聖書の事実に基づかない人間の思想の推論 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神と神の言葉が、変化しない!という事は、

神の言葉が証明している永遠普遍の事実です。

 

1世紀後半以降、異邦人が「はじめの愛」=婚姻契約=神の教え=トラー=神が伝えた神の創造された人の生き方=モーセの五書に人の生きる全貌が記された、その完全で欠けのない永遠に変化しない神の言葉に対して、異邦人クリスチャンの世界で語られていることは、以下のようです。

 

1)神は契約、(律法という不適切な言葉で神の言葉を呼んでいる)イスラエルだけに限定して与えられたものである。

2)イスラエルとは、身体的、生物学的、遺伝子的なヤコブの

子孫だけである。

3 )それゆえ、神はトラー(神の教え、契約、モーセの五書)を身体的ヤコブの子孫=イスラエルだけに与えられたのだ。

 

でもこれらの推論は、聖書に基づく真理なのでしょうか?

神が伝える言葉に基づいて、1つ1つ再検証する必要があります。

イスラエルの神は、イスラエルだけに、神の教え=婚姻契約を与えたのではありません。イスラエルの神は、イスラエルだけに、教え、守り、約束、祝福、赦し、贖い、救いを与えたのですか?

異邦人は危険も毒も取り入れても、関係ないなどと、イスラエルの神はそんな酷いことを人に教えたのでしょうか?イスラエル=アヴラハムを全世界の祝福の源として任命したのは、イスラエルだけが、祝福される為ではありませんでした。神は、神のトラー=教え、インストラクション、指導を、「イスラエル」を通して、全世界の全民族に、同様に与える方法を取ったのです。

この事実を、はっきり神が人に伝えている言葉から理解する人には、神が語られている永遠の真実が見えます。

イスラエルの生き方を通して、見えないイスラエルの神が、異国人にはっきりと示され、理解される為、天の神の国を代表する、地上で神の性質=イエシュアの性質をそっくりそのまま反映する生き方をイスラエルにさせる為に、イスラエルという国〜世界の中で唯一神が場所を選び聖別した国、そして、イスラエルという

世界で唯一の民族を、全世界の中から聖別し選び出したのです。聖別〜神の目的通りに分つことです。異教の神々に仕えて生きる、異教神の教えに生きる人とは、区別された生き方〜神の

性質通りを生きる人達は、聖別された生き方をするのです。

世界でダントツに際立って違う生き方。神の性質通りを生きる

役割、責任がある。それを地の塩、世の光〜世界で、イスラエルの神の元に戻る道を照らす、灯台の役割〜チェラビムと同じ

シグナルを発信する人達の役割だからです。

そして、誰でも〜異邦人でも、同じイエシュア=ユダヤ人の

メシアの贖いを通して、イスラエルの神=父の元に取り戻された人は同じように聖なる民であり、イスラエルと同じ役割〜地の塩、世の光、神の伝える生き方に戻ることを、人に生きて教える役割、責任を負わされているのです。イスラエルの大家族の弟、妹、次男次女として、長男と同じように大家族の中で生きる事を、神が教えているのです。

イスラエルという国の場所、地形を考えても、見えるでしょう。

イスラエルは、諸外国のど真ん中、世界の真ん中にあり、

ヨーロッパ、アジア、アフリカ、中東の人々が、古代、他の国へ行く、又は、商売〜貿易、ビジネスをする為には、必ずイスラエルを通過し、イスラエルの商業道路を通り、イスラエルに入って来ていたのです。

その世界中と繋がる中心の場所、世界の人々が行き来する場所、イスラエルを通り、イスラエルがどんな生き方をしている民族なのか、異教の国々の人々が実際に目にして、イスラエルの神の教え、性質をする人の生活、生き様、イスラエルの神の教えを目で見て触れたのです。

 

申命記 4:5 わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、

定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。

4:6 あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。

 

聖書に、聖書と書いてあるのは、100%モーセの五書、その

モーセの五書に記された神の教え、インストラクションを、神の教えの全ての土台として、それ以降の聖書は、モーセの五書を

解説するものなのです。それらは、預言書、諸書であり、

聖書と聖書に書いてあるのは、モーセの五書、預言書、諸書のみを指して、「聖書」と書かれている!説明している!という事実からだけ、聖書を読んで下さい。

 

福音書以降は、1世紀後半から、2世紀以降に使徒達が書いたものであり、特定の人しか、それらの書簡を読んでいませんでした。聖書としてまとめられ、認識されたのは、5世紀以降のことなのです。

だから、聖書に聖書と書いてある全ては、福音書以降を記した使徒達全ては、100%、聖書=モーセの五書、預言書、諸書、

唯一存在する聖書のみを指して語って書いているのです。

そして、福音書は、聖書=モーセの五書、預言書、諸書に記された内容の短い短い短い使徒達の解説、註解、後書きである!という事実を知って下さい。福音書〜黙示録は、聖書の最初と、1つも相違えない、1つも神の教えに反する、削除する、終了する

教えなど、書かれてなどいません!!!

モーセの五書が廃れた事が書かれている!と勘違いしている全ての箇所は、聖書を解説する教師、学者が、聖書を正しく理解しないまま、2世紀以降に、ローマ帝国がモーセの五書をバン=禁じそしてそれに同調した初代西洋教父達が編み出した、自分の思想で聖書を勝手に読み込みし、聖書を通して、自分の思想を都合の良いように解説、語らせているだけだからです。そのような聖書ではない、ズレた思想の間違い、誤解が、こんなに長い年月、

異邦人の世界で継承されて来てしまったからです。

進化論と同じ。聖書の真実ではない、嘘なのに、皆が疑いなく

本当と信じられている、それと、全く同じことが、信仰の世界で起きた、起きているのです。

考えたら分かるでしょう。異邦人は、どうして、7と書いてあるのに1と読み変えるのか?聖書に書いてあることが、聖書に書いてないものに変化、変換して読み違いをし続けているんだろう?と考えてみてください。

「永遠」を、どうして「一時的」と読み替えているんだろう?

「普遍、変わらない、同じ」と神が言っているのに、どうして

それを、人間が「変わる!移り変わる変化する!」と言い続け、

信じ続けているのだろう?

子供でも分かる、単純な質問、疑問をどんどん抱けば、その答えを見つけよう、真実を神の言葉の中で発見しようと、思うべきだからです。

神が、イスラエルを選び出した理由は、異教神の国々の世界へ対して、本物の神〜創造主〜イスラエルは神の証人となる為です。

 

申命記4:7 われわれの神主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。

4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべてのトラーのような正しい定めと、

おきてとがあるであろうか。

 

聖書を読む時に知らなければならないことは、神の言葉に対して一貫して同じ言葉、同じ性質を説明しているのです。聖書に、

おきて、さとし、知恵、おおせ、命令、定めなどと書かれているのは、全て神の教え=トラーに記された神の言葉の内容を、

指して語っている言葉です。

これらは、福音書以降も同じ意味で語っているのです。

詰まり、聖書は100%モーセの五書に記された、神の教えに対して、解説している!という、大前提をずらして、勝手な思想を

語るのが、人造宗教神学の聖書解説、だから聖書とはずれた事を

解説してしまっているのです。

 

未来預言、終わりの時〜、全て同じ事を語っています。

安息日とは、ヘブライ語では、「シャバット」止まる、神の記念日、アポイントメントの日、モアデイムの中心です。

シャバットと書いてあれば、それらをガードし祝う、詰まりレビ記23章に記された、神が呼び出しているモアデイム〜記念日

全てを祝っているという事が、説明なしに語られても、理解していなければなりません。

日本人が、正月を祝うと言えば、大晦日に向けて、仕事納めや

様々な準備、大掃除、買い出し、料理を作る、家を飾る、お年玉の準備をする。

そして、大晦日を迎えて、新年の日を迎え、3が日を祝う。

説明しなくても、正月を祝う全ての内容を理解していますよね。

それと同じです。神の教えに幼い頃から、先祖代々受け継がれて

神の教え=トラー教えられている民族は、神の言葉の意味を、

1つ語っただけで裏にある全て関連する教えが理解できている前提があるのです。福音書以降に語られている語られ方もそれです。曲のイントロだけを、2小節奏でたら、その曲全部が頭に

浮かぶ!その語り方法で、トラーをイエシュアが、使徒達が

語っているのです。

 

イザヤ2:1 アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉。

2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、

 2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、

ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。トラーはシオンから出、主の

言葉はエルサレムから出るからである。

<何が書いてあるのか、書いてある通りにまず捉えて、正しく

理解する事は、必須、大前提です。ヤコブの家?エルサレムの神の家〜神殿です。目に見えない天にある神の家を、地上で物理的にそっくりそのままを再現した、レプリカ=神の家=エルサレムの神の家です。

アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神の家。

イエシュアはヤコブの4番目の子供、ユダの子孫です。

道?とは何ですか?太古から語られる同じ道〜デレフとは、神の真理=言葉、神の性質通りの生き方を、メシアは、私たちに教えられる。何を通して?神の言葉=トラーを通してです。トラー=神の教え、インストラクションはシオンから、エルサレムから、世界へ出たのです。それが使徒2章のシャヴオートの祭りの出来事、それが文字で書かれた同じトラーが世界へ出て行く、

シオン、エルサレムから大々的に出た幕開けでした。>

 

2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、

すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

イザヤ2:1−4と同じ事が、ミカ4:1ー3にも書かれています。

未来預言です。

 

トラー=婚姻契約に記された神の民の生き方、それがモーセの

五書であり、トラー=神の教え、インストラクションです。

ローマ帝国、人造宗教の教えが、シオン、エルサレムから出るのではない。神の純粋な言葉、教えを人間が途中で変えても、

終わりの日には、元通り〜神の言葉が正しく理解され、戻る日が来るからです。

イエシュアを、タナックに記されている、メシアであると、

ユダヤ人も分かる、認識する日が来る。そして、異邦人も、神の教えが永遠普遍、トラー=イエシュアであるという事実に目が開かれ、気がつき戻り、神の言葉、教えを生きる事に戻る!

それが預言されているのです。

私達が仕えるのは、ローマのジーザス、神ではない。

イエシュア〜ヘブライの書=聖書に記されているイスラエルの神です。

ピリピ2:1それは、イエスの御名によって、天上のもの、

地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

 2:2また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 

イザヤ51:4 わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。トラー(教え、インストラクション=契約=モーセの五書)はわたしから出、わが道はもろもろの民の光となる。

<終わりの日には、神のトラー=教えを全ての人が理解して、

生きるようになる。それがエレミヤ31章、イエシュアが過越の最後の晩餐で、種無しパンと、贖いの杯=食後に飲む3杯目の

ワインの儀式を通して、同じ事を教えたのです。

「イエシュアの新しい契約」とは、中身はモーセの五書=婚姻契約、それらを再更新され、神の婚姻契約の中に生きる人は、未来

皆が頭脳に割礼を受けている=神の教えを理解している頭脳で

ある人々、それらの人で神の国は治められ、全ての人が、互いに主を知ろう!と言わなくても良い、状態になっている、それが

新しく更新された、中身はモーセの五書=婚姻契約である、契約を生きる事に参加する人の状態が、頭脳に割礼され神の言葉が

刻まれている、未来の人々はこのような状態になると説明して

いるのです。中身がモーセの五書=父の教えとは異なる契約は

この世に、神の中に存在しない、そんな契約書は実際には、

存在などしていないものなのです!

 

 

続く