1神の言葉を否定する人の作った聖書には無い神学教理 思想の嘘 虚像 闇に迫る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

学校で教えられた事が、100%真実ではない事が無数にあります。進化論もその一つ神は居ないと教える教師は無数にいます。

その他偽科学仮説も同じです。歴史の史実も誰かの都合に合わせて改ざんされています。証拠や証明が1つも出来ないのに、

嘘を本当であると信じている、ニセ科学仮説。

この世界は、ビッグバンにより138億年前に出来ましたと言う

仮説も嘘です。ビッグバンも嘘ですし、博物館にある進化論の過程の模型も全部嘘。作り物です。博物館の人も知っていても、職がなくなるから

言わないだけす。学校の教師もそうでしょう?クリスチャンの

スクールではない、公立校では創造論など言えませよね。

でも仮説=嘘を真実の如くに、そう教えられてしまうのです。

不真実情報を刷り込まれる。もっと恐ろしい嘘の数々、騙されている数々はあります。

嘘が大きければ大きいほど人は騙されて、嘘が長い間浸透すると

その嘘から人が覚醒する事が困難になります。嘘が浸透して大衆が信じると、大衆の35%以上の人の意識が変わらない限り、

変化が起きないのです。

 

普通、ユダヤ人でなければ、ヨーロッパでも、アメリカでも

日本でも、もしメシア、メサイア、ジーザス(英語)、イエス、

エス(韓国、中国)イスス(ロシア)ジェス(イタリア語)

救い主に出会って、新生体験をしたと言う人の殆ど全ての人が、西洋宗教神学の教理、神学を通して、聖書と言うものを教えられてしまうのです。

ユダヤ人は違います。聖書に基づいたら、人の思想が聖書ではないことがはっきり分かるからです。でもユダヤ人の中でもアメリカや海外に住み、西洋神学が頭脳に叩きこまれた人は、その思想で聖書を考えてしまうと言う事がありますが、ヘブライ語聖書の中身を正しく把握していれば、聖書とは異なる人造の教えは嘘だと見抜けるはずです。

そして、普通牧師や教師、聖書解説書、注解書、神学校の教科書などに書いてある事を教えられ、それらを信頼するものです。

一般の信徒が人に聖書などは教えません。自分の体験、証などは伝えても、聖書講義などしません。教える様な訓練を受けていないからです。普通教師、牧師が聖書を教えるので、それらの人が語る教えをどうしても、聖書の真実だと受け取り信じてしまうものなのです。でも、それらの教えには、聖書とは矛盾した教えがあり、聖書とは辻褄が当然合わないものであるのに、普通は疑問にも思わないのです。どこからどこまでが聖書で、どこからどこまでが人造神学であるのか、聖書の記述から見抜けないからです。

なぜでしょう?それは、神がメシアが到来した以降、神の教えと

契約を変えた、新しい時代が到来した?

新しいグループ=異邦人教会、新しい教え=異邦人中心に与えた新しい契約?今までとは違う新しい生き方をする時代が来た?と言う、ヘブライ聖書に馴染みのない異邦人が考えた教えを教えられ続けてしまい、聖書にはそんな事など1つも記されてなどいないのに、それが神が言った事であると信じるからです。

聖書には書いてない!!!でも、書いてあるかの如く、書いても無い事を信じ続けているのです。空気椅子。裸の王様の衣装。

ないのにあると思う。

創世記〜マラキの間には、クリスチャンが言う様な変化する神や

変化する神の言葉や、変化する神の家族〜2つのグループ、

神の家族があるなどと言う記録は1つもありません。

 

もちろん、当然福音書〜黙示録の中にも、変化する神や変化する神の言葉や、新しい教会と言う名のグループや、今まで教えられて来たこと=モーセの五書に記された父の教えは、終了、無効になって、そして新しい教えが出た?新しい聖霊時代などそんな事は実は、1つも記されてなどいないのです。確かめて見れば良いのです。聖書を。大体、教会と言う人が編み出した造語で表される言葉は聖書には存在しません。便宜上一般的に使われ続けているだけで、元のヘブライ語カハール、ケヒラ ギリシャ語=エクレシア=異教徒の中から神の声により呼び出されて応答した人々の群れと言う言葉を全く反映していないのが教会、チャーチと言う異邦人造語なのです。本当にこの言葉が浸透してしまったお陰で、混乱を招く紛らわしい事になっているのです。

そんな翻訳用語を使うなら、聖書の最初から教会と言う同じ翻訳言葉で一貫して統一して使わないと人に誤解を与え続けてしまうのです。最初から教会は1つしかない!そんな言葉では書かれていませんが。

聖書には、神の言葉が変化したり、分断された2つの教えや、

2つのグループ、異邦人、イスラエルのグループの事など聖書には書いてないのです。聖書は、創世記〜黙示録まで、完全に調和し存在し、神の言葉のどの箇所も、互いに敵対し合い、否定し合い矛盾する教えなど1つも記されていない事実が永遠に存在しているからです。

クリスチャンの世界では、聖書は、最初の部分は、旧約聖書と

呼び、古くて今は参考程度に読む箇所、人が生きるのに困難な

律法が太古には与えられていた?新約聖書=新しい時代の新しい教え、旧約聖書とは異なる新しい契約、恵の書。聖霊時代のキリストの律法。今は心に律法が記されているから、古い箇所の教えはもう要らない。聖霊に導かれて自分の考えを生きる。信じるだけで神の教えを生きる必要はない。神の教えを生きるのは律法主義だ。めちゃくちゃな意味不明な教えをしているのです。メシアが到来して初めて救い、許しが与えられた?こんな解説を聞いているのですが、それらは全部聖書とはまるで違う人の意見、思想、人の考え付いた神の言葉に反する思想です。

 

信じるだけで良い=信仰義認、創世記15章のアヴラハムの契約の事です。信じて受け取るだけ!そして信じて義とされ聖霊を

受けた人は、同じイスラエルの神のカハール=呼び出された人々の群れに加えられ、神が提示する婚姻契約を生きる!と聖書には書かれているのに、その部分の神が伝える真理がクリスチャンには封印され、目隠しされ、人が作った違う教えを伝えられているのです。婚姻契約を無効、捨てよ、律法主義的生き方だなどと

言っているでしょう。

あなたが、神との関係にあると言うならば、神は神が提示する

婚姻契約を土台にあなたと関係を結ぶ事を約束、保証し、神が

伝える愛の実態=トラー=婚姻契約に記された生き方をして下さいと神がそう教えているのに、それを捨てよ!今は無用!無効などと、異邦人反トラー教師が唱えた教えを聞いて、神の声が聞こえなくなってしまっているのです。

 

神は、ご自分の言葉に矛盾する様な事を1つも言わないからです。神は太古の人は放置して、2000年以降初めて人が生きられる状態にしたのではない。2000年前に初めて許し、助け、

贖い、救いがその時以降与えられたのではない。そんな事聖書に書いてない。

そんな神はイスラエルの神がご自身の性質を紹介しているのとは全く異なる人間の脳内にある、異教神の様な神像を語っているのです。タナックのページの面にはメシアが、同じ福音がびっしり記されているのです。

そうでしょう?怒りの神〜恵の神〜 怒りの時代〜恵の時代〜

この様な思想は異教徒上りの異邦人、聖書を本当に知らない人達が唱えてしまった、人が考える脳内イスラエルの神です。

聖書ではない。太古の人達はタナックから同じ福音、同じ救い

贖いの実態を受けていたのです。

永遠!と神が一度でも言われたらそれは永遠に永遠と言う意味なのです。神が創造の最初に、第七日目だけを聖別した!と言われたら一週間のうち第七日目だけが、聖別された主の日であり、

その日は神と人との特別な祝宴の日である事は永遠に変わらないのです。そしてシャバットは婚姻契約が存在する印として与えられ、第7日目は代々永遠に祝う”わたしの記念日”とイスラエルの神が言われたのです。ユダヤ人の記念日なんて紹介していません。

神の言葉は永遠に変わらない!そうです。永遠に変わらない。

でも人が神の言葉に手を加えて、神の言葉を改ざんしてしまって

今一般に聞かされる様な神学教理が出て来てしまったのです。

それらの教えは、1世紀後半から既に出現しました。ローマ帝国の迫害により、オリジナル、ヘブライの聖書=トラーを生きる事

を処刑と、重税で完全に禁じられ、そして、ユダヤ人は神殿崩壊以降エルサレムから追放された。異邦人は2世紀以降は異邦人

西洋教父達による独自に編み出された、反モーセの五書、反ユダヤ思想を持つ異教徒背景の人々だけにより、神の言葉を終了と

する思想を異邦人の間で唱え始め、様々に神の言葉に手を付けると言う死に匹敵する罪、神に対する違反を行い続けて、異邦人達を聖書ではなく、人の思想=神学教理へと誤った方向に導いて

行ったのです。

考えたら分かると思いますが、16世紀まで書物は全部手書きです。人が個人で聖書を所有などしていない。人から聞きかじった

教えを聞いて、それが神の言葉だと勘違いするのは相当簡単な事

なのです。今でさえ聖書が手元にあるのに、聖書は2つ分断した教えだと疑いもなく信じているでしょう?なおさら、聖書が手元にない、人の思想だけを聞かされた人達は、人の教えを信じる

しかなかったのです。

 

ユダヤ人の世界では、代々タナック=モーセの五書、預言書、

諸書が存在し、トラー学者=書写学者と言う特別な訓練を受けた人達により正確にタナックが書き記され続けていたのです。

タナックを暗記迄するほど教育されていた、その違いは大きいのです。パウロの様なトラー学者はタナックを暗記し、そんな大きな巻物を持って諸外国にトラーを教えに行かなかった。

手ぶらで行ったのです。翻訳聖書しか知らない、ヘブライ聖書に何が書いてあるのかも学ばない、その様な異教徒上がりの異邦人教師を筆頭に、違う教えに導かれて、異邦人はやがて、

ユダヤ人の群れとは完全決裂し、正しくヘブライ聖書を教える

教師も持たないまま、別の教えの路線を歩み始め、そして完全にオリジナル聖書と、ユダヤ人の群れから離れて行ったのです。

どう言う教育?純粋なオリジナルの神の言葉ではない、人の思想や教えが混じった教えを教えられそれが聖書だと勘違いしてしまった。

はじめの愛から離れた!と黙示録2:4にヨハネが書いているのは、まさにその事なのです。それが現代にまで継続して行われてしまったのです。

私が以前考えていたのは、昇天以降教えが変わり、1世紀の人々はキリスト教の教えを生きて、古い教えは終了!クリスマスや

イースターを祝い、シャバット=安息日が日曜日になり、教会と言う場所に日曜日に集まり席上献金や聖餐式をしていた。

と考えていましたが、聖書にはそんな事全く書いて無いのにそう

考える事の方が不思議。空想で読み込みしていた事にはっきり

気が付いたのは、ヘブライ聖書の学びに出会って徐々に徐々に

気が付いた。聖書と人の教えの違いに完全に気が付く迄に4年もかかってしまった。

家族で、シャバットを祝う様になり、神の呼び出している聖会

過越、春の祭りの一連、秋の祭り、仮庵を祝う様になって

どんな祝福を奪われ、神の教えとは違う教えを信じてたのかに気が付いた。

異邦人の中で、異邦人家族に生まれて、ユダヤ人の様に、1世紀のイエシュアや弟子やパウロやイエシュア信者達、ユダヤ人達の様に、トラーをヘブライ語で教えられ、シャバットや祭りを

祝う喜びを教えられて育ったなんて人はほぼ皆無だと思うのです。

異邦人は西洋人が手を加えて作った宗教の教えやしきたりや

記念日しか教えられない、それが一般的ですが、聖書に記されているのは、誰も西洋神学の教えなど教えないし、西洋宗教の記念日を祝わない。この矛盾考えてみたら良いのです。1世紀の人は聖書を正しく知らないから今の現代人の様な事を教えたり、祝わない?又は、使徒行伝やパウロの書簡は神の教えが変わる変化の過渡期だから、今の様な西洋宗教が書いてない?それ全部偽物の教えです。それでは聖書は信頼に値するものではなくなってしまいます。

翻訳聖書で原典聖書(福音書以降はギリシャ語)に翻訳で文章や言葉を付け加えたり、人が聖書とは違う解説や注解をするので、福音書以降には、違う教えが書いてあるのか?などと勘違いしているのです。

クリスチャンが、神の言葉や神の性質が変わったと解説している箇所は、100%全て、完全なる誤解の読み込み、原典に記されている内容から完全に逸脱した、間違った解釈なのです。特に

パウロの書簡など、本当に間違った酷い解説を学者がしていますから、それが本当だと思っているのですが、はっきり言ってそれらは全部間違い、聖書に記されている事実とは何の関係もない解説です。

 

続く