翻訳では本来の意味が埋もれて反映されない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書を、翻訳聖書だけを読んで、自分の今生きている世界の、

国の生活や文化の知識で読んでしまうと、聖書に記された内容を正しく把握するのは、困難です。

 

原典ヘブライ聖書、プラス、古代の当時の人たちが聞いて理解していた意味通りを知った上で聖書を読まないと、聖書に書かれている意味とは違う、誤解した解釈をしてしまう多くの箇所があるからです。

 

翻訳では、使われている言葉が表す、本来の意味が埋もれて見えてこない壁がある上に、そこに書かれて使われている「用語」が何を意味しているのか、始めから分からなければ、翻訳だけを

読んでいたら、自分の空想で、書いていない事とは別の読み込みしてしまうことになります。

 

「神はヤコブを愛して、エサウを憎んだ」と不可解な言葉が

書かれていますが、これは、ここに書かれている用語が、

「契約用語」であり、イスラエルの神が誰と契約を結んだかを

話している内容であることを知らなければ、あたかも神が、

ヤコブだけを愛して、エサウを憎んでいると書かれていると考えてしまう、理解不能な箇所です。

でも、神にはえこひいきなどないとありますから、この言葉の

意味する事が、翻訳聖書では、全く見えて来ないのです。

 

契約を結ぶとは、契約を結んだ相手に、神は大事なミッション、使命を与えている、その役割を執行する民を選び出したという

ことをまず覚えておくことが必要です。

神に言葉を預かった預言者たちは、自分の思想で、神の言葉を

変えたり、曲げたりしては絶対にならなのです。

 

聖書を記した預言者は、ユダヤ人です。福音書以降は、預言者ではなく、使徒が書いた書簡です。この事実を、ゆっくり考えてみてください。聖書は預言者=神の言葉を預かった人が、神が伝えた通りを、聖霊により書き記したものです。そして、その神の

言葉は、異邦人が解説するように、永遠に決して変化などしないと神は人に伝えています。

福音書以降は、預言者ではない「使徒達」が、預言者達が記した神の言葉=モーセの五書、預言書、諸書=タナックに対しての

短い解説をしているだけで、使徒達が、タナックに記されていない別の教えなど、もちろん1つも記していません。

つまり、PDFのように手を加えられないフィックス、固定されている、完全なる神の言葉=モーセの五書に記された教え、モーセの五書に対する、説明、解説が記されているのが、ヨシュア記〜マラキであり、タナックは、それで完全に閉じられた聖書です。

そして、その完全にフィックス、固定された聖書=タナックに

対する短い註解、解説が福音書〜黙示録なのです。

聖書に聖書と書いてあれば、それは100%、モーセの五書、

預言書、諸書=タナックのみを指して、語っているのです。

そして、聖書の最初の80%の預言者たちが記した内容を、

福音書以降では、短く説明、解説、註解しているものであり、

契約書ではありません。聖書の最初の80%の箇所に関する短い解説の部分が、聖書の最後の20%を占めるセクションです。

ルカは異邦人と言われていますが、全くの異邦人の背景とは異なる、両親のどちらかが、ユダヤ人であったようです。

 

そして、神から神の言葉を一字一句正しく書き記し、そして、

神の教え、福音、イエシュアを、全世界へ正しく伝える、その

任務を与えられたイスラエルは、自分だけが得する、良い思いをするためではなく、世界の全ての民に対して、神からの重い責任を背負ったことを意味しているのです。

最初に福音はユダヤ人により、世界へ伝えられたのです。

だから、イスラエル=長男は異邦人=弟妹よりも、より厳しい

訓練、より厳しい刈り取るべき結末を負わされているのです。

長男がコケたら、弟妹を全部違う方向へ導いてしまうからです。

事実、ヤコブ=イスラエルを神は選んだのです。神が契約を結んだ民は、全世界の中で、歴史の中で唯一イスラエルだけです。

そして、全世界の中で唯一イスラエルを選んで聖なる民とし、

神の宝の民とし、神の契約を受け継ぐ代表者としたと、書かれています。

その意味は、神は、同じ1つの婚姻契約を、世界の中のあちらこちらの複数の国、複数の国民、複数の民族と結んだのではないことを表しています。

そして、「全世界で唯一選び出した、聖なる民」は、異教神に

仕える異邦人のような生き方を出来ない!異教徒が生きるような

生き方をするなかれ!とはっきり境界線を敷いています。

それが、アヴラハムに与えられた割礼の意味の1つの意味でもあるのです。境界線が敷かれている。

神の聖別=神の目的、意図通りを生きることに分かたれている事を、神は人に、様々なことを通して教えています。それは日常の中で教えられる食生活でも、神のシャバットや記念日、それらは聖別された民の生き方の代表、聖別を教える代表の教えなのです。だから、イスラエルの国以外、世界中のどの国も民族も

国民全体で、それらイスラエルの神が教える神の聖別の教えを、異教徒のある国が、国全体で生きている人々は、世界の中に1つもない事でも、分かるでしょう。

神が伝えていることは、全て1つで、同じです。イスラエルの1つ神、イスラエルの神の1つ大家族、イスラエルという神の国、

1つ場所、1つ婚姻契約=トラーに、一致して生きる。

異邦人の作った宗教の教えは、神の民を分裂させ、神の教えを

歴史線上に解説して分断している教えなのです。

それは、聖書に記されている事とは異なる教えです。

そして、全世界の全ての民族は、この代表者である、長男、それはイエシュアを筆頭とした長子に連なり、同じイスラエルの大家族に加えられるという意味なのです。

 

そして、覚えておかなくてはならないのは、異邦人でも、ユダ族の獅子であるメシアを通して、イスラエルの神のもとに戻り、

イスラエルの神の国の1員にされイスラエルの木、羊の囲いに

加えられた人は、イスラエルの神との関係は、神が提示した婚姻契約を生きることが関係の根拠である!と神が伝えていることを忘れてはならないのです。

シナイ山で与えられた婚姻契約は、条件付きである事が、最初からはっきりと、神の口から伝えられています。

もしも〜という条件付きです。レビ記の中にも、「もし」あなたが神に近づきたいならばという、その個人が、神に近くあろうとしたいなら、という意味で「もしも」とあるのです。

人には、神とどう関わり生きるか、それは強制ではなく、選択権が与えられているからです。

条件付きとは、神が提示する婚姻契約を生きるなら、その状態で生きる時にあなたは守られて、フルに神が提供する祝福を楽しみ、喜び、神との関係の中に本来の性質通りに生きられます!

もし、神の伝える事とは違う、本来あなたが造られた性質に反して生きるなら、さまざまな困難が訪れます。これは、イスラエルの歴史を通して、教えられ語られている、神の教えなのです。

イスラエルの困難は、契約が存在するから、それに反する生き方をしたら、当然の事、目覚ましコールとしての警告〜困難が与えられます!と、神が最初から警告しているからです。

 

神の伝える生き方に反する事を行い続けるならば、雨が降らず、敵が侵入し、約束の地から吐き出され、異教の地に捕囚の民として、囚われて追い出されてしまいました。

 

そこまで、厳しい訓練を受けないと、自分たちがどのような、

危険な状態のまま生きているのかが、分からないから、敵に侵入され、約束の地から、追放されたのです。

イスラエルという国から、約束の民=イスラエルが追放された

期間、イスラエルは荒廃した場所になり、荒れ果てました。

マークトワインが、1867年にイスラエルの地を訪れた時、知らずとも、聖書に預言された言葉を語っています。

 

申命記29:22 後の代の人、すなわちあなたがたののちに起る

あなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。

29:23 ――全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、むかし主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。――

 

契約の中にある民の証拠、神が言われた通り、契約がイスラエルに対して永遠に有効であるから、神の性質に違反して生きる場合には、イスラエルには、多大な困難が押し寄せると神から警告されているからです。そこまでされないと、気が付かない程、ずれたからです。そして、それは何度も繰り返されます。

神の教えを捨て、異教の神々の習わしに染まり、神のシャバットや祭りを捨て、汚れた食べ物を取り入れ、その結果、疫病がイスラエルを襲って、多くの人が亡くなったのです。

 

出エジプト19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの

所有だからである。

もし、婚姻契約を生きることを放棄するならば、それは花嫁としての生き方を放棄することであり、神との関係に隔たりが生じて行ってしまうものだからです。本来の状態から、外れてズレてしまう。

贖われ救われたことは、無条件に与えられたことであり、その事実は、信仰により受け取るだけでした。

 

でも、花嫁とされた人は、花嫁となった、神のものとされた、

新しい命を頂いた以降は、神の国=大家族として生きる責任がある神が提示する婚姻契約の生きかたを生きることを、神に伝えられている、それを忘れさせるのが、神の教えは終了〜という、

異邦人が作った教えなのです。このからくりは、エデンの園の蛇の声と全く同質、同じものです。神の言葉を忘れさせる作戦!

 

神の婚姻契約を破棄、放棄、捨てるということは、神との関係の

根拠を否定、覆す、放棄して勝手に生きるという意味を、理解していないとならないのです。

神の教えは、神の救いや義を、神の前で認められる為に、やる、与えられていると勘違いしているのですが、まるで違います。

神の婚姻契約=トラーが与えられたのは、奴隷から贖い出された後の話なです!新しくされた人、神の者となった人達に与えられた神の教え!なのです。この点、ぼやけて、はっきり正しく理解していないのです。既に、義とされ、すすがれて罪許されて、

新しくされた人に与えられた神の教え、神の聖なる民としての生き方。それは、新しくされた人が生きられる教え、本来の性質=イエシュアの性質を生きる!と教えられているからです。

 

神に義とされた実態=新しくされた人は、神の義の性質通りを

生きる。それがモーセの五書に記された、神が人に伝えている

永遠普遍の、神の子らの性質を生きる生き方なのです。

 

ヤコブ=イスラエルが神が婚姻契約を交わした代表であり、

だから、置換神学、使徒2章以降、神は異邦人へ別の契約?を

渡し、昇天以降は、異邦人を神の契約を受け取った代表者になったという思想ですが、こんな思想は、聖書とは丸でずれた、人間の空想であることは、聖書を根拠にすれば、その真意をはっきり、見分けられる、識別することが出来ます。

新しい契約と書かれているのは、シナイ山で与えたトラー=婚姻契約=モーセの五書であり、中身が同じ契約が再更新され続けるだけであって、神の教え、契約の中身が別物になった契約書など、神は人に与えてなどいません。

現実に、福音書以降は契約書ではなく、最初の聖書の箇所、

モーセの五書、預言書、諸書=タナックの短い解説、註解に過ぎず、だから、聖書の20%しか占めていないのです。

そして、そこに書かれているのは、神の教えの全部は記されて

おらず、その理由は、最初の80%に完璧完全なる神の言葉が

既に書かれているから、同じ事を重複して書く必要などない、

タナックの短い引用や、抜粋が書かれているだけです。

最初の80%であるタナックを理解している上で、福音書以降は書かれているからです。そして、福音書以降には、最初の80%とは違う教えなど1つも書かれていない、最初の80%に記された内容を否定終了削除する教えも書かれていないのです。

 

この事実をクリスチャンの世界では、教えられず、福音書以降に

新しく最も優れた今まで与えられなかった別の教えが、初めて

イエシュア により教えられたのだと、考えているのです。

 

 

続く