神の言葉は人間が作った宗教の教えとは異なる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉が変化して、神が伝えた絶対基準、罪の定義を神が昇天以降取り下げたという異邦人創作の空想話。

その代表の教えは昇天以降の恵の時代は、怒りの神が恵の神に変身し、罪の基準を取り除き、ゆるくしてなんでも許してくれるようになったと言います。感謝して祈れば、清くない動物も清められ、今はなんでもかんでも好きなように食べて良いとイエシュアが教えたなどと言う、とんでもなく非聖書的、聖別を汚す行為、神に対する冒涜、罪を犯しているのに、気がつけない教えをされて来てしまいました。

 

それらの誤解の大元は何度も言うように、1世紀後半に出現した西洋教父達の教え、神の教えを知らない異邦人、使徒15章の異邦人イエシュア信者と同じく、神の言葉を理解しない人達によるものであり、同時にローマ帝国の同調圧力〜神の教え=トラー=モーセの五書に

記された、ユダヤ色が強い教えの全てを生きることを禁じる!神の

創造された神の子らを全員呼び出して祝う記念日、シャバット、

新月、過越や仮庵の祭りを祝うことを禁じる!そのローマ帝国の勅令に、西洋教父達もこぞって賛同、同調、同化したことが、本当の原因である事を、ぜひ知ってください。

 

神が神の言葉を変えたなどと言う、聖書に1つも記されてなどいない嘘、まやかし、偽情報に騙されてはなりません!神の言葉は完全で

あり、神が創造された創造物は変化進化しません。そして天地が今日今、現存している〜だから神の言葉も永遠に廃らない!とイエシュアも教えているのに、どうして神が伝える通りを、正しく理解しないのでしょうか?

マルコ7章は、イエシュアがきよくない動物は、全部今はきよくなったなどと言い、人にけがれた動物を食してズレ=罪を犯すよう、

神自ら率先して、神ご自身の言葉に自分で敵対し、神の言葉は永遠に変化しないと言いながら、真逆の嘘をつき、いい加減なことを言う、そんなことを神がするなんてあり得ませんし、そんなこと言ってなどいません。聖書のどこにも、そんなことは書かれていません!

 

マルコ7章の議論、論点は、「人間の編み出した伝統の教え〜先祖の言い伝え、律法の戒め、負えないくびき」などと呼ばれる、神の言葉教えではない、人間解釈の人間が作った様々なルール、規定のことなのです。

その論点も、異邦人〜汚れている、その汚れた異邦人の市場、偶像に捧げたかもしれない、きよい動物の肉も、汚れた異邦人が触れたら

汚れると1世紀当時のユダヤ人は信じていたのです。そして、異邦人が住む外の世界に接触して、帰って来たら、あなたの手も異邦人の

汚れが染み付いて汚れているから、彼らが編み出した独自のやり方の「手洗いの儀式」という特別な儀式〜人間が編み出した儀式をしない限り、あなたの手は不浄、汚れている、えんがちょの手だから、

儀式をしないで食べ物に触れたら、その食べ物は全部汚れる〜!と

信じていたのです。

分かりますか?アホくさと思うけれど、伝統の教えが脳に浸透したら、それをしないと、本当汚される〜と信じてやっていたのです。

だから、イエシュアは食べ物〜もちろんきよい動物、人間の編み出した儀式をしなくても、その手でパンに触れて食べても汚れないと言ったのです。

人を本当に汚すものは、人の内側に潜む、ハメッツ=パン種=罪が

周りの人を汚すと教えているのです。もちろん、きよくない動物は最初から人間の食べ物なんて誰一人考えていない前提で、話している事を忘れないでください。日本人が地べたに落ちているゴミ、腐肉

又は犬、猫、ネズミ、ミミズが人間の食べ物と考えていないのと

同じことなのです。神の教えを知る人は、神が禁じたきよくない食せない食べ物を、食べれるなど誰一人として考えていない前提から

考えてください。

そういう人間が編み出した伝統に固執して、神の教えを捨てている!

それを、異邦人はやっていることに、気がついていないのです。

人が作った西洋宗教の教えに固執して、神の言葉自体を捨てている!

それに気が付かないとならないのです。

人が作った宗教の教え、聖書に記されていない神の教えでなければ、当然の如く、それらは只の人間の教えであり、神の言葉、教えでは

ありません!という、単純、シンプル、基本中の基本を知っていれば

守られます。罪から、聖別を破る行為をすることから守られます。

 

使徒10章の空から降りて来たあらゆる動物の幻を、3度もペテロは

神から見せられた意味は、強調です。3は強調です。ペテロが乗り越えて、正されないとならない偏見をはっきり断ち切ったのです。

そして、現代の日本人の考えで読んでも見えないことがあります。

これは、俗語、スラングを理解していれば、よく分かります。

ユダヤ人の世界では、異邦人を、犬、汚れた動物、豚などと呼んでいたのです。タルムード=口伝律法にも記されています。それらは神の

トラー=モーセの五書の教えではない、彼らが考えている、モーセが

文字で書き記した以外に、神が口頭で他の教えを付け足していたという、ユダヤ人の伝統の言い伝えのことです。もちろん、そんな教えは聖書ではないのです。神の言葉の知恵に匹敵する解説もありますが、そうではないものがたくさんあります。そして、人により、解説、

言うことが違うのですから、そんなのは聖書ではありません。

ペテロの生きていた時代は、ユダヤ人は、異邦人を、「犬、汚れた

動物、豚」と考えて、そう呼んでいた。隔ての壁を作り交際もしないし、交わらない、関わらない、そんな世界に生きていたのです。

日本でもアメリカでも、ある国の人々を軽蔑する言葉で表すでしょう。それと同じです。日本はアメリカに、戦後ジャップと呼ばれ、

蔑まれたのです。日本人も、ある人種を、軽蔑する言葉で呼んでいました。ここには失礼なので、書きたくないので書きませんが、調べれば分かります。隣国の人々に対する悪い呼び名です。

アメリカで、ニグロという言葉を使うのは、御法度です。それと

同じことです。異邦人を、汚れた動物、犬、豚とユダヤ人は呼んで

いたのです。ペテロがこの幻を、見たのはイエシュアが昇天された

10年も後の時です。もし、マルコ7章でイエシュアの言葉をペテロが聞いていたら、クリスチャンが誤解するように、汚れた動物でも今はなんでも食べて良いなんて理解していたら、ペテロは、汚れたタメー、アカサトスの動物は、食べたことなどありません!と言うわけないでしょう。神の言葉が変わるならば、清くない動物でも、なんでも食べれば良いからです。

この幻は、異邦人も、汚れた動物ではありません!人間を汚れた動物の如くに考えるなかれ。汚れた動物の如く、異邦人を色眼鏡で見て、取り扱うなかれ!偏見を捨てよ!神が異邦人も、同じように永遠の中から選び出し、神の民に加えており、聖別しているのだから、異邦人が汚れていると言うなかれ、そのような行動をするなかれ!と、異邦人コルネリアスの家に、これからペテロが派遣される前に、神がズレたペテロの意識を正している幻なのです。

神が教え、諭した通り、その後、ペテロは、異邦人も神に聖別されて

汚れた人達ではないことを教えられたと、人に話しているでしょう。書いてある文脈に沿って読めば分かるのです。そして、汚れた動物は今はなんでも、かんでも無差別に食べられるなどと、ペテロは一言も誰にも語っていません。

もし、そんなことを神が言うとするならば、大変なことになるのです。ユダヤ人の間では、大騒ぎになります!大問題になります!

本当に、誤解した聖書解釈をしらみつぶしの如く、害虫駆除しなくてはなりません。神の教えを、人間が蝕んでいるからです。

 

次にローマ14章も、クリスチャンが、食規定が代わり、安息日は

今はいつでも良いことになったなどと、パウロが考えてもない、言ってもない、書いてないことを、勝手に空想して語っている代表例の

箇所です。

この箇所の前に、1コリント8:4,7-8、9−13を理解すれば、全部

意味が繋がっているので、はっきり見えて来ます。背景、何を問題にしているのか、これらは全部マルコ7章、使徒10章と繋がっている同じ問題点なのです。伝統の教え。人の編み出した戒律、戒めの律法。

1コリント8:4 さて、偶像への供え物を食べることについては、

わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、
唯一の神のほかには神がないことを、知っている

1コリント 8:7 しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。

8:9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

 8:10 なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

 8:11 するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。

8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。

8:13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。

この箇所は、何が書かれていますか?ここに記されている問題は、

コリントは、異教の神々、偶像に溢れた場所でした。

創造主以外、神はいないけれど、人の手で作った偶像の神々を信奉していた人達の中に住んでいたのです。

弱い人とは、神の教えに基づき、はっきり神が伝える真意、事実を把握し、確信を持てていない、信仰の浅い人達のことです。

その人達は、神の言葉に根付いた意識がないまま、ちょっとしたことで、自分の良心が、痛み揺れ動いて、不安になるのです。

詰まり、偶像に捧げた肉〜神が人に食せるものとして与えている

きよい動物でも、偶像に捧げたからそれは汚れていると、本当に思い

良心の呵責を覚えてしまう人達の意識のことを話しているのです。

 

ある人は、例えば仏教やその他別の宗教を信じている人が商売しているお店で買ったものは、汚れていると考える人もいるのです。

だから、それらの店では買わないと考えているのです。

そんなこと言えば、イスラエル以外の国、世界の中で異教徒の世界に住む、異邦人達は、異教徒が製造販売した食品や製品を使っているでしょう。ある人はこだわり始めたら、そんな思想に縛られて行くのです。汚れた人の触れたものは、汚れていると考えたマルコ7章の人の言い伝えも、結局同じ問題の根なのです。

ここでパウロが言っているのは、きよい動物の肉でも、それが偶像に捧げられたと弱い人が思うなら、それがその信仰の浅い弱い人には

つまづきになってしまうから、配慮してという知恵なのです。

10節も、信仰の弱い人が、神の言葉を理解している人が、揺るがないで、きよい動物、異邦人の市場で売られている肉が、異邦人により

偶像に捧げらたものだとしても、それは汚れていないと影響受けないのですが、弱い人は、それを見て同じことをした後に、良心の呵責に苛まれてしまうかもしれないから、信仰の弱い人の良心を苦しめてしまうと言っているのです。

だから、ここでの問題は、きよい動物の肉、きよくない動物の肉

どの種類を食べても良い、食べては悪いなどという話ではないのです。当然、きよくない動物は食せません。パウロはきよくない動物も

食して良いなどと、教えていません。

詰まり、そのような弱い人の前では、たとえ食べてもよいきよい動物の肉でも、その人達の信仰の浅いレベルを配慮して、敢えてそれらは食べない方がその人達のためですよという、知恵なのです。

 

これも同じです。あるクリスチャンはアルコールは悪、罪と本気で

信じています。醤油にもアルコールが入ってると大騒ぎしていた人がいました。聖書には、ワインやビールは喜びの印と聖書には書いてあり、過剰摂取し、アル中になるほど飲まないならば、祝福として与えられているのです。

でも、アル中の人を前に、又はアルコールは悪、罪と聖書とは違うことを信じている人たちの前では、つまずきになる、不快にさせるかもしれないし、お酒を飲む人は、罪を犯しているという視線を浴びせられますから、その人達の前では、そういういざこざが起きる状況を避ける、それらを出すのをやめましょうという知恵と同じです。

食べ物や飲み物だけではなく、誰かと大事な事を共有する、伝える

場合には、同じ場所にいて、安全に分かち合える状況でなければ、

ならないのです。

相手が理解できな事を伝えてしまえば、その会話が無駄になるし

亀裂、分裂が起きるから、簡単には、大事なことなど話せません。

聞かれたら答える、そういうことなのです。

このブログに書いているような事を、一般のクリスチャンに話したら

真実を受け取る準備、態度がない場合、聖書とは真逆な教えを信じている事を指摘などしたなら、強烈なカウンターパンチを喰らいます。

 

愛が何より大事なの!という言葉を言われましたが、聖書にある愛の

定義は、トラー=モーセの五書に記された生き方をガードする事で

あるというのを、理解していないまま、愛、愛と自分の考える自己流の愛を考えているのです。

神が伝える愛〜アハヴァとは、神が提示する人間の本来の生き方をして、互いのネフィッシュ=全存在を神の意図通りにガードし合って生きる事なのです。だから、汚れた動物を食して、環境汚染し、人に

ウイルスを撒いて相手を苦しめる行為は、他者を破壊する、又は命を脅かし、健康を破壊する生き方であり、聖別を汚す生き方なのです。

神が言われた事に反する、それは神が創造された人間の性質に反する生き方であると、単純な事実が見えないのは、人の編み出した思想の

宗教の教えをだけを聞き続けて、神が伝える本来の真実な生き方、教えを知らないまま捨てているからなのです。

それって損失であり、神と人との隔たりを作る生き方、教えであり、

確実に人の肉体も霊的な聖別も破壊する生き方なのです。

だから、このように隔ての壁が無数にできて、キリスト教では何十万という宗派に分裂してしまったのです。

神の教えは1つであり、人種、時代により変化するものではないのです。そして、宗教とは、神の言葉、教えの中に人の思想を盛り込んで

別物、混ぜ物に変身させた、ミックス、混合、混ぜ物の教えなのです。

それを、神は姦淫の罪と警告しているのです。

 

続く