福音書以降を読んで、モーセの五書が終了になったと誤解している
本当の原因、要因は、聖書を書かれている通りに正しく教えられ、
解説された事がないことです。
正しくない聖書観、聖書に書かれてもいない時代ごとに変身する
人格のイスラエルの神像と、時代ごとに変化する神の言葉という
異邦人が編み出した聖書とは何の関係もない、非常識、冒涜的
神と神の言葉に対する真っ向からの反逆意識行為。
それら、聖書に書かれていない教え、イスラエルの神像、
イスラエルの神の言葉の性質、イエシュア像を、異邦人教師が2000年近く語り続けて、神の言葉ではなく、人間の作った教えを神の教えだと思い込んで、偽情報を知らないまま、他者へ浸透させている事が、本当の問題、不正確な聖書解説の本当の原因なのです。
その大元は、神の言葉を、人の思想で塗り替える違反が、1世紀後半に初代教父〜異邦人達、そしてローマ帝国により行われてしまった事が、その本当の原因であり、神が神の言葉を変えるという、嘘にすり替えられて、今日も信じるものの口から伝え続けられてしまっているのです。
聖書は、最初の部分を正しく理解しなければ、本当の意味で、何が
書かれているのか知る事はできません。どんな書物でも、その言語
そのものに書かれている意味通り、その時代に書かれた意味通り
その時代の人たちが理解していた通りに、読み取らないと、
見えません。ましてや、元の言語が見えない翻訳を、聖書とは違う
人の思想で読み込みしたら、書いてある意味など、正しくなど読み取ることは、できないからです。
人間の書いた書物でも同じです。1冊の本を、最後の4分の1だけを読んでも、全体として何が書いてあるのか、最初、得に柱、土台となる部分が分からなければ、その中身の意味は本当には分からないのと
同じ事です。しかも、聖書を抜粋で拾い読みしても、分からない、
それは神の言葉は大元〜モーセの五書があり、聖書全体がモーセの
五書=神の教えを解説しているからです。
得に誤解されているのは、福音書にあるイエシュアが語った言葉、
例えば、神の言葉、教え=トラーをイエシュアが正しく解釈し教え=成就し、破棄という慣用句で解説されている箇所です。
破棄とは、神の意図とは違う事を教えに来たのではないと、イエシュアは言っているのに、この箇所を、律法は破棄された〜、イエシュアが生きて、神の言葉を成就したので、それ以降は神の教えを生きる必要などなくなった〜と、クリスチャンは解説していますが、本当に聖書を理解しない教師に、偽情報を習い続けてしまう弊害、損失である代表例である、誤解した聖書解説の箇所、イエシュアの言葉さえそのように誤解して解説しているのです。マタイ5:17-19
どこに、イエシュアがトラーを生きたから、それ以降は人は神の教えを生きる必要がなくなったと、聖書のどこにかいてあるのですか?
本当に変な教えです。では、イエシュアを信じた人は、一体何を生きるの?自分勝手なそれぞれ自由な考えを生きる?そうですよね。
神の言葉をどの箇所でも否定する人は、罪へ大きく扉を開くのです。
今は牧師や教皇まで、神の言葉に真っ向から反する、聖書を否定する教えをしているでしょう。LGBTQ支援します!と。
そして、神の教え=トラーを破るように人に教え、そのようにする人は神の国では、呪い=一番軽い意味ない存在になると、イエシュアが
言われている警告が、その人達の耳には届かないのです。
いや〜ジーザスを伝えているから、そんな事あるわけない!と、考えているのですが、侮るなかれという事なのです。
主よ主よと、主の名を使い、不思議、奇跡を行なっていた人たち、
でもその人たちは、神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた事から逸脱した教えを、生きていたから、イエシュアは彼らに、「あなたとわたしは契約の中にある関係ではない!」と戒められた意味は、
通じてなどいないのです。
脳内ジーザスを空想しているからです。2000年近くも皆が信じて信奉しているから、それが真実だと錯覚しているのです。
主よ主よ愛してますというだけで、それだけで、なんでも、かんでも神が受け入れていると考えているからです。
大事なことは、神が伝える通りを理解し、生きる、それが神を愛することであると、神は人に教えているのです。契約、ブリット=神が提示した通り、本来の人間のデザイン通りを生きる事、それが神の教えみこころであり、人の本来の生き方だからです。
聖書に記された本物のイエシュアの実態を、人々に対して生きて表すことをするのです。
聖書に書いていない、メシア、イスラエルの神を伝えてはならないのです。人の発想、宗教の人造思想の空想のメシア、イスラエルの神ではなく、聖書に記された、神が伝えるイエシュア、神を知って生きて、伝える。
神が人に伝えている、本物の真実を人に伝え、生きるのが、神の子らの本当の生き方なのです。
私達は、神の性質通りに造られたから、私達の中には、神の性質通り
イエシュアが生きた性質を生きれるDNAが与えられているのです。
そして、神の真実を知る事ができるのは、神の言葉を通してそれが
可能なのです。
その大元=神の言葉を、破壊されてしまえば、神が伝える通りの真実が見えなくされてしまうのです。それがエデンの園の大事件、人に
罪=神との隔たり=死が入り込んだ原因である事を、全然考えていないのです。
ピリポカイザリアの異教神の神殿の前で、イエシュアが言われた事、
ペテロに対して、イエシュアが言われたのは、神の言葉を自由自在に
ペテロが変形、解釈して良い権威を与えたと、勘違いしているのです。
マタイ6:18−19です。教会とは、聖書にない造語です。
元の言葉は、カハール、ケヒラ=ヘブライ語、エクレシア=ギリシャ語、神の声に応答して呼び出された人々の群れです。
だから、それを集会、群れと、創世記〜マラキでは翻訳しているのです。
その群れ〜イスラエルの大家族は、エデンの園から1つしかありません。それを、昇天以降、2つ別の群れ、群れと、教会=異邦人が
出現したと、聖書と逸脱した思想を刷り込まれているでしょう。
それは翻訳トリックと神学で刷り込まれた非聖書的思想です。
教会の元の言葉は、カハール、エクレシア、群れです!
群れ、会衆と訳すべきなのに、教会などという、今までにない言葉を
作って、あたかも別物が出現したという意識を、読者に植え付けてしまったのです。
造語、翻訳は本当にやめないとならないのです。人に聖書とは違う
概念と意識を植えて、それは、人の編み出した神学、デイスペンセーション、分裂思想を、イスラエルと異邦人は別のグループという意識を、見事に人の中に植え付けてしまっているのです。
ペテロは、神の言葉や教えを変える権威など与えられていません。
解く、繋ぐという言葉は、当時の慣用句であり、ペテロはイエシュアの一番の弟子の立場だったので、イエシュアが教えた通りのトラーの
解釈と生き方を、人々に教える責任を与えられたという意味です。
禁じる、許可する。
正しく解なら、繋ぐ、違うものなら、許可されない。
ペテロは、イエシュアが教えた通りのトラーの解釈、そしてイエシュアが生きた通りの神の言葉通りの生き方を、人に教える責任を自覚させられたのが、その場面なのです。
人間は、聖なる父などと、神と同じ名で呼ばれる事を、神は許可していませんし、神は、宗教を作ってもいないし、ペテロは、トラーを
否定して人間が作った宗教の初代カトリック教皇などでもありません!ペテロはヘブライ人であり、100%トラーを教え、ガードして生涯を生きた、ユダ族メシア、イエシュアの弟子です!
様々な誤解、人の編み出した言い伝えの教えで、真実が塗り替えられ
歴史の中で、その大元の嘘の原因が埋もれて、伝統の実践、そして
継承だけが残ってしまっているだけなのです。
イエシュアは父の教え=トラー=モーセの五書に記された教えとは
異なる新しい教えを伝えに来たのではありません。
父の教え、その通りを、神の解釈通りに教えて、それを生きて教えるために来られたのです。
新しい別の宗教を作るためでもない。聖書にはユダヤ教、カトリック
キリスト教などの教えは書かれてなどいません。
純粋な神の言葉=トラーが聖書に記されているだけ!
人間が、神の言葉にそれぞれに解釈した、人間の教えを付け足して
宗教を作り上げただけ!それを、はっきり知れば見えます。
人が知らなくてはならないのは、宗教の教えや実践ではなくて、
創造主が伝える、神の言葉、教え=神が創造された、神の似姿=
イエシュアそっくりの性質を生きる事を、神の言葉で教えられて、
学び、生きる事!それだけなのです。
人間が、全部複雑な教え、人の考えを編み出して神の教えに挿入し
神の言葉を変形し、宗教を作り上げてしまっているのです。
パウロの書簡の論点も、全部人が編み出したズレた思想に関して
正しているのであり、神の言葉を、否定し、削除し、塗り替えた別の教えをしているなどという誤解、嘘は破棄しないとならないのです。
ガラテヤの書簡の内容も、多大に誤解されています。
先ず、聖書のどの箇所も、神の教え=トラー=モーセの五書を
蔑ろにしたり、捨てるように教えたり、神の教えを破るように
教えている箇所など1つもありません!という、永遠の真実を頭脳に
徹底的に叩き込み、既存の伝統の偽情報と入れ替えるのです。
神の言葉に反する教えをする、そんな事をする人は、神の定義では
偽教師であり、神の目に呪いになると、イエシュアが警告している
意味を、聖書を読んでも理解しない人の考えなのです。
このような記事に書いていることを、何も理解のないクリスチャンの
友人に、本当のことを知りたいとも思っていない、バリバリのクリスチャンの友人に、もし直接唐突に言ったとしたら、本当に炎が見えるほど、反撃され怒りを表すので、もちろん言いません。
「律法の戻るのか〜!」と。信じたらユダヤ的な事やめなさい!
古い教えやめなさい!いや律法とは、神の言葉=教え、神の言葉に戻るのか〜?聖書には、モーセの五書の教えしか書いてないという事にも、気が付かない人に説明するのは、至難の業です。脳回路がない
理解する引き出しが少ないから、言っても通じないのです。
何を言っているのか、分かっていないからです。
それは、反モーセの五書=反神の言葉思想のスローガン、
ローマ帝国と西洋教父達の言葉、声であり、それこそが、神に敵対
するものの、正体を実際に声に出して代表して語るものなのに、
全く気がついていないまま、神に反撃しているのです。
人間の作った宗教は、神の言葉、教えではない!という真実を語るのは許されず、クリスチャンが、神の言葉を変え、破棄している、
神の教えによれば、それらは死に匹敵する重さの罪であり、神に敵対している違反行為そのもなのに、神の言葉を否定、削除、変形させることが罪であるとも、聖書=神の言葉から認識していないのです。
そんな遠く離れたズレた場所まで、理解が外れて、追いやられてしまっているのです。
だから、聖書に戻ろう!という人は、本当にそのようにすれば
神の伝える永遠の真実を知り、安全に守られます。
罪とは、ズレです。神が創造されたデザインとズレている全て
的外れ=罪。悪とは、ラア=神の意図とズレている全てのこと
それが罪なのです。
だから、「善悪の木」とは、トヴとラアの木とヘブライ語では言い、
人はトヴ=神の意図通り、創造のデザイン通りだけを取り入れる!
だから、神のデザイン通りではない、ラアの実は食べるようには
造られていないと、単純な事実を教えられていたのに、それに反した
ラアそのものを食べて、罪=ズレ、死を招いたのです。
そして、すぐには死ななかったでしょう。肉体は。でも確実に、
朽ちる体になってしまい、神との関係に亀裂、隔たりが出来て、
しかも、本来住む場所である、エデンに住めなくなった。
神が見えなくなった。元の状態ではなくなってしまった。
一番親密な人間関係である、夫婦に亀裂、誤解、なじりあい、非難しあう、今までにないズレが、二人の関係に入り込み、その後起きたのは、自分の子供の間での、兄弟殺人。悲劇中の悲劇でしょう。
兄弟で殺し合いが、エデンの園を飛びだた、人間の最初の罪として
書かれています。死=隔たり、相手を本来の姿で見ることができない
本来の性質で関われない、本来の関係、神と人との関係を失って
しまったのです。喜び=エデンを、蛇の嘘、騙しで奪われた。
神は聖なるお方であり、人間とは違う。しかも、別物が食べることで
体に侵入したから、汚れと神は1つになれない。
イスラエルが、神の教えを生きる事から外れた時、それも1000年
近くも混ぜ物の教え、異教の神々のシンボルや記念日、異教の神の
祭壇に捧げ物〜自分の子供=一番大事なものを犠牲にして捧げたりした。神の創造のデザインから、外れた生き方を続けた結果、約束の地から追い出さる事になったでしょう。
それは絵画的教えでもあります。神のデザインとズレた事をし続ける
それは、神と切り離される隔たりを生み出す場所に追いやられてしまう状態になる!という警告なのに、それを信じる者がやるように、
推奨している、危険な事をし続けて2000年も経ってしまったのです。
神の教えではない、異邦人が作った異教の神々の教えや思想が混じった宗教思想、異教神から来るシンボルや、異教の神々の記念日を、
自分たち風にアレンジして、記念日として作り替えて祝う。
これらは、高きところの礼拝と全く同じです。
ヤラべアムの罪と、神が警告している大罪と同じ!今はなんでも
いつでも良い、それはイスラエルの神の教えと真逆なヤオロズの神を
信じる異教神信仰異教徒思想です。
神はそれらを、姦淫の罪と呼び、最も忌み嫌うという、きつい厳しい言葉でそれを言い表し、警告しているのに全然通じないのは、神の
教えを捨てている、「はじめの愛」=神の言葉、トラーから離れた人には、神の声、警告、教えは届かない隔の壁が出来ているから通じないのです。
人は人間が作った宗教を信奉して生きるように、神に造られていない、教えられていません!それらは、無用であり、異物であり、人に必要なのは、神が伝える通りの神が創造された人の本来の性質通りを生きる事だけ!それが、本物、神のデザインされた人の生き方であり本物の自分を生きる唯一の道だからです。
イエシュア=道=人間の本当の生き方!
続く