神の言葉を分断させて、イスラエルと異邦人には2つ別の教えが存在すると思い込まされていますが、聖書の最初と最後、全部の箇所は全て同じ事、同じ福音、同じ救いの方法、同じ教えしか書かれていません。
もし神の人格が怒りから恵へ、神の言葉が律法から恵へ変わると言うならば、聖書の最初の75%の部分にそれが記されていないとなりませんが、書かれていません。そんなのは、イスラエルの神の性質とは異なる、異邦人の空想でしかないのです。
ファンタジーの空想、幻想、おとぎ話の世界。
聖書=神の言葉が変化したと言う教えは、最初の部分をくつがえしてしまう聖書とは辻褄の合わない教えです。
モーセの五書が無効なら、未来預言も全て意味不明、無効になってしまいます。人と神の関係を土台保証する、婚姻契約は吹き飛びましたと言う事です。神の言葉の土台=モーセの五書を破壊すれば、その後の聖書の全部がボロボロに崩壊します。人の作った教え、神の言葉を否定する教えは、1世紀後半以降の異邦人教師の教え=反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ人の教えは、聖書とは異なる、神の教えに敵対する教えなのです。
聖書に基づきそれらの罪が何なのか全く理解しな人々。なぜ?
トラー=モーセの五書を無効とする人達は、勝手に神が伝える罪の定義を無効!としているから、何が神の前に罪なのか、その
永遠の定義さえ、無効と考える愚かな行為をしているからです。
危ないです。本当に。。。神を愛すると言いながら、分からないまま神に敵対する教えを人にも伝え、自分もする。
それは誰の思惑なのか、考えたら分かるはずです。神に敵対するものとあるでしょう。それがサタンと言う言葉の意味なのです。神の言葉に敵対するもの。サタンしかいない。いつか神と顔と顔を合わせて会う時に、”あなたの言葉を捨てて生きる様に人に教えました!”なんて本当に言うつもりなのですか?
進化論のミッシングリンクと同じです。創世記~マラキまでの
間に、変化する神、移りゆく神、恵と律法などと対立させている
教えは1つもありません。異邦人に与えられる新しい別の契約の事も記されていません。律法なんて本当は使うべき言葉ではないので、その言葉を直すだけで、聖書とは辻褄合わないと分かるでしょう。律法=トラー=神の教え、インストラクションです。
恵と神の教え、インストラクションがどうして対立するのですか?神の言葉=聖霊である事を知らないからです。タナックに
そしてヨハネも解説しているでしょう。神=言葉。正しく考えたら、あれ?と疑問が浮かぶはずです。
神の言葉、教えは完全、人を生かすものと神が伝えているのに
神の言葉は恵みに反した生き方を教えるものだ?聖書のどこに
そんな事が書かれているのでしょうか?
創世記~マラキの中で、神が変化したり、神の約束がメシアが
現れたら変化しますとか、メシアが来る迄は怒りの神が居て、
メシアが来られたら恵の神に変身するなんて、聖書のどこに書いてありますか?書いてないでしょう。考えれば考える程、その神像は、マンガの世界、人の考え付いた作り話なのです。
神は永遠から永遠に恵憐れみ深く、愛に許しに富む神とご自身で紹介しているのに、人間の教えが神の言われた言葉をかき消して神が伝える永遠の真実を見えない様に妨害する敵に加担していると気が付いたら良いのです。
サタンが攻撃する場所は何?神の言葉でしょう?神の言葉を疑わせ、違うものに変身させる、それがサタンの手口。
神の言葉は神ご自信=神に直結する力の源だからです。
どうして福音書以降の教えが変化するなどと考えているのか?
そんな事聖書には書いてないのです。聖書の最初にも預言されていない。
クリスチャンが神の言葉が、神の人格が変わったなどと解説
する箇所は、全て福音書以降、得にパウロの書簡からです。
完全にパウロが書いている意味から逸脱し、間違った読み込み、間違った聖書の解説をしているのです。
パウロが使っている様々な言葉を誤解、混線し、そして1世紀当時の人々の間にあった言葉、慣用句を知らないまま、人造の教え=律法の行い、先祖の言い伝え、伝統の教えを、神のトラー=モーセの五書だと勘違いしていたり、イエシュアが一部のトラー教師との議論を、モーセの五書を塗り変える教えの議論をしているのだなどと、完全に勘違いしているのです。
マルコ7章、マタイ5章など。
パウロが、割礼=ユダヤ人に改宗する儀式の事を話している箇所や、その他諸々、全部クリスチャンの解説者が、神のトラーが
終わった証拠だとしている箇所は、全部同じ箇所であり、その
解説をする全員がパウロが書いている内容、意味を正しく捉えないで、人造神学の教えを通して不正確な解説をしているのです。
その箇所を通して、これが神が変化した、契約が変化した、神の教えが変化した証拠などと言っているのですが、それら100%
全部、誤解、非聖書的解説をしたまま、気が付いてないだけなのです。
パウロの書いた内容を誤解し、プラス、パウロと言う人物が何者であるのか、完全に誤解しているのです。パウロが亡くなる迄
100%モーセの五書に忠実に生きて、パリサイ派に属していた事をクリスチャンは知らないと思います。しかもユダヤ人で、神の教え=トラー=モーセの五書を否定すると言うならば、それは
完全に偽教師の認定を永遠に貼られると言う事に気がついていますか????そんな人は諸外国へトラーを教える任務や聖書となる書簡を書く役割など神から許される訳がないのです。
イエシュアもパリサイ派の流儀でトラーを教え、祭りもパリサイ派の流儀で祝っていたのです。パリサイ派=悪い偽善者などと
クリスチャンは完全に勘違いしているからです。
本当に誤解のオンパレードを聞かされ続けているのです。
異邦人が偽物のパウロ像を紹介しているのです。パウロ=神の言葉=モーセの五書を否定した新しい教えをした人と信じていませんか?では使徒21章のパウロのナジル人の請願を神殿で果たした証拠は、それはどう説明するのですか?
パウロは、当時のユダヤ人イエシュア信者達、皆がトラーに熱心な人達の間で、もしかして、パウロはトラーに反する教えをしているのではないか?と疑われていた事が書かれているでしょう。
1世紀当時、イエシュアの信者は、トラーに熱心に忠実に生きていたと言う事も把握する必要があります。誰一人西洋宗教の教えなど考えもしないし、そんな神の言葉を否定する教えは聖書だとも思わない人達なのです。そしてこんな教えを考え付いてはなりません!
彼らは、新しい教えに移行するまで、古いモーセの五書を生きていたのだ!など。聖書には、どの箇所もモーセの五書の教え以外は書かれていないと言う永遠の事実に先ず、聖書から気がつけば、真相は見えて来ます。
その巷の嘘の噂をパウロは払拭するために、神殿でナジル人の
誓いを通して100%パウロはモーセの五書=トラー=婚姻契約=父の教えに忠実であり、モーセの五書に反する教えを人に教えたり、自分もモーセの五書に反する生きかたなどしていません!と証明しているでしょう?その様な記述をクリスチャンは丸で
捉えないまま、素通り、いや全然気がつかないまま、勝手なパウロ像を唱え続けているのです。聖書には書いていない教えを人に伝えてはならないのです。パウロがトラーに反する事を教える
生きるとは、死に値する罪に匹敵するのです。
それではパウロは神の前に犯罪者であるとでっち上げているのです。パウロは嘘つき、ペテン師????
クリスチャンは救いを受けた後、イスラエル同様、婚姻契約書を神から与えられ、神との関係はこの婚姻契約=トラーに生きると言う同意のもとに成り立っているなどと微塵にも考えた事がないと思います。契約の意味を教えられないから、分からないのです。そして、婚姻契約は廃れた、又はイスラエルだけのものなどと非聖書的教えを解説されてしまっているからです。知らないだけ、気が付いていないだけで、人がイエシュアの業を信仰を通して受け取り、恵で義とされたら、その人達はもれなく、100%婚姻契約=シナイ山で与えられた、同じイスラエルの神の大家族として生きる事に加えられたと言う聖書に記されている事実があり、同じ契約の中にイスラエルと共に異邦人は加えられているのです。だから異邦人用の別の契約や別の教えなど存在していないのです。神が造られた世界には。
その婚姻契約の生き方を拒否する場合には、死を選ぶと言う事になると神は伝えているのです。死、地獄行きなんて宗教の教えを考える人には分からないと思いますが、死=神との隔たりが出来る、祝福を喜び楽しみフルに受け取る事が出来ない、神が伝える生き方に反する場合、家族の中に破壊、傷、分裂、汚れ、聖別を破る事を取り込んでしまう。混ざり物の宗教の教えを生きて、
本物を生きられなくなる=高きところの礼拝、様々な事不具合が起きるのです。
メシアが来られて、新しい契約が与えられる!と言う事も完全に勘違い、誤解しています。同じ契約が何度も更新され続けるだけです。その契約の中身はユダヤ人にも異邦人にも同じ!シナイ山で与えられた婚姻契約=はじめの愛=モーセの五書=トラー=父の教えなのです。
クリスチャンは中身が別物の新しい教え、契約、エレミヤ31章を根拠に与えられたと考えてるでしょう?そんな事聖書には1つも記されていません!
天に月を見る様に、同じ月が出る、新月から満月へ。
新しい=再更新されると言う意味でヘブライ語では書かれているのです。だから新月を祝う事を神は人に教えているのです。
しかも、クリスチャンが新しい契約=心(頭脳)に刻まれる
契約が昇天以降与えられるのだと言っている、エレミヤ31章の
契約は、異邦人への別の契約などではありません!ちゃんと書いてある通りに読まないとなりません!
これで、異邦人へ与えられた新しい契約が存在しない証拠になりますし、新しい契約とエレミヤが話しているのは、モーセの五書シナイ山で与えられた婚姻契約書の事なのです。
クリスチャンの盲点は、同じ婚姻契約に生きる事に、信仰により
救われた後は、招かれていると言う事実が見えていない事なのです。福音書〜黙示録=新しい別物の契約書ではありません!
イエシュアが弟子たちに言われた、新しい契約とは、エレミヤ31章の、モーセの五書=シナイ山での婚姻契約の再更新、これは
頭脳にトラーが刻まれた人達が生きる新しく更新された契約=
同じモーセの五書、生き方が違うのは、聖霊を受けて、神の教えを理解して生きる人々だからです。違いが分かりますか?
この婚姻契約=神が伝える生き方を選ぶ事は、個人選択ですが、
もし神が伝える教えを生きる事を拒否する場合、捨てる場合、
無効と言い捨て去り考えもしない場合は、神のみ旨とは違う、別物の生き方を生きる事を選択し、婚姻関係にある命の姿に責任を持って、地の塩世の光としてあなたの契約の命の生き方をガードしませんと言う放棄をしている事に気がついたら良いのです。
神の家に加わる人は、神が提示する愛の詳細を生きる!と神が
教えているのです。
ここ、そこあれだけ、自分が納得、認める事だけを神の言葉
教えとして生きるなどと言うものではないのです。神が神の言葉の性質を伝えているでしょう。丸ごとで完全でシャローム。
交響曲も全楽章奏でて1つの曲。小曲でも、全部演奏して1つの
曲。クリスチャンの教えは、ほんの数小節奏でて、それが神の
教えで完全だと思っているのです。はっきり言って、福音書以降には、モーセの五書のほんの短い抜粋しか書かれていませんから人の生き方の本質に少々触れる事は出来ますが、そこだけ読んでも神が何を教えているのかの全部は見えません。聖書のたった25%だけの箇所なんですよ。そこは最後の後書き。最初の75%に全部必要な事が完全版として記されているのです。モーセの五書は神の教えの完全版であり、ヨシュア記以降は100%全部
モーセの五書の解説なのです。
福音書以降には、罪の詳細の全部は書かれていませんから、知らない間に神の前に罪である事を生きていても、全く気が付けません。最初を読まなければ、神が教えている事など分からない。
罪とは、何も道徳的な事と人が考える事とは異なるのです。
どうして、シャバットを汚したら死に値するほど重たい罪と神が人に伝えているのか、どうしてそこまで重要なのか?神が伝える意味を理解しない場合には分からないのです。神の言葉を捨てる人にはまるで理解できない世界を神が神の子らに伝えているからです。自分の空想で聖書を考えても見えない。聖書は最初の部分に全部必要な教えが書かれているから、そこを読まないと分からない様になっているのです。
教科書の上中下巻を知らないで、上中下の後書き解説だけ読んでもよく分からないのと同じ事をしてしまっているのです。
なぜなら、神の言葉は全部揃って調和し、人が安全に守られ
エデン=喜びの状態でシャローム=欠けがない姿で生きるための
ものだからです。
エレミヤ31章に書かれている、ユダの家とイスラエルの家の意味は、何だか分かりますか?イスラエルの家=神の契約の命を
生きる事を放棄して、切り離された家です。その家とユダの家が1つになる!そして、その人達は、神が伝える婚姻契約の命=
神の教え=トラーが頭脳に腹にDNAに神の教えが刻まれている
人達で生きる、それがエレミヤ31章、イエシュアが言われた
再更新される、婚姻契約=モーセの五書を生きる人の状態になると言われた事なのです。そして、異邦人は、この同じユダの家とイスラエルの家に与えられた同じ契約=婚姻契約に加えられると
書かれているのです。でも未だユダヤ人、異邦人全員が神の教えを生きる時は来ていませんが、それを生きる人は日々加えられ続けて行くのです。
そして、クリスチャンが言う様に、異邦人に別の契約が与えられたなど、聖書にはどこにも書いてません!しかも、モーセの五書を否定する新しい教えをイエシュアがした?パウロがした?神が言った?それ聖書に基づけば、1000%全部嘘ではないですか。本当にその様な偽証に耐えられないのです。聖書にそんな事書いてないのに、そんな嘘を本気で信じて解説しているのです。
続く