安息日が日曜日に変更されたと勘違いの読み込みをしている箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

現代の自分たちの西洋宗教の思想、慣わし、記念日で、聖書の中に

書かれている、トラーを生きている人の世界を、勝手に読みこみさせていることをしているのです。

神の言葉、教えを捨てて、第7日目のシャバットを祝わず、

バシリカに十字架を立てて、日曜に礼拝していたと空想している。

日曜には、席上献金があり、牧師が主題説教をする。

そして、新月、過越、仮庵は祝わず、クリスマス、イースターを

祝っていたと、聖書に書いてあると思い込んでいるのではないでしょうか?

以下の記事を読んでも、パウロが祝ったのは、イースターなどではなく、春の祭りの一連、過越、種無しパン=除酵祭と呼ばれるもので

7日間祝ったのです。そしてその7日の真ん中に、初穂=復活の命

新しくされている事実、イエシュアが大地から蘇ったように、大地から刈り取られた初穂が神の前に捧げられる、復活の命は、最初から

教えられているのです。パウロが祝ったのは、それらであり、

西洋宗教の記念日ではないこと、読めば分かるのです。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

使徒20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

τῇ テ the定冠詞 μιᾷ ミア(最初 ファースト)τῶνトン(〜の) σαββάτων シャバトン(週)

と書いてあり、週の最初だけで、というギリシャ語は、原典には、入っていません。

これは、除酵祭=過越の祭りから始まる種無しパンの7日間を、

祝い、その祭りの意味、祝い方を知っている人には、この時期が何なのか簡単に分かります。

パウロは明らかに、イスラエル以外でピリピに滞在して、過越〜種無しパン、除酵祭を祝ったのです。

パウロはイースターなど知らない、祝わない、神の教えではないからです。

そして、その祭りの週が終わったから、旅をして、トロアスに到着したと書いてあるのです。そして、7日間滞在したと書いてあります。

最初の週とか、種無しパンの祭りから数えて、7週は、何であると

聖書では教えていますか?

これは、クリスチャンの中には、理解がないので、分からないことなのです。

なぜなら、神の祭り、新月、シャバットを祝わないからです。

これは春の祭りの一連の暦なのです。過越から、7週間は、次の祭りであるシャヴオートの祭りを迎える準備の7週間なのです。

7週間ある週、穂を数える7週の、最初の方の週、過越が終わった

直後だから、その時期のことを、最初の週と書いてあるのです。

ペンテコステとギリシャ語で翻訳していますが、シャヴオート〜神の婚姻契約をシナイ山で受け取った祭り、春の最後の収穫祭、小麦の

収穫をもって祝う祭りなのです。

この7週間の間の時が、「オメルを数える週の期間」初穂から、その成長をずっと日々数える7週間の期間なのです。

これを考えると、人の作った宗教の教えの暦、内容とは違うことが

分かるのです。

イエシュアが復活し、弟子たちや、親しくしていた他の人々に現れ

出たのが、この「オメルを数える7週の間」の時期なのです。

 

6節の除酵祭とは、過越の祭りから始まる7日間の、種無しパンを

食べる祭りの週のことです。

この過越の祭り=種無しパンの祭りの中に、過越〜子羊の贖い〜イエシュアの処刑、初穂〜復活、そして、昇天されたのです。

種無しパンは、罪が削ぎ落とされた人にされていることを、表しているシンボルなのです。初穂は復活〜大地から新しい命が出てきたことが教えられているものなのです。エデンで呪われた地、その地から

イエシュアが復活されたでしょう。

そして、新しくされた人、小麦の穂の成長を日々数えて、シャヴオートの祭りに向けて準備する期間です。

新しくされた人が、婚姻契約を受け取る迄、新しくされた人として、花嫁としての自覚を持ち、次の祭りの時に向けての準備なのです。

だから、過越が終わった最初の週のことが、ここで書かれているのです。

それを、クリスチャンの世界では、週の最初の日〜日曜日!安息日が日曜礼拝に変わったと書かれているなどという、とんでもない空想の読み込み、ウルトラ級の誤解の解説をやってしまっているのです。

安息日が日曜だと、神の言葉を退けて主張しているのは、聖書〜神の言葉を否定し、神の語る真実を拒絶した異邦人だけです。

聖書に書いてあることを、正しく理解していない人が、聖書とは

全然関係のない、人間の作った宗教の世界の教えのこじつけで、

聖書を曲げて解説している、こんなことが1900年以上ずっと続いて、偽情報が浸透し続けているのです。

その裏にあるのは、神の言葉が完全であり、正しく、永遠普遍である事実を曲げている嘘を拡散しているという、自覚がないのです。

 

西洋宗教の教え、慣わしの思想で、完全に読み込みの勘違いをしている箇所です。

現在トルコである、アレキサンドリア トロアスに行ったとあります。

この20:7日は、週の初めの日とは書いてません。

でも、もし週の初めの日としても、この時は、土曜日の日没から

夜中の話であるのです。なぜなら、異邦人の国では、土曜日は労働日であり、働いている人もいました。ユダヤ人の間では、金曜日の日没がシャバットの晩餐の祝いであり、土曜日の昼間には、ユダヤ人の

会堂でその週のモーセの五書の箇所、預言書、諸書を読み、そして、

土曜日の日没は、シャバットを閉じるために集まることをするからです。だから、この日がもし、週の初めと書いてあっても、それは土曜日の日没です。聖書の暦では、土曜日の日没が、週の最初の日の始まりだからです。そして、シャバットを閉じる時に又集まる、それが、彼らの慣わしだからです。

それを、日曜日の夜に集まっているというのは、これもズレた考えなのです。日曜日とは、土曜日の日没から、日曜日の日没なのです。

もし日曜日の夜に集まっていたら、それは聖書では、月曜の始まりの日没になることを、知っていたら分かります。

日曜日の日没に集まった、それは月曜日に集まっているのです。

でも、そんなことはしないのです。それは、彼らの慣わしではないからです。シャバットが閉じる、土曜日の夕暮れに集まっていた、

それが彼らユダヤ人の慣わしだからです。

とにかく、聖書の記事に関する読み込みをするのは、自分たちの宗教実践〜日曜日の昼間に夜に集まるのだなどと、考えて、空想の読み込みをして、聖書に書いてあることを、曲げているからです。

 

聖書には、日曜礼拝などという、西洋人、カトリック=人間が編み出した記念日はありません。

神の創造された安息日を、変更した、変更して良いなどという空想の教えなど1つも書かれていません!

 

以下の箇所も、キリスト教やカトリックの日曜礼拝に、ミサで

献金を募っている自分たちの宗教の慣わしを空想して、読みこみしている箇所です。

安息日は、永遠に第7日目です!神が創造を6日の間で完了し、第7日目を、止まり、そしてその日を特別に祝福し、特別に聖別している

この事実を、人がどんなに解説しようとも、曲げることなど

できません。

そして、第7日目が、神の子らに与えた、神の祝福の印、神との関係に入っている印〜婚姻指輪である!と教えているのです。

 

出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、

いこわれたからである』」。

 

イスラエルと書かれているイスラエルの神の大家族の苗字です。

イエシュアを通して、誰でもイスラエルの神に戻った人は、誰でも

イスラエルです。

他国の人も同じようにシャバットを祝い、同じように神の教えを生きると聖書には、はっきり書いてあるのです。神の言葉を理解すれば

良いのです。神が意図して伝えている通りを聞けば良いのです。

神は、この世界をユダヤ人だけのために造られたと書かれていますか?イスラエル〜大家族の長子、イエシュアを筆頭とする、代表です。長男。神に連なる異邦人は、弟、妹、同じ家族の一員です。

 

出エジプト20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。
<安息日は日曜日ではありません!第7日目!神の口から、はっきり
以下のように語られているのを、人間が横から、神の言葉を遮る妨害をし続けているのです。>
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、
家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを
造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
シャバットを巡る、中心とする全てのモアデイムも、異邦人も共に
招かれているのです。
 
申命記 16:11 こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。

16:14 その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。

 

未来預言も、神のシャバットをガードして生きる異邦人は、

神の家に招き入れられると神が約束して下さっているのです。

 

イザヤ56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、

悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。

<ここにある、悪きこととは、ヘブライ語では、ラアです。

善悪の悪、善はトヴ〜神の意図通り、ラアは、悪と訳されていますが、神の意図とは異なること全てです。だから神のシャバットを

ガード=守る人は、トヴ神のみ旨に叶うことをしているのであり、

神のシャバットを汚す人、破る人は、ラア〜神の意図からズレたことをしていると書いてあるのです。>

56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、

「見よ、わたしは枯れ木だ」と。

56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

<イエシュアを愛する人は、イエシュア=神=聖霊が望むこと、

そして、それをする人は、神の契りを固く守る人〜み心に叶うことをしていると、神が言っているのです。ではその逆は何ですか?という問いがあるのです。>

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は

 56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで

楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

 

次の箇所も、日曜礼拝で、献金を集めていることを、パウロが話しているという、勘違いした解説がされている箇所です。

パウロは、100%生涯、モーセの五書に忠実に生きた人です。

使徒21章の、パウロのナジル人の請願で、パウロはそのことを、

公に証明し、発表している事実を、読み逃しているのです。

パウロは、神の教えのどの箇所も、一点一画でも否定する教えなど

しませんし、そんなことしたら、パウロな偽教師であり、神に敵対するものとして、認定され、神から追放され、聖書を書く使徒とは

されません。

聖書には、異邦人が語るような、モーセの五書が否定、削除、変更された教えなど1つも書かれていないのに、そんな永遠普遍の明らかな事実さえも知らない人たちが、勝手に神の言葉を曲げているのです。

これ、ものすごい違反の力です。嘘なのに、嘘!と気がつけない。

神の言葉は神が言われる通りに、永遠普遍、完全で誤りがない!と

いう意味が全く通じていない大衆に対して、話すのは、本当に至難の

技です。

神の言葉を、神が伝えている通り正しく理解してください。

安息日=第7日目は、永遠に変わらない永遠に祝われる日です。

神は人間が神の記念日を変形することを、断固として禁じています。

週の中で、第7日目だけが、神は特別に祝福し、聖別し、特別な名

シャバットという名を与えています。第1〜第6日目は、すべて聖書では数字で呼ばれるだけの普通の日なのです。

 

1コリント16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
 
この箇所を読んで、クリスチャンの西洋宗教の日曜礼拝の一連を想像すると思いますが、聖書には、全くそんなことなど書かれていません。日曜礼拝など、神の教えに存在さえもしないからです。
シャバットでは、しないことがあります。神が禁じていること、
お金を取り扱いや、商売をし、そして金集めなど、シャバットにはしないことなのです。それが神の教えなのです。シャバットが来る前に、それらをして、神が聖別された日は、労働や集金やその他諸々、普段の日にする、メラハと呼ばれる、普段の日にする労働はしないのです。

ネヘミヤ10:29 その兄弟である尊い人々につき従い、神のしもべ

モーセによって授けられた神のトラーに歩み、われわれの主、主の

すべての戒めと、おきてと、定めとを守り行うために、のろいと誓いとに加わった。

10:30 われわれはこの地の民らにわれわれの娘を与えず、われわれのむすこに彼らの娘をめとらない。

10:31 またこの地の民らがたとい品物または穀物を安息日に携えて来て売ろうとしても、われわれは安息日または聖日にはそれを買わない。また七年ごとに耕作をやめ、すべての負債をゆるす。

 

異邦人には、安息日に商売をしないという理解がないのです。

シャバットや新月、祭り=聖日には売買しない!と言っているのです。それが神の教えだからです。

だから、異邦人は区別なく、普通に7日間、休みなく働くのです。

イスラエルだけが、神が言われた通り、シャバットで国中が止まり、祝うことをしているのです。

パウロが、エルサレムにいる人々を助けるための資金を集めてというのは、シャバット以外に集金するのは神の教えなので、神の教えを

知る人の大前提で話しているという、正しい理解に戻してください。

日曜日は聖別された神の安息日ではなく、普通の日の労働日であり、人が集まり、安息日として取り扱う日ではないという事が、クリスチャンには、見えていないのです。だから、安息日〜献金すると考えているのです。
しかも、これは、ある場所に集まるのではなくて、それぞれの家庭で
それぞれの援助資金を取り分けておいて、パウロが到着したら、
シャバット以外の日にそれらを集めると伝えたのです。