キリストの律法、自由の律法、聖霊の律法、恵の律法などと
クリスチャンの教師やパスターが解説する、その律法なるもの、
ヘブライ語の本来の言葉は、神の教え=契約の中身は、1000%モーセの五書である事を、上の言葉を使って表現し解説する人がその中身がなんであるのかを全く理解していないのです。
ある人は、新約聖書と言い、ある人はそれぞれの心に記された教えと言う、それ自体が意味不明な漠然とした想像を語るのです。
キリストの律法=愛?愛とは、神の定義によれば、モーセの五書
に記された生き方=愛=アハヴァなのです。それ以外、別の愛の
生き方など記されていません。聖霊を受けた人が、神の性質通りを個人、共同体が生きる=それが聖書が説明する愛であり、個人個人思い付きの基準のない教えを生きるなんて意味はゼロです。
しかも、譲渡契約〜神が提示する恵みで与えられた子羊の血の贖いを受けた人達は、神との関係に入る。その根拠は、神が提示する婚姻契約=はじめの愛=トラー=モーセの五書に記された生き方を生きると言うことに基づいている事に、クリスチャンは全く気がついてないのです。
知らなくても、同じ婚姻契約に加えられ、神が伝える生き方を
イスラエルの1大家族の共同体は生きる〜地の塩、世の光として
聖別された人々の生き方をどの場所に居ても、生きて人に伝える
役割が与えられているのです。その婚姻契約に生きることは
条件付きです。あなたが違反して、神の教えを無視するならば
隔たりが出来る、神との距離が出来る、違反する生き方をするならば、共同体から断たれる<地獄行きなんて言う意味ではありません>どうして?他者へ悪影響を与えて、神の聖別を破壊するからです。普通の人の世界でも、違反する行為を行えば、隔離
隔たりの場所に追いやられ、仲間から外されるでしょう。同じです。神の教えを知らなければ、知らないままに、神の前に罪
ズレた生き方をしても全く気が付けないまま人生を行きます。
そして神の教えにモーセの五書とは別物が存在していると、空想している自体が、完全に非聖書的な教えであるのに、その事にも全く気が付いてないのです。新しい教えがある?と思っているでしょう。新約聖書以降には、モーセの五書を否定した新しい教えが記されていると考えているでしょう?そんなもの1つも、聖書のどの箇所にもモーセの五書に反する内容など記されてません!
そして、大体神の言葉に対して、イエシュアを信じる人が敵対心を持たされている事自体が異常事態なのです。神に対して敵対心などありません!と思うでしょう?露骨にそんな事は言わない。いや、言っているけれど。神が古い縄目=律法を取り去って下さったから〜????神=言葉=イエシュア=聖霊。
律法と言う言葉もやめないとなりません。不適切な翻訳。
聖霊に導かれてと言うなら、神の言葉=聖霊に根拠にある導かれ方をするのです。神の言葉は無用?イコール聖霊を取り去れと神は言うの?全部聖書に照らし合わせれば辻褄の合わない教えです。
ではどうして、神の言葉のどの箇所に対しても、呪いの縛りの
律法、神は人が生きれない律法を、神は古代はイスラエルに与えて試していたなどと言う、聖書の真実ではない、人が考えた教えを、クリスチャンは神の教えだと信じて述べているのでしょうか?聖書に書かれている事が、はっきり見えないからです。
そんな酷いイスラエルの神を想像し、考えているのですか?
それ神が伝える、神の性質、事実ではない。
神は人の命を守る婚姻契約を与えたのに、それが呪いの縛りの
律法だと言う人は、神の教えがどれほど愛に満ちているのか知らないからそんな事を言っているだけなのです。そうですよね。
もし、モーセの五書が終わり!と言うならば、その言葉の意味は
婚姻契約破棄!と言う意味です。神は契約を破棄しません。
花嫁=異邦人の側が花婿が提示している婚姻契約の生き方を放棄している!と気が付いていないまま、神の教えを捨て去っているのです。
要らない終わりの部分は学ばない、教えられない、知ろうともしないから、分からないのです。詩篇や箴言は、モーセの五書の
知恵が生きる事が書かれていると知っていますか?それらは呪いの律法だなどと誰も考えないでしょう?
白ヤギさんと黒ヤギさんのお手紙交換!!読まないから何が
書いてあるのか、分からないから、何が書いてあるのか教えて?
と言う永遠に神の教えの中身が分からない、お手紙交換。笑
神は人に、神の言葉を取って食べよ!寝ても覚めても何していても常に神のトラーを思い巡らせて!命の木=トラーをしっかり握り生きよ!と教えているでしょう?
どうして逆を教えるの?その声の本当の出所はエデンの園に
居た、神の言葉を分からなくさせ、撹乱させるサタンです。
その様な教えは全て不真実で不可解な思想、人間が思いついた
間違った聖書解説なのです。聖書ではない。
呪いの律法から解放するためにキリストが来られた?
イエシュア=聖霊=トラーと神が教えているのに。完全に変。
聖書とは辻褄合わない、相反する思想。
イエシュアから解放するためにイエシュアが来られた?
まさか!!!イエシュアは何と言われましたか?
マタイ5章で、トラー=父の教え、、モーセの五書を正しく理解し、意図通りに生きる事を教えに来たと言っているのですよ。
成就とは、終わりなんて意味などではありません!!!
しかもモーセの五書を終わらせるのだ〜なんて。
これ全部パウロの書簡に書かれた事を誤解しているからです。
その箇所をちゃんと読んだら、すべて、まったく、全部辻褄合わない事が分かるでしょう?
マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
ここは何度も書いていますが、”破棄” ”成就”とセットになっている言葉は、当時のラビ達が使った慣用句です。そのままの意味
でも、廃止しない、成就〜完全なものになる、終わりなんて意味
は1つもないのに、クリスチャンの世界では、成就=終わりなどと、このギリシャ語が表す言葉を勘違いして解釈をしています。
廃止しない、成就〜廃止すると勝手に解説してるでしょう?
めちゃくちゃな解説でしょう?廃止しないと言って、廃止=成就する?もうこんなインチキ解説が良くも長年浸透し、異邦人が
何も異議申し立てしないのは、人造神学=神の言葉は廃れたと言う思想の目隠しによるものです。
しかもこの箇所を読み進んで行くと、成就〜終わりなんて意味では絶対に無い事は、文脈からでも分かるのです。
大体、異教徒思想=イスラエルの神の言葉が終わるなどと言う、
異邦人発想の思想を通して聖書を読む、神の言葉を破壊、分解して良いなどと考える場合には、神の言葉をどの様にも変形、分解そして別の教えを創作出来てしまうのです。神が神の言葉に付け足し、差し引きするなかれと言うその仰せに対して人間が違反しているのです。
廃する<破壊する>トラーに記された事を正しく語らない、
<成就>〜フルに正しく語る、生きる
パウロもこの箇所と同じ事を教えていますが、クリスチャンは
その箇所を完全に誤解しているのです。
ローマ10:4
キリストはトラーの目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
新共同訳の翻訳は、本来の意味を反映しています。キリストが
全ての人に対してトラーをどう生きるかの手本を示した=イエシュアが生きられた生き方がトラーの目標であり、基準であると
パウロが言っているのです。マタイ5:17
他の翻訳では、キリストが律法を終わらせたなどと言う、不適切
且つ、書いてある意味を全く正しく反映しない翻訳がされているのです。翻訳はこう言う場合に本当にくせもの、別物になるのです。
この様な欠陥のある翻訳を頼りにして考えても、聖書に書いてある本当の意味は見えませんが、言語に戻り、そして人の思想=
神の言葉は廃れた、終わったなどと言う思想を100%削除、一掃すれば、何が書いてあるのか?とその先の真実の探求に入れます。
イエシュアがトラーに記されている事を、当時のユダヤ人達の間に存在した、口頭トラー=人間の教えの解説では、神の言葉を破棄している〜詰まり、神の意図通りを解説して、実際に生きていない、そうではなく、天直送のモーセの五書の解説=神の意図した通りをイエシュアは語り、生きて解説すると言っているのです。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
強調です。天地が今滅びていますか?昇天以降天地は滅びましたか?預言書に記された未来の再臨や、全ての人が頭脳に記されたトラーを生きる時も来ていないですし、未だ全てが地上で成就していないでしょう。神の言葉は変わらない、廃らない。
次は、極め付けの宣言です。もし、イエシュアがトラーを廃止しろ、終了であると、前の2節で解説しているなら、次の19節は丸で辻褄の合わない宣言になると分かるでしょう?普通に読めば。神の教え=トラー=モーセの五書の戒めに関して話しているのです。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
あなたはどちらを選びますか?死と命。
西洋宗教=人が作った教えは、神の戒めを破る様に教えているでしょう。どう言う思考回路?神とぴったり一致していない、思考回路です。なんと言う酷い神に敵対する教えと分かりませんか?
神の言葉に敵対する、イコール神ご自身に敵対する行為だと、理解していない、分からないから言える、やれるのです。
この事実にどうして無感覚になれるのか、次から解説したいと思います。
全部は人の教えで神の語る言葉が目隠しされてしまっているからです。デイスペンセーション神学、エラー、誤りだらけの聖書に対する間違った聖書解説が19世紀にダービーと言うイギリス人により作られたのです。それ以前から1世紀後半以降から、既に神の言葉=トラー=婚姻契約=モーセの五書を否定する、反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ西洋人達によりその様な教えが作り続けられて、伝達され続け、ローマ教となり、それが今に至るまで、続いているからです。
律法の下にはいないと言う言葉の意味は、神の教えの下と言う意味ではなく、トラーに記された罪の縄目の法則=ノモス=律法と訳していますが、罪の法則の下にはいない!!と書いてあるのです。
神の恵みの下=罪から解放され、神のトラー=教えを神の似姿の性質通りに正しく生きる事に戻された!この言葉を完全に誤解して読んでいるから、あたかも、神の古い教え=律法から解放されて、今は恵の下にいるのだ〜などと、早合点の誤解を信じているのです。おかしいですよね。どうして神の言葉の下にいないの?
どうやって神に教えられ導かれるのですか?聖霊?聖霊=神の言葉であると書いてあるでしょう。何に照らし合わせて、何を基準に生きよと神は聖書に記していますか?聖書に立って、正しく考えないとならないのです。
それでは、聖霊=神の言葉であるのに、自分の内側に住んでいる
聖霊は、モーセの五書=トラーとぴったり100%合意している
イエシュア=神なのに、辻褄合わない、内部分裂を引き起こしてしまいます。
神を愛すると言いながら、神の言葉は廃れた呪いの律法などと
神に対する罪、敵対の心情を持ち、何も考えずに、人が考えた
教えを、気が付かないまま言っているのです。
廃れた呪いの縛り付けの神の教え?それがその人のイスラエルの神に対する意識のバロメーターなのです。神を誤解して、隔たりを作ってしまっている。
神を愛する人は、神の仰せ=トラーを愛して生きるとイエシュア が言われたトラーの教えと、真逆な、まるでエデンの園のサタンの声。神の言葉をないがしろにして勝利だ〜などと言っている。
人が神の言葉から離れる。鎧兜、安全な囲い、安全なシートベルトを破壊して、敵の教えを招き入れる。簡単に分かります。
私は、神に何を食べたらダメと言われたのか本当に理解していたら、こんな汚いものなんて食べたくもなかった。その事で汚れたものを取り入れて、病気にもなり、感染症にもなり、他の人にも
移し、神の宮である自分の聖別を汚す、神が忌み嫌う事をしててもま〜るで気が付きませんでした。本当の事を知るとは、自分の身と他者を守る事なのです。神の教えを律法なんて言っている声は、偽の神像を人に刷り込み、神が愛を持って伝える真実を拒絶し、自分を破壊する生き方を取り込む愚かで知恵のない生き方です。事実に基づいて考えれば分かります。
続く