聖書の内容の解説が、聖書ではない人の思想で、神の言葉の意図を曲げられて語られてしまっているものが、数多くあります。
この誤解を、1つ1つ聖書に書かれた元の言葉=事実に基づき、誤りを解いて行かない限り、ずっとずっと聖書を聖書ではない
人間が考えついた教えで、イスラエルの神が伝えている真意は
隠され、神の教えが誤解された解説を続けてしまいます。
聖書の全部を、誤解した解釈はしているのではないのです。
でも一番大事な重要な根幹である、聖書=神の教え、聖書の土台=モーセの五書が、曲げられて、イスラエルの神の本当の性質、神像が変化する神、変化する神の言葉であると曲げられて、今の時代は人間が神の言葉を変えて良い、それぞれ人により自由に
神の言葉を生きるか生きないか選択して良いと、人間至上主義の教えをクリスチャン達がして、神の言葉ではなく、人の思想にすり替えて語っているのです。
根本的な問題は、神の言葉が変わったという、その人の編み出した聖書ではない思想自体こそが、完全に除去されるまで、聖書の内容を曲げている誤解の解説は、どこまでも限りなく続いて行くのです。
変化球。ここ迄は聖書の事実に基づいて語っている、でも必ず
その先には変化球があり、神の言葉から外れて、人間の思想を
解説して展開して行くのです。
それは、神の言葉が変わった!と信じているからできることなのです。
キリスト教で教えられていることと、ヘブライ聖書に書かれていることの違い、神の言葉の大きな違いは、聖書に書かれているのは、純粋で永遠に変わらない神の言葉。
人の思想や宗教の教えは、聖書ではない。
古代の人達、1世紀の人達のように、イエシュアが教えられていた
トラーを知って、神の言葉をそのまま生きている人達が世界にはいるのです。
ユダヤ人の残りの民が先祖代々、神の純粋な言葉を学び、教え
生きて継承し続けていること、16年前迄知りませんでした。
私の中にない環境、体験。しかも、ヘブライ語聖書の中に書かれていることが、余りにも素晴らしくて、聖書にはこんなことが
書かれていたのかという感動と、私が教えられてきたイスラエルの神像との間に、大きな大きな違い、ギャップが書かれている驚き。
ヘブライ聖書を皆が当たり前の如く読み、深い考察や洞察を多くの人が持っている驚き。だから、もし本当に神の言葉を知っているユダヤ人達が、イエシュアに出会えさえしたら、それは大変なことが起きるのは間違いのないことなのです。彼らは、西洋思想で神の言葉=トラーを語ったりしないからです。
神の言葉は、人を賢くするとは本当であり、イエシュアを通して
新しくされた人達が、どのように生きるのか、実際に目の当たりに見て、体験して、エデンの園の生き方を教えらたことは衝撃的でした。私の知らない、神の教えていた本物の生き方の世界がある。
人種ごと、時代ごとに変化する神、変化する神の言葉、人種、時代事に変化する神の教えetcそれらは、単なる人の思想であり、神の言葉、教えなどではないのです。
そして西洋宗教の中で、人を責めてくる、罪人という教え。
罪人の祈りというのも西洋人が作ったものです。神は、イエシュアと共に死に伏した修復不可能な以前の自己像で、人を見てなどいないのです。罪人罪人、繰り返し言い続けて、どんなにダメな人間か〜
なんて神は言わない。どんなにダメでズレているかは、そのズレは、神の言葉から指摘しても、それは本当のあなたではない、偽物学習した既にイエシュアと共に死んだ人だから、やめなさい!戻りなさい!神の教えている生き方に戻りなさいと、教えているだけです。
多くの人は以前の自己像を引きずっているものです。それが過去の傷。誰もが誰かの影響を受けて生きている。自分の過去の失敗又は親、その前は祖父母、親戚、周りに置かれた人達から、良い影響も、悪影響も受けてしまっているからです。ひどい場合は、命を脅かされる虐待や、ニグレクト、育児放棄、貧困、親を失うなど様々な悲惨な経験をして、それが自分の自己像になってしまっているものなのです。
でも、それから脱出できる、それが福音です。新しい人を与えられている事実からだけ生きる、新しい生き方を与えられている。
傷ついている、破壊された自分は、本当の自分、本当の自己像ではないからです。
でも戻ろうとも、神の言葉を捨てれば、一体何に戻るのでしょうか?どうやって癒されるのだろう?悔い改めという翻訳は、戻る=テシュヴァというヘブライ語ですが、戻る=神の言葉に戻る!
神に戻るとは、神の言葉に戻って生きること。神=言葉だからです。空想の中で、神に近づくのではない。見えない神を神の言葉で伝えていることをしっかり握り、それを生きること。
神の言葉に繋がる事は、神と直接繋がる事です。神の深いところにある考え、神の実態に直に触れる事=聖霊に触れることだからです。
人間は複雑に造られていますから、人間の生きる全貌を神が伝えているのに、それを捨てたら、部分的にしか見えなくなって行くのは、免れないことなのです。
神の言葉は命=聖霊=神の命の源なのです。神の言葉により全てが造られた、神の言葉により造られた人は、神の言葉により生かされるからです。
それをサタンは知っているから、人が神の言葉に根付いて生きないように、別のことに一生懸命邁進させて、神の言葉にしっかり
根付いて揺るがされないで生きることから、はぐらかせているのです。よく考えたら分かるでしょう。エデンの園、死を招く要因は、神の言葉を曲げたことを生きること。同じなのです。
新しくされた人、本物の自分だけを神は見ていて、その新しい人
イエシュアの似姿を与えられていることを、ずっと教え続けて、私達がそれに気が付くように導いてくださる神。
全然声のトーン、声音が違うのです。
これは別のトピックなので今は話しません。
この間違った聖書概念、ズレ、誤りに気が付くには、本当に聖書に書いてあること知れば良いのです。神の言葉が変わらないと
神が人に伝えている永遠の事実、シンプルで永遠で変わらない
事実が、見えない目、頭脳には、神が言われた言葉が全て完全で真実であることが分からないままになるのです。
神は、2000年迄は、仮の代替えの変化する教えを与えたと
思っていることからして、聖書とはずれた思考回路で、神の教えを曲げて考えているのです。
福音書以降に書かれている教え、イエシュアがされた教えは、
100%モーセの五書です。
神が言っている通りではなく、神の言葉に人の教えを混入し続けいてる限り、神の言葉を汚染する事は解消されない。それが高きところの礼拝、偶像礼拝の根、神の言葉ではない人の思想で解説される聖書の内容なのです。
どの人も、もれなく例外なくイエシュアを通して神の元に戻る以外に方法はない。贖いは永遠の中に屠られた子羊の血=イエシュア以外にありません!人種も時代も関係ない。
そして、私達贖われた人達は、永遠の中に神に既に選び出されていた!全て、永遠の中から語っていて、歴史線上になど語っていません。
2000年のイエシュアが来られる時まで、救いが有効ではない完全な許しがない、聖霊が人の内側に住まわない〜これらの教えは全て人間の肉の目から考えている、ローマのジーザスを語る
教えであり、イスラエルの神、ダビデの子孫ユダ族の約束のメシアイエシュアは、永遠の中に既に全てを完結、完了してこの世界を造り出したことを教えています。
だから、6日の間の神の言葉による、物理的な創造で全部が
完了!全て必要なものが揃って、欠けがない=シャローム状態になったので、感動、感極まる言葉、トーヴメオード!神が創造されたものは、神の意図通りピッタリ、最大限にピッタリ、これ以上もこれ以下でもない、神の意図通りがそのまま現れ出て、神がそう言われたのです。
そして、7日目には止まった!シャバット。
この中には、イエシュアの完了の業、人が必要な全てが完了、
完結しているのです。
神の教えは初めから、1つ。口頭で伝えられても、文字で書かれても同じ。シナイ山で文字で記された契約書=トラーが与えられる前には、神が選び出した人達を通して、神は同じトラーを口頭で伝えてきたのです。エデンの園から同じ!
神の創造された人間は進化、変化などしないからです。
新しい契約とは、同じモーセの五書=婚姻契約が再更新された契約であり、参加する人の状態、人数が違うだけ!!!その違いしかないのです。神の教え、契約の中身は、同じであり永遠普遍!その事実を、聖書からはっきり理解しない場合には、人の教えに騙されて、真実から逸れて行ってしまっているのです。
神の家族もエデンの園から同じ、1つの家族しかない。
同じ1つの家族が、イエシュアを通して神の元に取り戻され、
同じ生き方をする神の大家族のメンバーに加えられ続けて行く。
歴史の中で1つ家族に、救われた人々が加え続けられて行く事が記されているのです。
ユダヤ人とて、イエシュアを通して以外、誰も父のもとに来ることはできない!とイエシュアが言われた通りなのです。
肉の生まれがユダヤ人だから、自動的に贖い救いを受けるのではないのです。
どの人も、誰でも、神と個人的に出会う体験をするからです。
古代の残りの民は、イエシュア=メシアを知っていた事実が
モーセの五書、預言書、諸書にはっきりと至る所に書いてあるでしょう?メシアが、エデンの園の最初から教えられ、記されているからです。読者が読み取るか、読み取らないかの違いだけです。
同じ福音、同じ1つの家族、同じ救いの方法、その継続しか聖書には書かれていないのに、宗教思想で語るのは、聖書とは異なる新しい教えの契約書、新しい別々の家族=異邦人で仕切られる
群れ、それを教会と聖書にはない造語で話し続けるから、混乱しているのです。
「教会」と言う言葉は、異邦人が編み出した造語です。聖書には、神の群れを指している言葉で「教える会」という意味の言葉などは、ヘブライ語、ギリシャ語でも、ありません。便宜的に
仕方なく使っていますが、違う印象を与えてしまう造語です。
聖書の元の言葉を全く反映していない言葉だからです。
元の言葉は、カハール、ケヒラ(ヘブライ語)エクレシア(ギリシャ語)「呼び出された人々の群れ」という意味を持つ言葉で、
コル=声、神の声に呼び出された人、ユダヤ人でも異邦人でも
全て同じ1つの群れに加えられることが、聖書に書かれています。しかも、翻訳の反則が分かるのは、カハールやエクレシアを
創世記〜マラキでは、群れ、集会と訳し、福音書以降は同じ言葉を、教会と言い換えているのです。これ、新しいグループが出現したと信じさせたい人の思想で、変えた言葉で訳しているのです。別の言葉で訳したら、別物が出たと誤解して信じ込んでも
無理ないのです。そういう、ズルは、原典聖書ではできないけれど、翻訳ではできてしまうのです。神の言葉の真実、真相を人の思想や誤訳で覆い隠すのは簡単だからです。
デイスペンセーション神学が唱える、異邦人とユダヤ人の群れは別、別の教えを生きて、ユダヤ人は地上、クリスチャンは天で
永遠に分裂して治めるという、空想思想を編み出して、それを
信じているのです。聖書とは違う他の教えなど信じない!と思いながら、聖書とは違う教えを本気で信じられるものなのです。
教師にそう教えられれば、それが本当と思ってしまうからです。
しかも、異邦人はジーザスの花嫁、ユダヤ人は父の花嫁、
ここまで聖書から逸脱した空想が発展して、ズレた事を教えらてしまっているのですから、しかもその思想はユダヤ人でありながら、デイスペンセーション神学を信奉する人により語られてしまっているのです。今の世の中には、それほど、聖書ではない教えは、至る所に氾濫しているのです。
よく考えてみると分かります。16世紀まで、印刷機械などない
もちろん今のようにネットの世界もない。
世界は、口頭伝達の世界であり、個人が聖書を所有していない。書き記されたものと言えば、全て人による手書きのものだけです。そして、その書は多くない。西洋宗教の西洋思想の人に聖書とは違うことを、教師に教えられても分からない。いや今でも
何冊も聖書を個人が持っていても、聖書とは違う思想を教えられてしまえば、聖書に書かれている事実に盲目になるのです。
一般の異邦人はユダヤ人のように正しくトラーを代々学ぶなどという、教育環境が全くなかったのです。パウロが言った通りに。
今聖書が手元にあるのに、聖書に書いてあることを誤解しているから、聖書が書いてある意味通りには読まれていない、その大問題があるのです。
ユダヤ人の世界は、ヘブライ語で書かれた「トラー、預言書、
諸書」これら全て手書きで記したのです。英語ではスクライブと言いますが、翻訳で律法学者と翻訳されている人達は、ヘブライ語の聖書を、一字一句違えないで、手書きがする訓練を受けていたのです。とても、厳しい訓練です。単に文字が書けるという
レベルの話ではなく、彼らも聖書〜トラー、預言書、諸書を学び続け、熟知している学者であり、そしてそれを羊皮紙に、どのように書き記すかを学んでいた学者達なのです。神の言葉の中身、意味を知らないで、単純に、文字を書き記した人たちではないのです。
だから、トラーの一点一画でも、とイエシュアが言われたのは、
ヘブライ語の文字、点のような小さなものヨッド、そして飾り文字に至るまでの強調、天地が存続しているならば、神の言葉の
一点一画も変わらない!と言っているのです。神の言葉に人間が手をつけるなかれ!と警告しているのですが、人間は違反し続けて、神の言葉は古い、廃れたと言い続けている、イエシュアを信じならが、イエシュアご自身である言葉を否定しているのです。
大事に大事に神の言葉を元の言葉に忠実に書き写す作業。
翻訳の世界とは丸で違う。一文字も違わず、同じ言葉を記す。
文字数もピッタリ同じ。
元の聖書に書かれた通りを再現し続けるからです。神の奇跡で
神の言葉がそのままヘブライ聖書には保存され続けている。
そのような注意がない、神の言葉を軽んじるように平気で疑問にも思わず教え、勝手に神の言葉を変形する異邦人思想の世界と、神の言葉に対する意識、態度、姿勢が根本から違うのです。
続く
一点一画も廃らないという強調は、カンマのように見える点、
ヨッドのように一番小さい文字も、そして、文字の上に付いているトゲトゲに見える、このような飾り文字まで廃らない、神の
言葉が廃らない!とイエシュアが、強調をもって人に神の言葉が変わらないことを教えているのです。
