新しい季節の命のサイクル イスラエルの神の真実を世界へ伝えよう | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

仮庵の祭りも終わり、一年の新しいサイクルが始まりました。

一年は春から始まります。グレゴリオ暦では、1月が新年の始まりですが、聖書には、春の始まりと、秋の始まりが書いてあります。

聖書では、第一の月は春4月〜5月頃です。そして、一年の祭りが終わる秋の仮庵の時期は、第七の月、9月〜10月になる時期です。

この数字を見ても、1日から始まり、7日で止まるという、神の

「時」のデザインは、至る所に一貫して同じように教えられています。

第1日目で全ての創造が始まり、そして第7日目で神が止まられたとある通りに、人も第1〜第6日まで、活動、仕事、作業、

創作し、7日目に止まり、休み、なごみ、元の状態に戻るり、神と人と共に祝う。人の生き方は、シャバットを中心に、シャバットの安息から生きるということを、ずっと最初から教えています。

1日は千年のごとく、千年は1日の如くとは、神の地上での命のサイクルを表しているものでもあります。

過越も、仮庵の祭りも、7日間。そして、仮庵の祭りは、7日目の次の日、第8日目という単独の記念日で一年の祭りが終了し、

又新しい季節の命のサイクルを、巡り生きるのが、神の創造された時のデザインであり、記念日で表されるものです。

そして、未来、イエシュアが再来された暁には、イエシュアが

実際にエルサレムから、世界を治められることが預言されています。1000年統治〜そして永遠にイエシュアが統治される時が

到来する。

第8目は、永遠にイエシュアが統治される新しい時代へ移行する事を表しています。7日で完結、完了〜完全な状態が8日目以降続く、イエシュアの統治の新しい時代を表す、仮庵の最後の日の

記念日です。

このブログには、個人の学び、歩みの中で教えられたこと、得た事を、徒然に書いております。私個人が教えられてきたことは、オリジナルの神の言葉、教え〜純粋に聖書に書かれた事実ではないものであった、ということにはっきりと気がついたので、

こうして記事を書いています。聖書とは違う教えを聞いて来たことには、最初4年かかってはっきり気がつきました。その後は、

聖書に書いてあること=ヘブライ聖書には何が書いてあるのかの

学習、実践の旅を続けています。それが地上の人生の歩み、イエシュアを知り、約束の地に向かう訓練の日々、荒野=ミッドヴァ=神の声を聞く場所を歩んだ40年で表されている通り、偽物の声を捨てて、本物の神の声を聞く、本物の自分を再学習して生きる旅路です。

救い主信じて、許されて、永遠の命与えられてるだけで良いじゃない?と思い込む。でも、聖書が教えているのは、新しくされた人の生き方、約束の地、やがてイエシュアに直接顔と顔を合わせて生きる日に向けての準備期間。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなた方を自由にする!とある通り、逆を言うと、

真理ではないことを食べ続けたら、束縛され、本来の自由〜神の中で本物の自分が分からない、生きれなくなる!という、結局

エジプトの奴隷=人の教えに縛られる奴隷になり、本物のエデン=喜び=神の中に生きる実態を体験できないままになるのです。

 

先祖代々、外国人〜異国人〜異教徒の世界に生まれ育ち、欧米での生活、西洋宗教の教えの経験体験の中で、教えられてきた、

聖書解説、ジーザス像、宗教の教えや、宗教の実践が、

オリジナルの聖書とは違いました。

預言者や、使徒、イエシュア、古代の人、そして1世紀の人たちが教えられた神の言葉=トラーと、聖なる民とされた人たちの

生活の全て、そして信仰実践が、私に場合、それが西洋ローマ化したものを教えられて、オリジナルの神の言葉の生き方とは

かけ離れたものである事を、オリジナル聖書の中身に書かれた事実を通して発見し続けています。

 

貴重な時間を割いて、このブログ記事を訪問し、読んで下さる

方々には、ぜひ個人個人で聖書に照らし合わせ、歴史の事実に

照らし合わせて、私がお伝えし書いている内容が本当かどうか

確認、調べて頂きたいと思うのです。全て確認、検証する!という事は、大事な事です。鵜呑みにして、そうか〜と聞くのは、

危険なのです。その場合、既存の教え、誰々が、何何先生が、

何何派がこう言っている、19世紀に渡り教えられている、又はどこどこのグループがこう証明している、長年これを皆がやっているから、真実であるという、人間の基準が主体の不確かな事を根拠にするのではなく、聖書に何が書かれていて、聖書が伝えている意味通りを本当に正しく捉えて考えるという事に、戻らないとならないのです。

クリスチャンの世界で語られている聖書解釈自体が、聖書とは

ズレている多くの解説があるのは、その大元の土台がズレているからです。大元がズレているというのは、人の思想を土台にして

聖書の全てを考えていることです。その元凶は、神の言葉は変化したという、人が編み出した思想を、神の言葉であると騙されていることです。これを、「エデンの園の蛇の騙し口、トリック」と呼んだら良いと思います。そうかも〜と思わせられている。

「神は本当はそんなこと言ってなどいないかも」と騙されている。騙しは、半分本当、でも半分嘘。

つまり、混ぜ物の教えです。神の言葉を歪める、変える、曲げる

ある部分は真実、ある部分は曲がっているからそれは嘘。

姦淫の罪であり、イスラエルの神の性質に属さない異物です。

これを、ずっとやり続けているのです。

 

そして、もう一つは、古代に書かれた、古代の人たちが理解して

聞いた内容。それは、古代の文化やその当時の文化、農業や地形や、その他諸々、得に福音書以降は、1世紀当時のユダヤ人達の

世界、人間の教え=「律法の戒め」と呼ばれる、彼らの考えた

神の教えの解釈が、実は神の言葉=トラーとはズレている教えの数々があったのです。それらを理解しないまま、現代の思想、

言葉教えで、考えても聖書の記述を誤解してしまうのです。

だから、太古の言い伝え、先祖の伝統、戒めの律法とクリスチャンが聞いたら、即座にそれらは、モーセの五書=古い、廃れたと

頭の中を巡るでしょう!?神の教え、トラーを指して、それらが

悪いもの、廃れるべきものであるなど、誰一人として聖書著者は

考えてもいないし、そんな神に対する大罪書いてもいません。

又ヨハネの黙示録など福音書以降唯一のアポクリファ=預言的書ですが、そこに書かれている独自の用語は、隠語なのです。

詰まりローマ帝国〜トラー=神の言葉=ヘブライのモーセの五書を理解しない人達、知らない人達、生きない人達には、全く意味

不明の言葉=隠語で分からないように書かれているからです。

どうしてですか?ローマ帝国は、モーセの五書を生きている人

ユダヤ人も異邦人も両方、処刑=死刑=投獄餓死処刑、又は

5000ドル相当の金で税金を払うという、刑罰を与えて、人々がモーセの五書を生きることを禁じたからです。だから、今と

同じ、動画クリエーターが、隠語で、禁止=バンされる内容を、色々うまい具合に伝達し、話しているでしょう?

センサーに引っかからないように、それと同じことを、ヨハネが

黙示録の中でしていることを知って読まないとならないのです。それには、その言葉の意味を知らないなら、空想の世界の解説になるのです。だから、異邦人は「はじめの愛」とかかれていても、それが婚姻契約=トラー=モーセの五書に記された神の言葉教えであるなどと、理解できないのです。

 

そして、1世紀当時のパリサイ派の流儀で教えられたトラー、

それが、イエシュアがされていた、「たとえ話」誰もが知る話

当時たくさんあった、「たとえ話」を通して、トラーに記された教えの真髄を、物語を通して伝えて、最後は、神の意図通り=神の教え=トラーを生きることを選択するという、そのようなオチになっているのです。だから、「耳があるものは聞きなさい」と

言われたのです。

 

聞く〜神の教え=トラーに記された人の生き方を選択せよ!ということなのです。イエシュアが今、トラー=モーセを信じないなら、その人には何を言っても通じないから無駄!と匙投げたコメントで締めくくっているでしょう。

クリスチャンは、神が神の言葉を破棄したという空想を信じているので、イエシュアが言っている意味が見えていないのです。

無法もの〜トラーを捨てて生きる人は、わたし=イエシュアとは関係ない!婚姻契約=モーセの五書を生きない人は、私と特別な関係になどない!と言っているのです。

だから、1世紀当時の人たちが理解していた「たとえ話」や

当時の人たちが使っていた言葉を理解しないまま、今の時代の

自分の文化の、しかも西洋宗教という文化の教えや実践を

通して考えていたら、全然真実とはかけ離れた空想の人間の考えで聖書解説をしてしまっているのです。

「教会」という言葉は聖書にはない言葉〜昇天以降、別物の群れ置換神学のように、異邦人は新しい時代、新しい契約を与えられた群れだと勘違いしている造語ですので、敢えて元の言葉の意味、群れ、大衆、集会、グループと書いています。

イエシュアは、「ペテロ〜小さい石」を土台として、新しい教会という、別物の群れを建てるなどと言ってなどいません。

イエシュアは、カエザリアピリポという、異教の神々の神殿の前に弟子達と旅すがら立った時、その異教の神殿は、自分の子供をいけにえとして捧げる場所であり、そんなおぞましいことが行われる岩の神殿の前に立ってペテロの質問したのです。

わたしは誰と言うか??と。そしてペテロの回答は、「あなたはメシアです」と言ったのです。そのペテロの宣言の上〜ペトラ=大きな岩=救いの岩であるイエシュアご自身、ペテロの宣言した事実の岩に、カハール=エクレシア=神の声に

呼び出された人々の群れを、建てあげ続ける!と言われたのです。

だから、ペテロが神の大家族の新しい土台でもない、人間は神の大家族の土台などにはなれない。神には成り代われない。

ペテロが宣言した救いの岩=イエシュアの上に、エデンの園を

出たアダムとハヴァから、全ての人が集められる、この事実は

永遠に変わらないのです。救いの方法も1つ、永遠から同じ!

誰一人、イエシュアを通して以外、父の元に来ることはない。

そして、救いは2000年前まで、イエシュアが地上にこられるまで、ペンディング〜お預け状態であったのでは、ありません。どの時代も、どの人種でも誰でも、同じように贖われ、救われ、神=父の元に引きよせられたことが、聖書=モーセの五書、預言書、諸書には書かれているのです。その中身を学ばない、知らない、教えられないから、書いてある真実に触れることができないだけなのです。

 

仕方なのないことなのですが、異邦人の中での神の言葉を教えられる教育は、はっきり言って、ゆたか、正確、深いものではありませんでした。その理由は、2世紀以降、神が神の言葉を託した

人達、ユダヤ人と完全決裂し、別の宗教、西洋人が作った宗教の教えに乗り換えたからです。なるほど私の周りでは、どの国に

住んでいても、異邦人の群れには、教師と言われる人達でさえ、ヘブライ聖書を熟知し、1世紀の人々、イエシュアが教えた

教えや、神の創造された記念日を祝う神の国の教え、伝統、文化を生きる人たちに一度も出会ったことはありませんでした。

 

ヘブライ語で、満遍なく、ただただ書いてあることを、満遍なく学び続ける、書いてある言葉の意味通りに、聖書の土台、柱となる言葉の意味を教えられ、紐解き、解説して、実際に神の言葉を生きている教師などに、出会ったこともない。

私が体験していたのは、ある聖書箇所を1、2節取り出して、

それを人の思想で聖書を解説する、聖書に自分の思想を語らせるような、主題説教と呼ばれるものだけでした。

私が本当に知りたかったのは、聖書に何が書いてあるのか?もしも誰かが、元の言葉で書いてある意味通りに解説してくれたら、私が知らない世界がそこに深く広がっている!という確信を持っていました。当たり前ですが、翻訳では見えない世界があるからです。それは、別に聖書だけでなくても、人の書いた作品であっても、その言語を知らない、その著者の背景も知らない、その国の文化も習慣も生き方も知らないまま、翻訳書を読んでも、見えないことがたくさんあるのと同じだからです。

 

 

続く