜新しく生まれ

変わるという体験のない人たちもいたのでしょう。

イエシュアを救い主と知った後でも、人は人の教えに騙されて、人の教えを生きる、ズレた生き方をするものなのです。

だから、聖霊により、イエシュアの新しい命、新生体験とクリスチャンが呼ぶ、その実態が分からないまま、神の言葉のあれこれそれを

生きて、神の前に義されると考えていた人もいた、もしくは、

新生体験をしても、その後人の伝統の教え、宗教の教えを生きるのが

神の前に正しい!と考えていた人たちがいて、それが問題の根だったのです。

でも勘違いしてはなりません。イエシュアが来られる前も、

アヴラハム同様、イエシュアの贖いの実態を信仰により受け取った人たちがいました!だから、同じです。信仰によりエデンの園から語られている同じイエシュアにより新しくされる、罪許されて、聖霊が

内側に住む、父の元に取り戻されている、その体験をどの時代の

残りの民、ユダヤ人も異邦人もしていたのです。

 

 

続く