ローマ14章 食規定やシャバットが変更となったと誤解した解釈をしている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の記事は、1コリント8章の箇所から説明しました。

神の言葉は、創世記〜黙示録で、全部同じことが記されています。

永遠普遍と神が説明している神の言葉は完全であり、義であり、人の

性質、神に直結する命の源であり、クリスチャンが主張しているように、神ご自身である神の言葉は歴史の途中で、決して変化、削除、

終了など致しません!

このような、まやかしの仮説から、聖書を読み続け、しかも元の言語で記された聖書の基本的な知識が欠如したまま、翻訳聖書と、人の思想で塗り替えられた歪んだ不真実な聖書解説だけを聞き、異邦人思

現代思想、人間が編み出した宗教の教え、宗教の文化や慣わし、伝統で聖書を曲げて読んでいるから、聖書に書いてある意味を、別物に

読み替えているのです。

 

パウロの書簡で、誤解されている箇所、今は食に関してクリスチャンが解説している内容が、全部聖書とは異なる解説がされている箇所を

見ています。大前提〜聖書に登場する人、使徒、人々誰一人、クリスチャンが考えている、人間の思想、西洋哲学思想〜デイスペンセーション神学が、語るような、神の言葉、人相が時代ごとに変化する、

今はなんでも食べて良いなどと、誰一人として神の言葉を捻じ曲げて、否定する考えは持っていない!という事実からだけ読んでください。

日本人が、ネズミ、猫、犬、地面に落ちている不廃物が、祈れば人間の食べ物と清められるとは考えないのと同じと覚えておいて下さい。

陸海空の清掃動物、掃除機はどこまで行っても掃除機の役割、機能をするだけです。ゴミを溜め。不廃物を全部体内に吸収します。

その不廃物、菌を溜め込んだ動物の肉を、人間が食べるから、人間の体から菌が外に出て、水を、環境を汚染し、人にウイルスを撒き散らし、他者も病気になるのです。掃除機動物を食べて、胃腸感染、

ノロウイルスにかかり、大変苦しみます。その他諸々の病原菌も、

清掃動物から、人の体に取り込んで、病気になるのです。内臓を痛め健康を破壊します。そして、菌の宝庫である豚を食べて、100種類以上の病気を撒き散らす。神は創造主であり、人が神の知恵を侮るから、人は不必要な苦しみを体内に取り込み、環境へ撒き散らして、

他者をも苦しませているのです。体にも悪い、害毒なのです。

神の教え=トラーを正しく理解して世界へ伝える代表として選ばれた

イスラエルは、神の言葉を異邦人のように曲げて伝えてはならないのです。イエシュア信者である異邦人も、同じイスラエルの神の大家族、神の契りに加えられた人は、同じ役割を担っていることを、忘れてはならないのです。

もし、神の宮であるという意味を、本当に理解していたら、異教徒がするような、ライフスタイルから決別しないとならないのです。

神の宮である人は、聖別された生き方をするのです。神が伝える人の

生き方=トラーに記された生き方をする!それが、神を愛する人の

生き方であると、イエシュアも教えているでしょう。

イザヤ52:11 汚れたものに触れてはならない。自分の身をきよく

保て!とあるのは、それです!

「去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

体、霊は、一体だからです。ヘブライ語では、ネフィッシュと言い、生きる命全体を表すものです。西洋思想哲学は、体=悪い、霊=崇高などと考え、一人の人間を別物に分けています。分裂思想なのです。

全部で、丸ごと、シャロームが神の創造なのです。

聖書に、神の言葉に反する、嘘、インチキが書いてあったら、一体

何を信じれば良いのか、その根拠が崩壊します。

神は、神が伝えたこと、言われたことを、途中で変えるような嘘つき不誠実なお方ではないと宣言していることだけに立ってください。

福音書以降には、神の言葉、教えの完全版は書かれていません。

モーセの五書=父の教えの抜粋しか書かれていませんが、書かれていない内容は、イコール終わったと解説する教師がいますが、聖書を

本当の意味で、書いてある事が何か分かっていない、知らない人が、

そのように語るのです。

 

マルコ7章のあるように、ユダヤ人の中にもあったように、異邦人の世界に触れて帰宅した手は、汚れているので、ユダヤ人が独自に編み出した神の教えではない、「手洗いの儀式」という複雑な儀式をしないなら、その手は汚れから浄化されないから、その儀式をしない手で

食べたら、きよい食べ物でも汚れる!と伝統の教えに固執し、信じて

実践していたのです。

1コリント8章では、信仰の浅い、弱い人は、神の言葉に根付いて

確信を持っていない人たちであり、人の伝統の思想により、すぐに

良心の呵責を覚えて、揺らいでしまうことが書かれているのです。

信仰の弱い人は、偶像に捧げられた肉〜きよい動物の肉でも、異邦人が偶像に捧げたかもしれないから、その肉は汚れているから、それは食べないと考えている人たちがいたのです。

そして、そのような人たちは、未だ信仰が幼いので、そんな迷信嘘だと、成長した長老のように、クリアーな意識が持てないから、彼らの

つまづきにならないため、食べても良い肉でも、信仰の弱い人の前では、敢えてそれらを食べないという知恵で弱い人に対して配慮をするそれらの信仰の浅い人に良心の呵責を負わせるのだったら、彼らの

幼い信仰を配慮して、食べても良い肉でも敢えて食べないとパウロが言った意味を、正しく理解しないとならないのです。

きよい動物の肉を食べてはダメ!などと、書いてませんし、食せない、きよくない清掃動物は、ウイルスの宝庫であり、病原菌の温床だから、それらを人間は食するようには、造られていませんと、はっきり神が教えているのです。神の言葉で聖別された=人の食せる目的で造られた動物=食べ物だけが、人間の食べ物です。

マルコ7、1コリント8、そして、ローマ14章も全部同じ本質の

内容で繋がっています。

これらを理解した上でパウロは何を話しているのか、正しく読み取るのです。

ここでパウロが述べているのは、神が伝える食規定が変わったとか、

神の創造した安息日や、記念日、祭りが変わったなどと、一言も

話していません。勘違いした読み込みは、一切断たれれないと、

パウロが伝える真意は、伝わりません。

そして、覚えておかなくてはならないのは、パウロは使徒21章で

パウロは1000%トラー=モーセの五書=婚姻契約の愛の生き方に忠実に教え、そして生きている!という表明を、公に大々的に神殿での「ナジル人の請願」を通して、証明しているのです。

クリスチャンの世界で語られる、誤解されたパウロ像、パウロが神の教えを変更して、変えたなどというそれこそ偽情報は、追放されないとならないのです。

パウロに対して、多大に失礼なことを、言い続けているのです。

パウロの書簡で書かれている内容は、それぞれの地域に存在していた

群れの中の人々が、パウロに、このような問題はどうしたらよいか?

こんなことが群れの中で起きているけれど、どう対処すればよいか?

と、エルサレム拠点のパウロに手紙で質問を送り、パウロがそれに

回答している内容が、パウロが記した、書簡の内容なのです。

詰まり、パウロに対して、モーセの五書=神の教えから、実際にどう

神の言葉通りに適用して、対処し、解決し、生きたら良いのかという

質問に対する、パウロの知恵の回答なのです。

だから、パウロがモーセの五書を否定して、別物の教えを伝えているという、空想、想像、嘘、まやかし、偽情報を全部削除して、

まっさらな良い地=頭脳=神の言葉を正しく根付かせる思考回路で

聖書を読み直してください。

パウロは、彼らの問題に対しての、自分の意見を述べていることは

明らかです。神の言葉を仕分け、判定、神の言葉を否定などパウロはしません!

クリスチャンの解釈は、パウロが自分の意見で、なんでも食べて良いといい、自分の意見で神のシャバットや記念日、祭り=神の創造されたモアデイムを、人間が都合の良いように変えて良いと言い続けて

いますが、聖書を全く正しく理解しない、神の言葉を否定して作った宗教の教えに洗脳されていることに、気がついてください。

神が神の言葉を終了したならば、それは聖書に記されたイスラエルの神ではない!という永遠の真実=偽のイスラエルの神像を語るの教えの方を、破棄、捨ててください。

 

ローマ14章では、パウロは神の言葉を自在に作り替えているのではなく、神の言葉に根付いて、ローマ人の群れにあった問題対処を

トラーの真理からどのように適用するのか、パウロは教えています。

ローマ 14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。

ただ、意見を批評するためであってはならない。

 

ここに書かれている人も、弱い人=信仰の浅い人、神の教えをよく

知らない人に関して書かれています。1コリント8と同じです。

そして、ここにはっきりと、『意見』と書いてあります。

神の教えではなく、それ以外の、彼らの中にある、ある事柄に関する、彼らの考え、人の意見を批評してはならないと、パウロははっきり書いているのです。

この箇所を読む時、当時の世界で何が起きていたのか、知る必要があります。彼らの中には、断食=聖書に、神が断食を命じている箇所はありません。ある人たちは、ある目的で、断食したりする、週のどの日と、どの日に断食するなどという、それこそ伝統のしきたりがあったのです。確かに、断食すると、内臓が安まったり、意識を集中させる事ができます。1日食べなくても、作業や仕事に没頭できるし、

食べると眠たくなったりしますから、ある効果はありますが、それは

神が人に伝えている掟ではない事を、覚えておいてください。

この時代のこのグループでは、断食、又は同じく、異教の神々に捧げ捧げられたかもしれない、きよい動物の肉でも、異教の神に備えらたものなど、気持ち悪くて食べてくないと、信仰の浅い人は考えていたのです。だから、野菜だけ食べていたら、安全と考えているのです。これは1コリント8章にあった、信仰の浅い、弱い人、

良心の呵責に簡単に苛まれてしまう信仰の幼子の事が、書かれているのです。

 

 14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、

弱い人は野菜だけを食べる。

 

2節で、なんでも食べる=イコールきよくないアカサトス、タメー

人間が食せない清くない動物でもなんでも食べられるなどという

勝手な早合点の読み込みは削除してください。

なんでも〜神の言葉で指定された聖別されている、人間の食べ物の中の全て!という正しい理解に戻ってください。神の言葉で聖別されたと言われている食べ物です。そして、祈って感謝すれば、神が人に

食するものとして与えいるもの中で、きよくないものなどない!

それを、正しく理解して読んで下さい。

 

14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

 

クリスチャンは、3節を、きよくない動物を食べる人を批判してはらない、(神の教えを違反する事をする人に対して批判するな)

食べない者、清くない動物を食べないと、古い教え(律法と言い)に固執する人を、批判するなかれなどと、とんでもなくズレた、

トンチンカンな解説をしているのです。

2−3節では、信仰が浅い、弱い人は、異邦人により偶像に捧げられたきよい動物の肉を食べるのを避けるのは、神のためと信じているから、そうしているのです。そのような人その意識で神の前に最善と

思って行動しているのだから、さばくな!と言っているのです。

やがて神の言葉に根付き成長すれば、そんな迷信に惑わされる事から解放されるからです。でも、成長過程で、理解できないでいる人を、先回りしてさばいてはならないと言っているのです。

今の世界でもそうですが、多くの人が、健康志向、意識があります。ある人はベジタリアンであり、ある人はその中でもビーガンと言われるような人もいて、それはその人たちが、信じて行う食生活です。

でも、彼らの食生活のスタイルに関して、他者がとやかく言う必要などないのと同じです。

でも、1つ違うのは、もし、この1世紀の世界の中で、けがれた動物を食している仲間がいたら、使徒15章に記されたパリサイ派のイエシュア信者の長老達のように、けがれた動物、その血を、しかも異教の神々の神殿に於いて、儀式的に食するのは絶対ダメ!神の教えに

反した、汚れた行動だ!とはっきり伝え、諭しているのです。

この違いは、理解しないとならないのです。

汚れた動物を食べて、それを指摘したら、批判にはならないのです。

今の世界、得に異邦人の世界では、クリスチャンの集まり、交わりで、テーブルに必ず、きよくない動物が出てきます。このような事は、聖書に記されている人の交わりの中では、決して起きなかった事です!ポーク、ロブスター。日本人なら、お寿司が出てきたら、

食べ物ではない、ネタがあります。イカ、ウニ、タコ、穴子、ホタテ、貝など。神の教えを知る人は、それらは食べない、でも、それらを食べる人と一緒に食卓を囲む事はできます。

でも、神の言葉を理解していない人の群れで、一人だけ神の伝える

真実を主張したら、皆にドン引きされ、その場のよい雰囲気を壊します。

神の本当の教えは、聖書に何と書いてあるのかと、聞こうとする群れがあって、私を教えてくれている先生方を招いて学び、食事もする時に、はっきりと、何何は食べられませんか?と彼らが聞いてきました。食べられない動物の意味、聖書に記されたその理由を、ちゃんと聖書=神の教えから、教師は伝えて理解してもらっていました。

 

14:4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。

 

ここに書いてあるのは、清くない動物を食せるなどと、そんな事

一言もパウロは言っていません。ある人は、偶像に捧げたきよい動物の肉を食べさせられるかもしれないと懸念して、野菜しか食べなくて、きよい動物の肉でも、食べるのを避けていた。それらの菜食主義の人、信仰の弱い人、神の言葉をよく理解していない人に、とやかく批判を言わない。それぞれの旅路で学ぶ事を、神が許して導いているから、それに任せれば良いのです。

以前の私のように、神の言葉を本当に知りたい!と願っている人なら

その人から当然聞いてきます。私もイスラエルに行って、3度目くらいの時に、初めて「食べ物」に関して、神がどうして食べ物を通して教えているのか初て意識するようになり、そして聖書に書いてある神の言葉の意味を理解し、発見しました。

イスラエルは普通のスーパーではコシェルではない、きよくない動物の肉は売っていません。移民のロシア人の店などでは、ポークや

えび、貝などは売っています。イスラエルで滞在していた友人宅で、食べ物に関して質問したところ、聖書に書いてある食べられるものは、たくさんあるからと言って、それからはっきり、神の教えは人を守るためのもの、知恵であり、創造主が直接人の食べ物、そうではないものを最初から教えている、それを聞くのが一番安全である事を知る事ができました。そこから、スタートして、聖別の意味、そして、きよくない動物の性質を調べて、そんな動物は人間の食べ物ではない、本当に汚いものだと、はっきり分かったので、こちらからそれらに「さよなら」という意識を持つ事ができました。

この箇所で書かれているのは、それぞれの確信の場所で、食べ物を選んでいる、それは全部神が許可したものの中での食べ物の全てです。

それを、野菜しか食べないと決めている人に、その人の意見、食生活スタイルを批判するなかれと言っているだけで、なんでも食べて良いなど、一言もパウロは話していません。文脈、内容を正しく読み取っていないのです。

ある人は健康のため、ある食べものを食べない、1コリント8や

ローマ14:2は、偶像に捧げた肉を避けたいと考える人。

ある人は、1日2食しか食べないとか、夕方6時迄に、夕食を済ませるとか、それぞれが、それぞれの健康を考えているので、そういう事で、とやかく他者が、批判する必要はないという事。

でも、きよくない動物を食べても良い!など、聖書のどの著者も言っていない、神の言葉の真理、大前提を崩壊させてはなりません!

そういう基本的な聖書解釈に対する違反をし続けるから、聖書とは

異なる、記述、文脈を逸脱した聖書解説をし続けても、それに気がつかないままになっているのです。神は神の言葉を変えないという真実の大前提からだけ、考えない限り、勝手な思想を編み出し続けて行くのです。

私の友人も、10年間インシュリンを使うほどの、糖尿病でした。

でも、ある医者に、食生活で改善できるから、人の体は元に戻ろうとする能力があるから、インシュリンやめなさいと言われて、決意し、魚、野菜などのダイエットに切り替え、健康を取り戻しました。

自分の健康状態を考え、ある食べ物は食べないというのは、賢い知恵です。炭水化物〜糖に変化する食べ物は、糖尿病の人はなるべく避けて、血糖値を下げるシナモン、緑茶など取り入れるなど

そして、散歩をよくするようになったら、血糖値が嘘のように下がり、安定し、今は時々大好きなアイスクリームやチョコレートも食べれるようになり、インシュリンの害から、解放されています。

 

続く