聖霊は最初から人の内側に住っている 神が住まう場所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

小学生の頃の学校で友達同士が喧嘩すると、子供達がこんな

セリフを言っているのを聞きました。”俺のお兄ちゃんは5年生なんだぞ。偉いんだぞ” 詰まり、年上でなんでも知っていて権威があると威嚇してたのでしょうね。

何が言いたいかと言いますと、神の言葉は人間の権威を遥かに

超えた絶対的なものであるのです。言葉により人は造られた。

言葉=イエシュアにより人は造られた。全てのものはイエシュアを通して物理的に神の創造物として現れ出た。

 

それなのに、人間が神の権威の上に座り、神の言葉に物申す〜

神の言葉は2000年前に無意味になり終わりだとか廃れたとか呪いの律法厳しい教えを与えた怒りの神だとか、好き勝手放題に神の対して言い続けて、1900年間!神の伝える真実ではなく、異邦人先人達のズレた思想の教えを言い続けているのに、何も気が付かない無感覚。聖書を教える人の口から聖書の記述に真っ向から反する教えが語られ続けている事、神が語る永遠不変の神の言葉の真実に気が付いたら耐えられない驚愕なのです。

クリスチャンも進化論を創造の神に出会ったら嘘!と分かるで

しょう?聖書の記述から。それと全く同じことなのです。

だからヨハネの黙示録に”あなたは初めの愛=モーセの五書=

父の教え=トラー=婚姻契約”から離れた!と書いてあるのです。

その通りでしょう!どうして神の言葉を捨てる事が正義!などと考え続けているの?と考えてみたら良いのです。

その教えは、聖書の記述に照らし合わせたら堪え難い冒涜思想である事は明らかです。

 

ダービー思想=神の言葉終わりありきで全てを語る、これは

1世紀後半以降から出てきた異邦人教父達の考え出した反モーセの五書の思想と共通しているのですが、神の言葉終わりありきで聖書を語るから、永遠不変の神の言葉とはズレた解説をし続けているのです。

16世紀にカトリックからプロテスタントが生まれた宗教改革が

ありましたが、この改革、完全に神の言葉の真実に戻る事などなかったものなのです。カトリックが作った95の聖書とは異なる

人の考え付いた教えに対してルターは物申す事をした事が発端でした。

詰まり、ヘブライ聖書=タナックを、パウロの様な正しい教師に学ぶことがなかった人たちが勝手に考えついた、律法の行い=

伝統の教え=先祖の言い伝えと全く同じ=人の編み出した教え、伝統で語り継がれた聖書では無い教えに反対したのでしょう。

 

結婚は神が創造されたものなのに、その結婚を人間が禁じた。

これ聖書に記された神の教えじゃないとどうして聖書から聖職者と言う人が気が付かないのでしょう?パウロの書簡を誤解して

読み違えているからでしょう?パウロ自身、偽教師の偽の教え〜結婚を禁じ、食べて良い食べ物を断つ様に教える事=グノーシス主義の教えは偽教師の教え悪霊!と書いていますよね。

なのに、独身じゃないと神に仕えられないなど、神が言っても

無いことを言ってずっと実践しているのです。

神殿に仕える祭司は妻を持っていましたし、祭司はどんな女性と結婚するのか、モーセの五書に記されています。地域の群れ=

カハール、エクレシアの長老は重婚をしている様な人ではダメ!など色々書いてありますよね。

神のデザインに反することを教える〜偽教師の教えとパウロが

言っている意味が読み取れていないのです。

 

ルターも結局反モーセ思想!人生の最後は悪魔に身を売り果たし

反ユダヤ思想を書物に書いてヒットラーの教科書となる、ユダヤ人殲滅思想を書いてしまいました。ひど!クリスチャンの間では

その様な汚点は語られること、知られることはありません。

問題の土台を根こそぎ捨てない限り、結局人の思想の宗教〜神の言葉を否定ありきでかたるズレた思想は止まらないのです。

ルターは創世記12:3を理解していませんでした。そうでしょう。神の古い教えは廃れた〜と考えるなら、創世記〜マラキに

書かれたことなどその様な思想を持つ人には無意味、神の永遠の教えは今日も頭上の上を素通りしているのです。

 

救いが2000年前に初めて出現したと言う人間思想は聖書では

無いことは、神の言葉の中で知ることが出来ます。

 

言葉=神=イエシュア=肉体を取って来られたトラーだと

異邦人にはその様な理解がありません。ヨハネが神=言葉と書いている意味を理解していたら、神の言葉の一点一画否定する思想

教えは、神の教えではないと聖書から気がつけるはずだからです。神の言葉に敵対、反する、削除、無用と言う、これはイエシュアに対して、無用!と言っているのと同じです。

 

ダービー思想がいかに非聖書的な教えなのか、聖書の記述から

証明出来ます。2000年前まで救いがない聖霊が人の中に住まわない、人が新しくされて義とされないなど???

ではどうしてアヴラハムの信仰義人が創世記に書かれているの?

どうしてノアは背教の時代に神の教え=トラーを知り義とされて義を生きいてたの?

疑問に思って!それ以前のエデンの園のアダムとハワは、神が

屠られた動物の毛皮で裸を覆われたこと、その意味が何か読み取れないから、2000年前に突然救いが与えられたと考える。全ては永遠の中に完結し、存在している救い=イエシュア であることが聖書に書かれているのに読み取っていないだけです。

 

もしも私が最初からヘブライ聖書を教えられ、西洋宗教=ダービー思想など刷り込まれなかったら、1世紀当時イエシュア やパウロに教えられた人達の様に聖書を理解していたのは間違い無い

事実なのです。

私たちの中で、1世紀のイエシュアが地上に居られた時以外の人で、誰も肉眼でイエシュアを見て触れた人はいませんよね。

過去も今も!!!しかも、弟子たちでさえ、復活のイエシュアを認識出来なかったでしょう。今ここにイエシュアが現れても

それだけでは分からない。

ではどうして私たちは神を知ることが出来るのですか?

そうです。神の言葉です!!!!!言葉=イエシュアだからです。クリスチャンがこの世界が神により造られた事を確信して

知ったのは創世記の記述を聞いた、読んだからでしょう?

人は漠然と神が居ると思うのは、神のDNAが搭載されているから

神が創造された世界を観察すれば、神が存在していると分かる。

でもその確信、根拠になるのは神の言葉でしょう?

目に見えない神を神の言葉を通して知る様に最初から神がデザインしているのに、その神を知る手がかりを異邦人は捨てる様に

絶賛奨励している、神の教え、言葉聖書に反したとんでもなく

馬鹿げた事を言い続けているのです。誰の手先になってるのか

考えたら見えます。

さて、2000年前に初めてイエシュアが地上に来られて、神が人の中に住むことが始まったのではない、使徒2章のシャヴオートの祭りで初めて聖霊が人の中に降ってきたのではない。

大体シャヴオート(ペンテコステ)の祭りは、何を祝う祭りだと考えていますか?

この祭りは神の祭り記念日=レビ記23章を全部丸ごと祝って

祝う祭りであると気が付いていますか?

神の祭りはどれか1つだけ取り出して祝う性質ではないのです。

1つの曲を曲の途中の数小節だけ演奏してもそれは完全に1つの曲として意味が見えない、完全な形で演奏されていないのと同じ事なのです。全部繋がっているのです。

それは福音をイエシュアの業を表すものだからです。

このシャヴオートの祭りは、クリスチャンの間で捨て去られている神の婚姻契約モーセの五書を受け取ったことを喜び祝う

神の花嫁とされたことを祝う記念日であると知っていますか?

聖霊降臨祭などと聖書にも無いタイトルを付けられていますが、

そのタイトル偽証でしょう。神は最初から人の中に住まわれているインマニュエル=我らと共に住まう神とクリスチャンも言っていませんか?

全部間違った概念を1つ1つ正して行けば聖書の真実が見えてきます。

神が人の中に住まわれることを物理的に表していることがあります。移動式神殿です。ミシュカンと言います。

シャハン=住まうと言う言葉から来ています。

幕屋と訳されていますが、この”幕屋”と言うことばである教団?

グループの思想と重なるのを避けるため、元の言葉にします。

英語でテントと言います。

しかも、このミシュカン、何と呼ばれているか、書いてあります。翻訳でも。会見の天幕と。

オヘル モエドと言うヘブライ語。

オヘル〜テント、モエド〜この言葉会見ですが、創世記の最初に

出てくる言葉です!季節と訳されている、天の万象が創造されたのは、神の定めの時〜モアデイム(複数)会見をするために

子らを呼び出す時=それを季節と訳しているのです。

すごい事が書いてあるのです。

神が私達と出会う場所!特別な出会いをする特別に定められた時聖日、祝い日の事。それはどこで?神の家、神の宮。

 

これが何を表しているのかもう本当に神の言葉を発見すると

ワクワクします!私たちの全ての細胞存在は神に直結し賛美したいその様に造られているのです。

さて、このシャバットは出エジプト25:1−27:19まで

ハフタラー〜締め括りという意味で、トラーに関連した箇所を

預言書、諸書から読むのです。 1 列王記 5:26 –6:13

この箇所はミシュカンに関して語られている箇所です。

 

神はどうして神の家を地上に於いて人に作らせたのでしょう?

人の手を通して。クリスチャンも自分は神の宮、聖霊の宮、天の祭司と言うでしょう?どう言う意味だと思いますか?

 

出エジプト25:8 また、彼らにわたしのために聖所=ミクダシュを造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。

25:9 すべてあなたに示すミシュカンの型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。

 

全部貼り付けられませんが、このミシュカンを作る寸法材料

全てに意味がある!!のです。

 

ミシュカンは何の為に与えられたのでしょう。目に見えない実際天に実在する神の家、神の臨在が人の内側に住まう、イエシュアが人と共に住まう事を神の家を通して教えているのです。

このミシュカンがイエシュアであり、私達でもあるのです。

神がミシュカンの中に住まう事で、人の中に住まう事実を最初から教えているのです。どうして神の性質とは異なるものを神の家

宮の中に持ち込めないのか、これが分かれば理解出来ます。

 

聖書には、ずっと神のミシュカン、神殿を中心に神と会見する事が最初から書かれています。

このミシュカンとは何を表しているのか見ます。

このミシュカンの中に置かれる1つ1つの物、色、寸法全て意味があります。

たくさんありますが、今は”神の宮”と言う意味が何かイエシュアと人、両方に表されています。

人は神に息を吹き入れられて生きるものとなったとあります。

”ネシュマ”とありますが、文字通り息を吸う、吐くと言う意味の

言葉です。そして、息は他の言葉で”ルアフ”と言い、これは、風、霊と言う意味のある言葉です。

 

人は、神の性質〜霊を吹き入れられて生きるものになりました。

全てのものはイエシュア=言葉を通して物理的にこの世界に出現しました。

聖書の最初から至る所に、神が人の中に存在する事実が書かかれて居ます。

パウロも主に”在りて”と頻繁に使い、イエシュアも同様に解説しています。

イェシュアやパウロは、このミシュカンの中で霊的に表されているシンボル=様々なもの、材料、色、寸法などを通して表されている、ミシュカン用語で話しているのです。

だから、命のパン、世の光、きよめ、神との会話、etc etc etc

この地上のミシュカンで教えられた事の内容を語っているのです。

ミシュカンの中にある様々なものを1つ1つ学ぶと、全てイエシュアを表し、私達自信を表し、私達と神の関わり、関係を教えている事が分かります。

だから、2000年前に初めて聖霊が人のうちに住んだとか、

初めて許し、贖い、救いが与えられたと言う教えが聖書と真逆の

思想であること、聖書に記述された事から明らかに証明できるのです。

先ず、ミシュカンの周りを覆っている幕に関してです。

 

続く