ペテロもそうですが、パウロは最も誤解されている人物の一人です。
本当のパウロは、どんな人でしたか?
パウロの背景は相当ハイクラスの、そして、頭脳明晰でモーセの五書
トラーの高等教育、当時最高峰の教育を受けて、司法、政治を司る官僚になるキャリア路線を爆進するような身分の人でした。
だから、イエシュア処刑〜ローマ帝国やイスラエルの司法に関わる
ような、場所にいたのです。
パウロは当時の人の中で、最高峰の教育を受け、弟子達とは違うレベルのトラー学者であったのです。だからパウロが、イエシュアから
選ばれた、異邦人へ正しくトラーを教える任務を与えられたのは
容易に理解、納得できるです。神の教えを知らない、本当の意味での教師ではない素人には、そのような役割はできないからです。
そして、パウロは、モーセの五書=トラーを否定し、新しい教えを
した人だなどと、パウロの書簡を読み違えているクリスチャンの教師に、そのようなズレたパウロ像を教えられているのですが、
それこそが、根も葉もない誤解です。
聖書を正しく学ばない、元に何が書かれているのかも知らない人達
人の編み出した非聖書的人造神学から、翻訳聖書だけを読み解く事しか知らない人に聞いても、そこからは、正しく聖書を読み取り解説する正しい情報など得る事などできないのは当然なのです。
半分本当、半分不真実。
全ては歪んだ聖書の学び、人造神学による、正しくない聖書の解説が蔓延した、弊害、代償、結果であるのです。
偽科学、進化論と全く同等の嘘仮説です。神の言葉を否定、削除、変形した土台から人が考えついた嘘の聖書解説からは、神が語る、本物の真実は掘り出せないのです。
パウロは、生涯100%モーセの五書に忠実に生きて、モーセの五書を人に教えた、それがパウロの諸外国へのミッションでした。
パウロが異邦人達、諸外国にいるユダヤ人とのミックス混合の群れに
教えたのは、100%モーセの五書だけ!聖書に書かれた事を、
正しい理解に戻してください。パウロは、語る相手により神の言葉を変えたり、否定したり、作り替えた聖書に書いてないモーセの五書とは違う教えなど1度もしていません!
しかも、パウロや弟子たち、1世紀の人たちには、新約聖書などと
呼ばれる書簡など、存在していません。聖書に聖書と書かれていたら、それらは100%モーセの五書の教えであり、モーセの五書の
解説の預言書、諸書のみであるという、事実だけに立って考えてください。パウロは、トラーが頭脳に全部記憶されており、預言書、諸書も記憶していたような人です。そして、そこから全てを教えたのです。
パウロは毎週第7日目のシャバットで諸外国で、ユダヤ人の会堂にて
教えた記録がずっと記されています。
モーセの五書をパウロは教えたのです。それがユダヤ人の慣わしで
あり、イエシュアも地上に居られた時されていた事と同じなのです。
今も世界中、ユダヤ人、そして異邦人、神の言葉が永遠普遍と知ったイエシュア信者も毎週シャバットで同じトラーの箇所、預言書を読み続けているのです。
パウロが書いている、書簡に記されている、当時の諸外国にいた人たちの間にあった問題は、本質が同じ事が書かれています。
イスラエルの中でも同じです。
人の編み出した教え!それです。それが宗教の教えなのです!
神の言葉に人の思想を付け足して、それを人に伝えてやらせる!
それらが、どの地域にいた人も多大に影響を受けて、惑わされ、
縛られていたのです。今も全く同じでしょう。
人が作った教えなのに、神の言葉、教えだと騙されて、思い込ませれ
やらされる、それです。
①ユダヤ人達の中にあった伝統の教え=先祖の言い伝え、伝統の言い伝え、律法の戒め、負えないくびきなどと解説されている、モーセの五書とは違う、人が考えた、解釈した事から編み出した色々な厳しい規定、ルールです。
手洗いの儀式もその1つですし、朝起きてから、夜寝るまでの、
日常の細かい動作や生き方、そんな事まで彼ら流のやり方を押し付けられる事、そして、コロサイ2章にあったように、ユダヤ人の宗教
エリートが定時する通りに、祭り、シャバット、新月を祝わなくては
ならない、クリスチャンが祈る時は両手を胸の前で組んで、目を閉じて祈りましょうと人に教える、そのような人間が考えた細かいルールの一つ一つをやって生きないとならないと、強要していたのです。
もし目を開けて祈ったら、不信仰、不敬だ〜!などと言われる、
そういうタイプの人の教えの縛りです。
②ユダヤ人エリートの中には、異邦人は改宗儀式をしなければ、
天の国の一員には成れない、契約の民ではないから、そのような
儀式〜割礼を呼ばれる、当時の人が編み出した厳しい儀式をしないと、仲間になれないと教えていたのです。
これがガラテヤにも蔓延していたのです。
③禁欲主義、 グノーシス主義、肉体は悪い、喜び楽しみは悪!
結婚、性的な喜びも、食べ物を楽しむ事も、ダメ!悪!
神が与えたきよい動物も食するなかれ!神はきよくない動物は
人間の食べ物ではないから、食べるのはあなたと他者に害を与えると
教えていても、神が人が食べるために創造した食べ物を、食べては
ダメというのは禁欲主義者の人にたいする縛りの教えです。
この点、誤解してはなりません。クリスチャンは、今はきよくない
動物でもなんでも、感謝して祈れば食べれるなどと、神が禁じている事なのに、異邦人クリスチャンは神の言葉の方を曲げていますが、
神は清くない動物は永遠に清掃動物としての目的性質通りに造られていますから、それらゴミ処理動物を人間は食するように造られていません。そのような生物を人が食べた結果、世界に、ウイルス、菌が
蔓延し、環境、河川海を汚染し、そのウイルス、菌はずっとそれが
きよくない動物、きよくない魚介類を食べる人が取り込み、環境に
排出し汚染し続けてる悪循環を繰り返して、自分を他者を苦しめているのです。
レビ記11章に、神の言葉できよめられている=神の言葉で聖別されている動物、神の言葉で、聖別されていない人間の食物ではない清掃動物の全部が、リストアップされています。
それらは、進化変化しない、永遠に同じ、神の言葉通りです。
神の言葉できよめられていない動物は食せない!と書いてあるのに
読み取っていない人の、聖書を誤解した理解が問題なのです。
本当に聖書に戻らない限り、神の伝える教えを正しくは理解できません!人が勝手に編み出した日生死的教えに照らし合わせて考えているそのズレに、気がついてください。
禁欲主義の教えが、初代のイエシュア信者達の間に蔓延していて、
それら、人の教えに影響を受けて、縛られてしまう事にパウロは
そんな人たちに批判されるなかれ!と、教えたのです。
肉体、物質は悪い、楽しみ喜びは悪い!だから、結婚を禁じ、神が与えたきよい動物、その他の美味し食べ物を食べて楽しむなかれ!
神の教えとは関係ない事を教えて、それを生きるように強要される
それこそが、縛り、呪縛だからです。
出エジプトして、偽の教えの奴隷から解放されたのに、再び宗教という人の教えの奴隷になる警告が、書かれているのです。
自由への口〜 闇に隠れた神という名の2つの場所に挟まれたところに、紅海を通して脱出する前に、イスラエルと異邦人は宿営させらた箇所があるでしょう。
その歴史の事実を通しても、神は教えているのです。
人の教えの奴隷になってはならない、人間が作った宗教に仕えては
ならない、イスラエルの神〜神の教え、言葉=イエシュア=聖霊だけを熱心に知ろうと求めて、本来のあなたの性質を生きて!と教えているのに、気が付かないのは、トラーを学ばないからです。
神の言葉から右にも、左にも逸れてはならないと、神が教えているのに、人の教えは、神の言葉を捨てて、自由に生きよと蛇の声を復唱しています。
そして、気が付かないまま、神に敵対する行為をして、神の言葉に
逆らった教えをしているのです。蛇は、その人達の足元で、大笑いで転げ回って、喜んでいることに、気が付かないと危険です。
でもその嘘をストップするのは、神の言葉に戻る事、神が伝える
本物の羊飼いの声を読んで、聞き分ける事を身につければ良い!
聖書に戻ろうと言うならば、神の言葉のどの一点一画も否定する事
その行為は、神に対する死に匹敵する大罪であると書いてあります。
どうして、人間は、神の言葉この箇所は、あの教えは、今は自分には関係ない、異邦人には関係ないと、神が警告している事と真逆を言い続けているのですか?結局神の言葉、教えを捨てるから、真実が見えないまま、汚染され、病気になり、聖別を汚し、神のデザインから
外れた、本来神が創造してくださった自分の生き方からズレていても、全く気がつけないままになってしまっているのです。神の教えを捨てるから、それが神の言葉、教えを捨てる代償なのです。
騙されるなかれ!今の世界は偽情報で蔓延し、人は簡単に主流メデイアが流す嘘に引き込まれて、騙され続けるのです。
でも一方本当の情報を探り、真実を突き止める人は、分かる、守られるのです。それと同じ。偽情報〜神の言葉の方を否定、曲げる、削除廃止する教えは、神の言葉、聖書ではない!という、神が人に伝える基本中の基本の真理、永遠普遍の真実だけに立てば、たとえ深く意味は分からなくても、神の言葉を少しでも否定、削除、無効とする
聖書解説は、聖書=神の教えなどではない!と、はっきり識別できます!偽情報、嘘を信じ込まされることから、守られます!
人間は神の言葉を仕分ける権威は与えられていません。
DNA人間の体と同じく神の言葉は1つであり、繋がってどの箇所も
それぞれの機能を果たしているのに、イエシュアの体、足、頭、腕
どの箇所でも人間が自由自在に切り離して捨てて良いと言い続けているのです。イエシュア=聖霊は、神の言葉そのものであり、聖霊は
神の言葉を削除、否定、神の言葉に反する事は、絶対に言いません!
そのような、神話〜空想、作り話に、聖書から教師が気がつけない程騙しの闇は深いという事なのです。
ガラテヤや、ローマの中で語られていること、律法主義と言われる事は、神の言葉を生きる事が律法主義などと、聖書で、神は教えていません。
このガラテヤの箇所、内容が何層にもなっているので、ゆっくり一つ一つ論点の内容を、考えて行けば見ます。
パウロが指摘しているのは、ユダヤ人宗教エリートの中にあった考えと同じです。宗教の教え、人の編み出した思想、哲学に騙されている事なのです。
異邦人に対しては、プロセライト〜ユダヤ人になるという改宗儀式を
通過しなければ、異邦人は救われない、神の国の正式な一員になれないという思想がそれです。
これはクリスチャンの中にもあるでしょう。洗礼を受けない人は
正式には神に救われていない、自分たちの正式な仲間ではない、2等席にいる別の下級メンバー、色々な意識があるでしょうが、正式には
神の国に在籍していないなど、そういう人間の思想が蔓延していた
のです。
そして、もう一つは、クリスチャンの教えの中にもあるのと同じ
間違い、ズレた思想です。
神の言葉を生きて、義とされる!これ、当時のユダヤ人も、クリスチャンも同じズレた思想を持っているのです。
聖書の中には、人間の手柄、行動、実績で、イエシュア=神しか
出来ない「贖いの代価の支払い」をする事は、誰にも出来ない!という事を、しっかり頭脳に入れておかなくてはなりません。
これはどの時代の人、ユダヤ人も異邦人も全く同じです。
クリスチャンの間では、古代は律法を生きて、義とされたと解説していますが、それは神の教えと真逆な思想です。
聖書に書かれている内容を、理解していないからです。神殿が与えられたのは、天の神の家そっくりそのままを地上で反映して、神の子らが神の家に住まう事、神の臨在が住まう事実、そして、その中で行われていたコルバンの儀式は、イエシュアの贖いの業の全ての意味を教えるものであり、実際に動物を屠って、動物の頭に自分の手を乗せて、自分の罪がその動物の頭に移る、その行為を通して、神が私達の罪の全てを負って、清算してくださった事実を、体験的に動物を通して、命を屠って実際型体験学習させていたものなのです。
だから、その手には、動物の匂いが洗ってもずっと付いていて、
動物を屠った時の鳴き声も耳から離れない。
罪の代価の重さや、贖われた事の意味を、その体験を通して分かるし
罪、ズレの生き方に2度と戻りたくないと、はっきり自覚、決心するでしょう。それほどインパクトのある体験学習の場所だったのです。
それは全員ができるものではない。エルサレムに住む、その周辺に住む、又は、祭りにエルサレムに上って、神殿に来る事が出来た少数の人だけなのです。
でも、神はその神の家を通して、イエシュアの贖いの業、私達が神の前に新しくされている、神の中に芳しい香り=動物を焼く匂い、
立ち上る煙で天に受け入れられているのを見て、学ぶ、知る事が
出来たのです。そして、最後はそのバーベキューした美味しい動物を一緒に食する宴をしたのです。和解、喜び、許された安堵感、様々な体験をするのです。そして人との和解の時にも、それをしたのです。
許し、和解、再び引き寄せられ仲直り修復できる体験が、神の家の中で教えられていたのです。
だから、古代は動物の血で仮の許しがあったという、クリスチャンの教えは聖書ではありません!なぜなら、動物の血は罪を消せないと
はっきり書いてあるでしょう。
イエシュアのみ、子羊イエシュアの血の代価=永遠の中で支払われたもの以外、誰も神の元に引き寄せる能力、方法、手段はない!と
教えているではないですか。目的が違うのです。
だから、ユダヤ人が、改宗儀式を異邦人に迫るズレも、クリスチャンが古代は律法を生きて許された、義とされたという教えも、同等の
性質のズレた思想なのです。
それを、念頭に入れて、パウロが何を話しているのか、再検証する
必要があるのです。
神の贖いを得る方法、義とされるのは、アヴラハムに与えられた通りの契約と同じ、信仰で受け取る以外には、可能ではない。
人には自分を贖える方法、代価を支払う術を持っていないから、
そんな単純な事なのです。このガラテヤに居たユダヤ人宗教エリートの教えに洗脳された人たちの、ズレた思考回路を、パウロが正ている事を、覚えてください。
パウロはどの箇所での論点に於いて、神のトラー=モーセの五書が
廃れたとか、無効、終わり、自由に仕分けろとか、割礼が意味ない
無用、又はシャバットや記念日は今は、人の判断でいつでも良いなどと微塵にも考えてもない、言ってもない大前提を絶対揺るがさないでパウロの書いている書簡を読めば、パウロの論点は見えます。
それを、モーセの五書をパウロ、又は神ご自身が否定し、今は清くない動物も食べれて、シャバットや記念日は人の自由で勝手に祝い、
神の記念日を祝わないのも人間の自由などという、クリスチャンの
世界の神の教えに反する思想を、全て一掃してください。そんな
冒涜、罪、ズレは聖書のどの箇所にも1つも記されていません!
自分で、聖書を確かめれば、分かるのです。
そして、アヴラハムの割礼が無効、意味ないなどと、パウロは決して言いません!それは、永遠に与えられた契約が存在する証拠の印と
して与えられているものだからです。クリスチャンの間でも、信じれば良いから、洗礼はもう意味ないと言わないでしょう?
儀式は表向きに人に見える、表明であり意味があるのです。その違いを、理解すれば、簡単に何が討論されているのか、分かります。
続く