クリュニーやクリソストムのこのような発言は、教会の指導者によって絶えず繰り返され続けました。
ユダヤ人のイメージは次第に「背教者」から悪の完全な象徴、
悪魔自身の化身へと進化した。「勝利した異邦人教会」は、聖地(そしてその途中の他の土地)をユダヤ人の手にするという任務を担っていると自ら考え出していたのです。
西暦 1096 年、第 1 回十字軍のリーダー、ゴドフロワ・ブイヨンは、イスラエルにおけるキリストの血の復讐と、ユダヤ人の
一人も生かさないことを誓いました。十字軍がイスラエルに到着すると、彼らはエルサレムのユダヤ人を集め、シナゴーグに集めて建物を焼き払いました。
彼ら十字軍は炎の周りを勝ち誇って行進し、「キリストを崇め奉る」という賛美歌を歌いました。燃えるシナゴーグの中で、ユダヤ人は間違いなく、死んでいく間、これらの「キリスト教の礼拝」の讃美歌の旋律を聞きました。
これは、完全に犯罪〜殺人罪です。神の言葉を捨てる行為は、神の前に何が罪なのか、分からなくなる事なのです。
1215 年に開催された教会の第 4 回ラテラン公会議の直前、
教皇インノケンティウス 3 世は、ユダヤ人を「永遠の奴隷」に
することを宣告し、次のように命じました。
「イエス キリストの血が呼びかけるユダヤ人は、キリスト教徒が神の法を忘れないように、殺されるべきではないが、顔に恥が満ちるまでは、放浪者として地上に留まるべきである。」
この声明により、異邦人教会は数世紀に渡ってユダヤ人の運命を決定しました。教会の教義は、キリスト教世界でユダヤ人を拷問し殺害することを、最終的に 2000 年近く正当化しました。
ユダヤ人は地上で放浪者として生き、家も権利も特権もありませんでした。ユダヤ人は、社会のあらゆる悪のスケープゴートとされ、あらゆる階層のあらゆる場所で、人々がユダヤ人を絶滅させようと躍起になりました。これらの人々は、ユダヤ人に対する
本能的な憎悪を心に抱いて生まれたわけではなく、その憎悪は
聖職者のプロパガンダの産物であったのです。
一般のクリスチャンも、最初から、神の言葉が変化した、神の
教えは人種別に違う、律法に戻るのか〜信じたらユダヤ的な事はやめなさいと言う、反トラー=モーセの五書や人造神学の教えを
予め知っていて信仰生活をスタートしたのではないのです。
信じた後に、異邦人、牧師や教師達に、1世紀後半以降に出て来た西洋教父達の反モーセの五書思想、反ユダヤ思想聖の教えに
影響を受けた思想、非聖書的な人間の思想を教えられ、植え付けられてしまったから、人が神の言葉の方を歪め、曲げて、破棄して、そう考えているだけで、聖書にはそんなことなど、書いてない、聖書を根拠にした教えを聞いて信じているのではないことを
全く知らないのです。
聖書に、書いてあるのに、事実が読み取れないままになっているのです。聖書には、シャバットは7とあるのに、1と読み替えて考えるように教えられ、神が言う事ではない、そんな人間の教えを本気で信じているのですから。
自分の頭脳、自分の目で、聖書に書かれていること、7は1ではないと、確かめられなくなっているほど、聖書の事実から遠くずれている。
聖書を正しく読んでいない、書いてある通りに、正しく考えられなくなっているのです。
普通の書物なら、7と書いてあったら1と読まない。
電車が7時来ると時刻表に書いてあったら、1時に来るなんて
考えないでしょう?聖書だけは、何か隠された裏があるなんて
思わされていて、裸の王様の衣装を信じているのです。
神が伝える永遠という言葉、変化しないと書いてあるのに、
神の言葉が変化しないのは、2000年前迄で、その後変化したと読んでいるのです。
その読み替えが、聖書ではない、書いてある事とズレている、
おかしいと思えないほど、人の教えで神の言葉が覆われてしまっているのです。
異邦人キリスト教会の教義と教えは、その始まりから、第四ラテラン公会議まで、「ユダヤ人憎悪」という最初の層を築き、
ユダヤ人をホロコーストまで導いてしまったのです。
この最初のステップは、「モーセの五書の教え」が、もはや正当な教えとして、異邦人の間では認めなくなったため、異邦人キリスト教徒がユダヤ人を、キリスト教に、または非ユダヤ的アイデンティティの場所に追いやろうとする試みから始まりました。
非ユダヤ〜反モーセの五書そのものです。モーセの五書=イスラエルの神の教え、ユダヤ人イエシュアの教えほど、ユダヤ的、
ヘブライ的なものはないからです。
そうすることで、教会は反ユダヤ主義の第一の特徴を明確に定義しました。
「あなた方はユダヤ人として私たちの間で生きる権利はない」
上記の簡潔で、悲劇的な歴史記述から分かるように、人間が作った教義を通じて、異邦人イエシュア信者の生活に、誤りのある
恥ずべき「異様な火」を持ち込んだのは、上で引用した「教父」たちでした。腐敗、聖書の教えではない異物、高きところの礼拝パン種は、聖書を正しく教えるべき人達〜教父、教師により、
取り込まれてしまったのです。それは今も同じなのです。
人間が作った宗教的教義のパン種は、一旦発芽を許せば、最終的には、偽りの宗教体系へと進化します。その堕落した果実は、
ユダヤ人への憎悪と、聖書=神の言葉に根付き、従った生活への放棄です。だから、神の言葉が廃れた、破棄、終了したと、聖書とは異なる教えをしていても、その思考回路、行動が、聖書ではないと気がつけないのです。
この堕落の結果、新生信者の聖書的な慣習=神の教えや祝祭=
神の創造されたシャバットや祭りが全て禁止され始め、その後
異邦人の間で、祝われることは完全に消滅し、その代わりに人間が作った宗教的教義、非聖書的な慣習、異教の祝祭=太陽神の
礼拝日=日曜礼拝、クリスマス(ミトラ教の祭り)イースター
(アシェラ女神、多産の女神)に置き換えられました。
ここに記されなければならないもう1つは、クリスチャンの間で英雄視されている、ルターに関してですが、彼は、晩年には完全に反トラー思想、反ユダヤ思想に翻りました。
彼が記した、「ユダヤ人と嘘」により、ヒットラーにホロコーストを起こさせる考えと、ユダヤ人が滅びることが神のみ旨であると言う意識を与えてしまったのです。
ルターの宗教改革は、1世紀のイエシュア、使徒、信者達が
信じて生きていた、神の純粋な言葉=トラーに戻る迄、根こそぎ
高きところの礼拝を排除することなく、結局初代教父達の、非聖書的教えの土台を破壊することのないまま、部分的改革をしただけのものなのです。だから、クリスチャンは、イエシュアの教え1世紀の人々が生きていた、モーセの五書の教えや、神の祭りを
全部捨てたままの状態に留まっているのです。
マルティン・ルターは、そのキャリアの初期には、カトリック
教会に対するユダヤ人の抵抗に同情的だったようです。しかし、
彼はユダヤ人が、ルターが考える教え=キリスト教に改宗することを期待していました。彼らユダヤ人が、ルターの教えに改宗しなかった時、ルターは反旗を翻し、彼らユダヤ人に暴力的に反対しました。
本当に、教師達が神の言葉を正しく理解していないこと、神の
言葉を捨てることが神が与えた正義=義だと思い込んで、勘違いしている事、神の言葉を蔑ろにし、軽く取り扱うことが、今の
時代の生き方、正義だと考えている肉の思想こそが、本当の問題の根です。
神の花嫁=義とされた人達が、神の教え=婚姻契約に記された事を生きる事に招かれたのです。信じる前に、モーセの五書=婚姻契約が与えられたのではないのです。
義とされた事は、信仰により受け取る無償の贈り物。
子羊の血の贖いは、神の一方的な完了の業です。
でも、クリスチャンが、聖書の事実から理解していない事は、
神の花嫁とされた人は、全員、神の婚姻契約を生きる土台に関係が結ばれて、そして神の伝える生き方=トラー=イエシュアの
生き方をする!と言う事が、全く見えていなのです。
イエシュアがそう教えているのに、それが耳にも頭脳にも、全く響いていないのです。
神の言葉を神が言われる通りに取り扱わない態度=それが異邦人の思想なのです。ユダヤ人に神の教え=トラーを捨てよ!神の教えを捨てよ!と教えるなら、それは気が狂っている人、神に対しての冒涜、それらが死に匹敵する罪であると神が伝えている事を、聖書から理解していないとしか、彼らに見えません。
1世紀の聖書に登場するイエシュア信者に、もし西洋教父達、
ルターが言った事と同じことを突きつけたら、彼らは100%
異邦人の創作した宗教などに改宗しない、それらの教えは神の言葉ではない、偽教師、偽預言者の言葉であると、聖書から正しく認識できるからです。
イエシュアを信じている人も、神のトラーを捨てて生きる事などない!この基本的な理解が抜けているのが、異邦人の世界の宗教の教えなのです。
ルターは、そのキャリアを通じて、ひどく暴力的で下品な言葉を使いました。新しくされた人=イエシュア=内側に聖霊を頂いた人の生き方を、神の言葉を捨てる場合、忘れるのです。神に聖別された人の生き方を知らない振る舞い、行動、思想。
現代の世界では宗教家がこのような言葉を使うことは期待されていませんが、16 世紀初頭には、それは珍しいことではありませんでした。それが、奨励され、受け入れられていたからです。
以下は、ルターの著作「ユダヤ人とその嘘」からの抜粋です。
私は、ユダヤ人について、またユダヤ人に反対して、これ以上書かないと心に決めていました。しかし、この惨めで呪われた人々が、私たちキリスト教徒をも誘惑し続けていることを知ったので、この小冊子を出版しました。それは、ユダヤ人の有害な行為に反対し、キリスト教徒にユダヤ人に警戒するよう警告した人々の中に私がいるようにするためです。キリスト教徒がユダヤ人に騙されて、ユダヤ人の追放と惨めさを自ら引き受けるなどとは、私は信じませんでした。しかし、悪魔は世界の神であり、神の言葉が存在しないところではどこでも、悪魔は弱い者だけでなく強い者に対しても、簡単に仕事をこなします。神が私たちを助けてくださいますように。アーメン。
主は彼らをアブラハムの子らとは呼ばず、「まむしの子ら」と呼びました [マタイ 3:7]。ああ、それはイスラエルの高貴な血と
民族にとってあまりにも侮辱的だったので、彼らは「彼は悪霊に取りつかれている」と断言しました [マタイ 11:18]。主はまた
彼らを「まむしの子ら」と呼んでいます。さらに、ヨハネによる福音書第 8 章 [:39,44] で、主はこう言っています。「もしあなたがたがアブラハムの子らであったなら、アブラハムがしたようにするはずです。…あなたがたは、悪魔である父から出た者です。彼らは、自分たちがアブラハムの子ではなく、悪魔の子らであると聞くのが耐えられなかったし、今日でも、これを聞くのに耐えられないのです。
したがって、盲目のユダヤ人は本当に愚かな愚か者です...
<ルターや西洋教父達、その人達が提唱している教えこそが、反キリストに同調する教えだと、気がついていないのです。
反キリストが表される666の数字は、ヘブライ文字で表すと、神の言葉を捨て去る、離れるものを意味することを知っていますか?>
さあ、これらの惨めで、盲目で、無分別な人々を見てください...彼らの盲目と傲慢さは鉄の山のように堅固です。
* * *
親愛なるクリスチャンの皆さん、このことから学びなさい。
盲目のユダヤ人に惑わされるままにしているとしたら、あなたは何をしているのでしょうか。そうすれば、「盲人が盲人を導くと、二人とも穴に落ちる」という格言が本当に当てはまるでしょう[ルカ6:39]。彼らから学ぶことは、神の戒めを誤解する方法だけです...
ですから、ユダヤ人に対して警戒しなさい。彼らが会堂を持つところはどこでも、ただの自己満足、うぬぼれ、嘘、冒涜、神と人への中傷が、悪意を持って行われ、彼らに激しい視線を向けている悪魔の巣窟に他ならないのです。
* * * さらに、彼らはただの泥棒であり強盗であり、呪われた高利貸しによって私たちから盗み、くすねた物以外は、毎日一口も
食べず、一糸も着ません。このように、彼らは妻子とともに、
盗みと強盗によって、最も悔い改めない安全な状態で、大泥棒であり強盗として日々暮らしています。
* * *
しかし、彼らは嘘をつく技術を完全に習得していません。彼らはあまりにも不器用で下手な嘘をつくので、少し注意深い人なら誰でも簡単に見抜くことができます。しかし、私たちキリスト教徒にとって、それらは神の怒りの恐ろしい例です。
* * *
もし私がユダヤ教の他のすべての条項を反駁しなければならないとしたら、彼らが嘘をでっち上げるために費やしたのと同じだけの時間と期間、つまり2000年以上にわたって、それらに対して反論を書かなければならないでしょう。
* * * .
キリストとその言葉は、人間の法令という大きな害悪のせいでほとんど認識できません。しかし、教義や信仰に対する彼らの嘘については、今のところこれで十分でしょう。
ユダヤ人は、彼が放屁すると神とすべての天使が踊るほど高貴で貴重な宝石だと、先ほどお話ししませんでしたか?
* * * 悲しいことに、そのような深淵で悪魔的で地獄のような狂気の卑劣さ、嫉妬、傲慢さに陥れるのは、神の恐ろしい怒り以外にあり得ません。もし私が悪魔自身に復讐するとしたら、神の怒りがユダヤ人に与えたような悪と不幸を悪魔に願うことは、彼らにはできないでしょう。彼らは自分の良心に反して、嘘をつき、ひどく冒涜するように強いられたのです。いずれにせよ、彼らは神に絶えず嘘をついたことに対する報いを受けているのです。
続く