一年が巡り、新しい年、新しい命のサイクルの季節に入りました。
モアデイムというヘブライ語は、「季節」という言葉で翻訳されていますが、「神の定めの時」「アポイントメントの時」〜レビ記
23章に記された神の記念日全てを表している言葉です。
天の万象、光は、神のアポイントメントの日を司る役割として、創造されたと、神が人に伝えています。
神の創造された世界の「時のサイクル、命のサイクル」は、
このイスラエルの神のアポイントメントの日を巡り、流れている進んでいることが分かります。
どんな神々を信じていても、異教徒文化の国々でも、一週間は7日間でしょう。神の創造された天体によって、季節、時が同様に全人類の間に刻まれています。
神が創造された完全な世界は、エデンの園から始まって、人の中に本来の性質ではないものが入り込んでしまい、歪みました。
本来の性質ではないものが、入り込んだ原因は何ですか?
それは神が伝えた言葉通りではないことを人が選んでやったことにより、人の中にズレ〜罪、別の性質、死が入ったのです。
アダムとハヴァが取り入れたそのズレた性質、それが先祖代々、今の自分に至るまで、影響を与えて続け、受け継がれてしまうものでした。
それは、人間は同じ土から神の言葉により、神の性質と同じ
エハッド=1つ以上で全く1つ、一体として造られているから。同じ水の中にいて毒が入り込んだら、汚染されたら、皆が同様にその毒に汚染されるからです。
親だけではなく、その親の親が生きて来たズレ、それは顔も名前の知らない、アダムとハヴァからずっと繋がる遠い昔の先祖代々の人々の生き様の歴史、目に見えないけれど、自分の肉の中=
頭脳、記憶に染み付いて、しっかり受け継がれてしまっているのです。
だから、先祖のズレ、呪いは代々に及ぶとありますが、呪いとは悪魔教の世界で考えるような呪いではなく、神の似姿からズレたこと、イコール、神の前に無価値な生き方、神の似姿の本来の
性質とは違うものを生きてしまうこと、神の前には価値の無い
軽い存在となること、本来の姿を生きられなくなること、
それがずっと継承されているのが、この今の世界を見ても分かる通りです。
どんなに富、名声を得ても、その人の生き方が本来の人の生き方神の意図通りの性質の生き方でなければ、神が与えた本来の祝福を体験、受けないまま生きて、人生を終わってしまうのです。
だから、「たとえ全世界を得ても何の得があるのか?」とイエシュアが言われたその一言の中に、その事実が集約されています。
でも、イエシュア=新しい命とされた人達を通して、この暗闇に
光〜イエシュアの性質が現れ出る生き方をする人達を通して
神の実態が伝えられ、現れ出るのです。
私達は、この世の礎が造られる前から、神の中に既に選ばれていた、イエシュア〜子羊も、この世の礎が造られる前から、屠られていた事実が、聖書には記されています。
時系列〜西洋思想で、聖書を読まないで、ヘブライ思想=神が
語る永遠から考えるのです。神が見ている通りから見る。
人生の季節も、春〜生まれ出て、夏この世の旅路を生きて、
秋が来て、そして次の時代へ移行します。
神の創造された世界も同じです。
始まりがあり、そして、悪が支配する世界が終わり、やがて
イエシュアが統治される時代、義だけが世界に満ちる、神のトラーだけを生きる人達で治められる、世界が神の義=トラーの生き方だけがされる世界に全て移行する。
それが、季節で表されている、そして、神のモアデイム〜アポントメントの日、祭りで表されている、それは実際にそのモアデイムを学び生きている人たちには、理解できることなのです。
神の創造された記念日は、全てイエシュアの業、エッセンス、
福音の中核を教えているものであり、預言的祭りでもあります。
その中には神の創造で、私達の性質=イエシュアの性質を生きることを教えています。
神ご自身が、無から有を、神の言葉1つで全てを神の考え通りに生み出せる唯一のお方です。そして、私達神に創造された人は、神が与えた素材、要素材料からだけ、何かを生み出すことができます。
人は無から、有は生み出せない。神が与えたものからだけ、私達は全てを生きるように作られている!
それが、最初の最初から教えられています。シャバットの事実からも、教えられています。
シャバットの意味、そして、人の生きる「時」その生き方を神が教えています。
人は、神が許された時の中に生きて、神が伝える通りの生き方をして、やがてここで終わり!という地上の歩みの最後が来ます。
その時はもう何もできない時が来る、それは人の人生で表されています。それがシャバットの訓練でも分かります。6日の間働く活動する、いろいろなことをする。神の時を生きる計画を、与えられて許された時間の中でして、7日のシャバットを常に意識し、迎える準備をして一週間を生きて、7日目には、神が止まられた通りに止まる!止まる時が来たら、もう何も余計なことはしません。生きること、神の目的通り、意図通りを生きることを続けて、止まる。これは、永遠に入る準備をすることでもあるのです。
シャバットは創造の最初、エデン、神の性質通りを、神が与えたことの中でフルに生きることを教えています。そして修復を教えている。
神が与えた知恵、教えに根付いて日々を大事に生きる。
その中で、神と出会う。そして人生を日々生きていく。
シャバットで神が教えた通りに止まり、人と神と向き合い祝う。
自分のズレを、人との関係を、関わり方を振り返りズレていたらそれを修復をする!そして、神の記念日を、季節をめぐり生きる。
春の過越、贖い出された事実を、人生の旅路でイエシュアの性質通り=神の言葉で伝えられている生き方を生きる、そして秋の祭りで表される、これから来られるイエシュアの再臨を迎える準備をし続ける。
この人生の過ごし方を、10人の乙女のたとえ話で、イエシュアが教えています。目覚めて生きている〜神の教え〜トラー=油で表されているのがそれです。油とは、生命維持の食糧、そして
油は癒しをする薬でもあり、光を与えるものであり、人の命を
を支え、回復るもの、神の言葉!トラーです。ヘブライの世界では、5とはモーセの五書=神の教え=契約を表すものです。
神の言葉を、神が言う通りに生きてイエシュア=花婿のが迎えに来るのを待っていた人達と、そして、神の言葉=トラーを生きない、不法=トラーなし、アノモス=神の教えを無視して、準備して生きていない愚かな五人〜眠っている五人で表しています。
神の言葉に根付いて生きていない人を表す、トラー無しの五人のたとえ話なのです。
人の人生は、その人しか生きられない。だから油は他の人に分けられるものではない。神の言葉を生きていたそのものを、誰かに分けることなどできないからです。神の言葉を聞いて生きる人だけが、人生を神の言葉に根付いて生きることができるからです。人に代わって、他者の人生は他の人が生きられないからです。
神だけが、神の創造された世界、神に造られた人の性質、
人の生き方を伝えることができる、唯一のお方です。
人は、神が造られた世界、現実の中だけに生きるように、造られています。それが神が伝える人の生き方です。
そして、神の言葉は、神ご自身が人に伝えて教えている通りに、永遠普遍で完全であり絶対です。神の性質が変わらないように、神の言葉も変わりません!
人間が神の言葉に手を付けて、人間が神になり代わり、神の座を人が奪って、神の座から人が神のように、神の言葉を塗り替えて語っていますが、神の前にそれらは大きなズレ=罪であり、無意味な行為であり、人を神の伝える教えとは違う、ズレた生き方をする道に導くことをしてしまっているのです。
神の言葉ではなく、人が作った思想を信じて生きる場合、神が
伝えることと違うことを言い出して、神が伝えることとは違うことを生きているのです。
これはエデンの園の最初の騙しと全く同じ。神の言葉とは違うことを蛇が言ったことを信じ続けてしまっているのです。
それをずっとしていることに、気がつけば良いのです。
「神は本当にそう言ったの?」と、神の言葉を疑わせる言葉〜
人の教えを人は聞き続けているのです。
神の言葉は、神ご自身であり、私達は神の言葉で造られたのです。私達の性質を教え、無から有、世界の全てを造られ、そして最後に人が造られたのは、世界の全ては人のために神が創造されて準備されたからです!
そして、人が最後の造られた時、神は、「トヴ メオド」
「はなはだ良い」と翻訳では書かれていますが、これは神の深いところにある、感情込められた感嘆、感激の表現なのです。
神の意図通り、そっくりそのまま、最高の傑作品となり現れ出たからです。自画自賛ができるのは神だけ。神の意図通りずばりそのもの、素晴らしく、これ以上はない、その最高!神の意図通りが最高だから、それが、物理的形として出現したからです。
神は永遠から存在し、この世が造られる前から、目に見えない神の世界は存在しているのです。
その目に見えない神の世界を、物理的に反映させるものを、神が創造されたのです。
それは、ヘブライ語でははっきり分かるように書かれています!
その言葉は、ケダムと言う言葉ですが、「東の方」と訳されていますが、地理を表す言葉以外に、「時」を表す言葉なのです。
地理、日の出るところを表す言葉は、「ミズラッフ」と言う言葉ですが、エデンの東と訳されている東は、ケダムです。
そして、創世記2:8にあるケダムとは、時を表す言葉です。
そして、前置詞のミンという言葉が付いて、短縮され「ミケダム」と書かれています。
その意味は、「何も始まりのない最初の前から〜」という意味です。訳すのが難しいですが。
つまり創造がない、始まりがない、その前からという意味です。
つまり、それは何か?神だけが存在している、永遠の中、神の中に存在していた。
それがエペソでも書かれている、この世の礎が造られる前から、
既に神により選び出されていた私達のことが、書かれている、
永遠の中に屠られた子羊のことが書かれている、それです。
ユダヤ人は、異邦人〜西洋思想哲学のような考えとは異なる
考えをします。聖書に書かれたヘブライ思想。
だから、神のことを、「ザ場所」定冠詞がついたThe 場所と呼びます。ヘブライ語では「ハマコム」と言う言葉ですが、神そのもののが、私達が存在する場所であると言います。
聖書〜神の言葉でもそれが表されています。パウロが「主に在って」と言っているのは、それです。「神の中に存在して〜」と言う
意味です。イエシュアも同じことを、ゲツセマネの祈りの中でも言っています。ヨハネ17:21
私達は神の中、神と1つ、一体。神の中に存在する人、神が内側に住まう人は、神の性質通りを生きる!神の性質に反することを信じて生きることは、神の栄光、性質をそのまま反映することが
できなくなることなのです。
神の栄光をそっくりそのまま反映し生きることができる性質を
私達人の中に神が、神の性質そのものを搭載されているのです。
それが、私達人間の本来の性質なのです。
DNAは神の性質を生きるように造られている。
神の性質は、神のトラー=言葉=聖霊で表される。
神の似姿を生きる、イコール神のトラー=神の言葉を神の意図通りに生きている人の生き方から、神の栄光が現れ出る、メシアの香りは、人の生き様から現れ出るとある通りです。
生きること〜キリスト!イエシュア ハマシア!
人の性質は、本来元々ズレた性質に造られているのではない。
本来の人は、イエシュアそのものの姿、性質に造られている!
これが子羊の贖いの血で取り戻されて与えられている!
これが、神が伝えていること、これが新しくされた本来の人間のID、性質、神が伝える人間像なのです。
神の性質とは違うことを、最初の人、アダムが取り入れてしまったがゆえに、私達は本来の姿からズレて、本来の関係、神と人との関係からもズレて、エデン=神の中=喜びしか存在しない場所から飛び出して、神と離れた別の場所の中に、閉じ込められてしまったのです。それが、人類歴史の最初の悲劇です。
死が入り込んだ原因は、簡単、単純。神の言葉を無視して、神の伝えたことではないこと、その騙しの教えに耳を傾け、実際に
その嘘を実行してしまったから、死=罪が入り込んだ!
その警告を、イエシュアを信じながら、軽視、軽くあしらうように、教え続けている教えが、異邦人クリスチャンの中に、根深く浸透し続けてしまっているのです。
でも、細い声は聞ける、狭き門は入れる!広く開かれた騙しの
教え〜世間で2000年近く浸透した人間の教え=宗教の教えの横にある、本物の神の言葉=本当の門、本物の羊飼いの声が聞ける門=イエシュア=聖霊=神の言葉を選択すれば良いからです。