命のサイクル 新しいサイクルを生きる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一年が巡り、一年の最後の祭りである、仮庵の祭りも終わりました。

2000年前、イエシュアが地上のご自分の国、イスラエルに

居られた時、イエシュアが祝われていた、神(イエシュア)の

創造された永遠の記念日シャバット、春の過越の祭りから始まる4つの記念日〜イエシュアの最初の地上への到来を表した福音、イエシュアの業を表し記念する記念日。

そして、秋の3つ神のアポイントメント、呼び出し日、記念日、祭りは再臨と未来のイエシュアの統治される世界を表す祭り。

神の創造された記念日をイエシュアはご自身で祝われて、人に

重要な福音の要素、中核を教えられていたのです。

 

全部で、「7つの神のモアデイム」これら全てイエシュアの業、最初の地上の到来、福音の中核、そして、秋は再臨と、イエシュアの永遠の統治を表す、エデンから出てエデンに戻ることを教えている祭りです。

春の祭りは大体、4月前後になる、聖書の暦の第一の月の15日、7日を2回繰り返すした日の日没の来る、「過越の祭り」この日は、満月になる時です。その日から7日間行われる種無しパン、その7日の種無しパンの週の真ん中にある「初穂(大麦)を捧げる日」この日にイエシュアが復活されました。春の最後の都上りの祭り=ハグは、「シャヴオート」シナイ山で婚姻契約書を受け取った祭りを祝っていました。

秋の3つの祭りは、イエシュアの再臨と、イエシュアが来られて統治する次の世代、その時代から永遠に世界を王の王として、

神の義、全ての人が婚姻契約を生きる本来の状態の戻る時代に

永遠に入ることを表す、預言的祭り。

 

聖書の暦の第七の月の1日、丁度、グレゴリオ暦では、9〜10月の1年の作物全ての収穫が完了する、秋の収穫の時に来る

収穫祭でもあります。

新月の日〜ヨムテルア、叫ぶ日、祭司以外の人も全て角笛を

鳴らして世界へ王の到来、準備を告げ知らせる日。

そして大贖罪日=ヨムキプル、神の前に全ての人が立つ日。

そして満月の日に来る仮庵の祭りの7日間。

子羊の婚姻の宴、そして、第8日目は、イエシュアが永遠の統治する世界、時代が永遠に続くことを表す記念日です。

これら全ての記念日の中心がシャバット=第7日目のシャバットなのです。神が創造された記念日は、全て「7」が中心、テーマ

完結、完全、完了、修復、7で元に戻ることを表しているものです。

シャバットは、神が創造された人間、神の似姿、性質通りに生きるそのものを教えているものです。

神の創造された本来の状態を生きること、それがシャバット、

エデン=喜び=神の中で生きる要素を教えているものです。

 

実際にシャバットを神が言われる通りに祝い、実践して、生きない人には分からない世界を神が教えているのです。

やらない人には、分からない世界がある!これははっきり言えます。

神の教えている内容は、全て生きること、実践、実体験、練習をする中で、学習するようにデザインされています。

人の学習も全部同じです。実践なしに、情報だけ眺めていたら、上達などしません。自転車に乗れるようになるには、

実際に自転車に乗って走る練習をする。泳ぎを覚えるには、水に実際入って泳ぐ練習をする。料理も、算数も、手芸も、楽器演奏も、医療行為も、スポーツも全部全部、実践、練習、実体験を

通して学習するそれが神が造られた人間の生き方、学習の仕方からです。

どうして、異邦人の信仰の世界だけは、哲学思想の世界に留まるのでしょうか?考えていただけでは、始まらない。

イエシュアを信じる、全て生きること!と教えています。

生きること〜キリスト!とある通りです。

神が言われたことを、その言われた通りに「聞く」シェマ。

従うではなくて「聞く」です。神が伝える通りを正しく聞く!

これが、神の教えを神の意図通りに生きる、最大の前提があるのです。神の教えを聞いて、言われた事とは、違うことをせよ!というのが、宗教の教えの世界の思想なのです。

人がやってしまっていることは、神の言う通りを聞かない〜神の言った言葉を曲げること、その時点で神が伝えていることは

神の言葉を曲げる、捨てる、否定して聞かない人の頭脳には、真実は届かなくなるのです。曲がった教え、人の教えが届くだけ。それが、ずっと歴史の中で起きている、大きなボタンの掛け違いなのです。

人が神の上に立つという意味は、人が神の立場になり変わることです。バベルの塔と同じ。人が神の権威を横取りし、神の言葉を潰し、神を操ろうとすることです。

その行為は、神の言葉を人間が勝手に変えること、神の言うことを人が無視して、人間の教えの方を主張する行動であることに気がついて、気をつけて考え、神の言葉に対して、一体人間が何をしてきたのかに、気が付かないとならないのです。

遺伝子組み換えも同じです。神の創造されたデザインを変えること。LGBTQも同じです。

神のデザインに反すること全て、それは破壊に繋がっていく道であり、曲がった道であり、神が示す「道」イエシュアの性質通りの生き方ができなくなる路線の道になります。

先週は仮庵の祭りの週であり、丁度休みが取れる時に重なり、

友人と仮庵、シャバットを祝って、楽しい毎日でした。

昨日10月26日土曜日は、世界中でイスラエルの神の創造されたイスラエルの神が全ての神の子ら〜超えたものたち〜イブリ、

イエシュアを通してイスラエルの神の元に戻った人たち、神の子ら、アヴラハムの子孫、肉の子孫ではくても、神の家族に受け入れられた人たち全てが祝う、神が呼び出している週一度の記念日です。実子も養子も同じ同等に、神の大家族、天の共同相続人だからです。

2世紀以降に、ローマ帝国や、カトリック〜神ではなく、人間が神の記念日シャバットの日を、勝手に週の第一日目に変更しました。出エジプト20章にある、安息日=シャバットを覚えて聖なる日とする!と神が伝えた言葉を、人間が勝手に曲げただけなのです。プロテスタント、クリスチャンも、10の言葉、聖書の題目でもある重大な教え、この神の教え、言葉を曲げています。

神の前には、何も意味がないこと!神は、神の記念日を変えてなどいません!

神は神の口から発した言葉を、人間が変えることを、許す権威など人に与えてなどいません!

シャバットを別の日に変えたその理由は、以前に述べた通り、

新しいローマ宗教を作る時に、「地場宗教」に根付いたローマ市民、一般大衆には、「太陽神信仰」、サン=太陽=太陽神の礼拝日=日曜日に礼拝するのが、馴染みやすく、入りやすいから。

大きな違和感なく、新しい宗教に移行できるため。そして同時にローマ皇帝を崇める日が日曜日だから、日曜に変更しただけなのです。

神が神の記念日を変えた!というそういう嘘は、言い続けては

ならないのです。人が日曜日を、シャバットであると祝っていても、それは神が創造されて聖別された記念日などではありません!

今はいつでも安息日?そんなこと神は一度も言いません!

めちゃくちゃな聖書解説が、異邦人の世界ではずっと行われているだけなのです。聖書ではない聖書解説が、され続けているだけ!

 

昇天した日が日曜だから、シャバットを日曜に変更するなどと

神は1度も言いません。永遠にシャバットは第7日目であり、

変わらないからです。しかも、イエシュアが昇天されたのは、

土曜日の日没かもしれないのです。でも安息日と、昇天された

時がいつかであるか、そんな事は、シャバットが変更になる理由ではないのです。何曜日に昇天されようとも、神のシャバットは

変更不可、変更なし!

神の創造されたアポイントメントの日に、1つの変更なし!が

永遠の事実なのです。神が人に自由に記念日を変えて良いなどと、言っていません。ローマ14章を勘違いして読み込みしているから、そんな間違いを信じることができるのです。

イエシュアが地上に再臨されたらすぐに祝われるのが、仮庵の祭りです。祭りを祝う、イコール、神のアポイントメントの日全てを祝うという意味なのです!その全ての祭り、アポイントメント、モアデイムの中心は、第7日目のシャバットだからです。

これを、理解できない理由は、異邦人は「はじめの愛」神の教え=トラー=婚姻契約=モーセの五書に記された神が創造された

人々の生き方を、知らないからです。

たとえ人が、神の言葉や記念日を変えても、神の真理は永遠に

固くたち、ずっと神の教えに忠実である神の子ら達〜残りの民達により継続されて来ている、永遠にそれが続くのです。

そして、2000年前イエシュアがシャバットを祝った時に歌われた歌が、今も歌われているのです!シャバットを祝うごとに、

エデンの園を飛び出した後、ずっと神の言葉=教え=契約を継承し続けている残りの民により、イスラエルの神=創造主が造られた、永遠の記念日が、祝われているのです。

同じ歌を歌っている!イエシュアが歌った歌。イエシュアが祝われたシャバット、イエシュアが祝われた全ての記念日、祭りを今も祝える幸いなのです。

 

一年が始まるのは最初の月、第一の月ですが、聖書の中には、色々なことが書かれています。

秋の仮庵の祭りで全ての祭りが終わり、一年の神の記念日が終わり、新しいサイクルが始まります。

これは、未来に来る時代も同じです。この世での歴史〜悪が支配する世界が終了し、永遠にイエシュア、王の王であるお方が正しく治め、全ての人が互いに「神を知ろう」と言わなくても良い

時が到来する。それがエレミヤ31章の新しく更新された契約の命を生きる時代の預言です。

神が人を造られたその性質通りを生きることが、モーセの五書=

トラー=婚姻契約に記されています。そのあなたは〜する、

あなたは〜しない、あなたは神の性質通りに造られたから、

それらがあなたの生き方です!と神が教えていることを、頭脳に

腹にDNAに刻まれた状態で生きる時代が来る、それが新しい契約の意味です。中身が別の契約などではありません。

神の契約の命に生きる、参加する神の子ら全ての状態が頭脳に

割礼がされて生きている状態になる時、そういう世界が来ると

いう預言だからです。

異邦人の世界で語られている教えは、ギリシャローマ哲学〜

西洋思想=異教徒、異教の神々の思想に根付いた別の目から

眺める思想で、聖書とは違う思想を語ってしまっているのです。

 

ヘブライの世界、ヘブライ思想、神の目から見る通りではない

しかも、人が神の言葉を終了、否定する様な思想が土台として

聖書が語られているから、曲がってしまうのです。

そして、聖書を途中から読んでも分からない理由は、聖書の最初、

得にモーセの五書を学んで行くと分かります。

そして、古代のヘブライの世界、中近東に位置する世界の文化

古代の人達が聞いて理解していた世界が分からないまま聞いて

聖書に書かれたことを、現代の西洋思想や宗教神学を通して

考えていたら、聖書に書かれていることを正しく理解するのは

無理です。

得に福音書以降は、最初の部分が分からないままで、1世紀当時のその時代の人達の中にあった言葉、慣用句、宗教文化や人の

教えなど、その意味を知らないまま読んだら、それこそ本当に

異邦人創作の解説は簡単に作れてしまうものなのです。

 

歌舞伎をフラダンスで紐解く、西洋音楽を日本の雅楽に当てはめられないのと同じなのです。異文化、別物だからです。

聖書に書かれている内容はとてもリッチ、豊かで奥深いものです。なぜなら、生ける神が人に、神の考え、神の創造された世界、人の生き方を伝えているものだからです。

 

イエシュアが地上に来られたのは、豚やネズミのためではありません!豚やネズミ、きよくない動物が、きよくなるために来たのではない。

永遠から存在する、贖いの業を、地上でも証明するため。

人が、律法の下〜罪の法則の下に縛られていることから解放されるために、イエシュアの完了の業=子羊の贖いの血が永遠の中から差し出されているのです。

 

続く