飯山陽さんの動画で、”中田敦彦”さんが、イスラム関係の事を
よく知らないままネットで得たであろう情報を元に話しているから、途中で彼が自分で話している内容が辻褄が合わない事に気が付いた様で、しどろもどろに話していたと言っていました。
専門的に研究している人に取ったら、一夜漬けの情報をかき集めただけで議論しようとしている人の解説が真実ではない事を直ぐに見抜く事が出来るのです。彼女の指摘は人をこき下ろす事ではなく、嘘ではなくて真実を伝えようではないか!と言う事です。その一点が大事である事に同感賛同出来ます。
そうです。誰かの意見ではなく、事実を知り伝える事。
偽情報なんて必要が無い、むしろ偽情報は真実を知る事を妨害する障害物になります。同じ理由から、聖書には本当に何が書いてあるのか?と言う事を探求しています。
この世界の歴史の最初から、エデンの園から存在していた
情報戦争!問題の根は偽情報とそれに騙されて行動する事
これに尽きます。エデンの園の蛇の騙しも情報戦争なのです。
正しい情報である神の永遠普遍の言葉を勝手に曲げて伝えた!
神の言葉を曲げる事は今に至るまでその後ずっと続いているのです。
一般の異邦人クリスチャンの世界で教えられている事はこの様なものではないでしょうか?
『キリストが地上に来られるまでは、”頑張りなさい” ”勉強しなさ〜い。”と神が人々に言われました。
でも人がそれらの事をして頑張れない事、イスラエルの歴史を
通してそれが証明されました。何故なら人は罪深いから、
神の教えを生きる事が出来ないんです。
だからキリストを信じるのみで救われると言う新しい救済策を
神は後から与えました。
キリストを心から信じて受け取る恵みが、キリストが来られた後
初めて始まったのです。” 心で信じて恵みを受けて生きる。
そう言うことが書いてあるのが新しい契約〜新約聖書であり、
キリストの契約です。そしてキリストが来られる前までの古い教え、古い契約が、旧約聖書です。それは行いをして、頑張りましょうと書かれているものです。古い教えを生きることから
キリストは解放して下さいました。』
言い方、説明の仕方は違えと意味は同じでこんな風に教えられて来ませんでしたか?
この上の説明、聖書に基づきどこからどこまで聖書の真実で、
どこが聖書の教えではない、人の教えの解説なのでしょう?
先ずは最後の部分、<キリストが来られて登場した新しい契約〜
それを新約聖書と言うものであり、それ以前の古い契約を旧約
聖書と言うのです。>とありますが、聖書には旧約聖書、新約聖書などと言うタイトルも存在しなければ、新しい契約と古い契約と言う時代別に、人種別に2種類別の内容、種類の契約や教えなどは実は聖書の中には書いてないし、存在していないものなのです。旧約新約と言うタイトルを考えたのは人間です。
その思想は古くマルキオン、時に異端者、彼は創世記〜マラキを全部否定しました。それでは福音書以降も完全崩壊することも
知らずに。
人は自ら行動する何かの行いで義とされたり、救いを獲得したり、許しを得たりする事は人類歴史が地上で始まってから、その様な事を神から教えられたり、支持されたり、認証されたりすることは1度もなかったし、これからも永遠にありません!!
それだったらイエシュアの死、復活の命は無意味です。
神は永遠から、恵、許し、憐れみに富、愛の神であり、
神の前に悔い改める人を瞬時に許しそして神は信じるその人の中に共に住まわれる、それはどの時代のどの人種でも同じ!であることが、タナック=モーセの五書、預言書、諸書にはっきりと
最初から記されているのです。福音は、救い=イエシュアは1つしかないから、父の元に戻る方法はたった1つで同じ!
イエシュアの業=永遠の中に完了した業を信仰により受け取る!それ以外の方法は無いからです。
この点が見えないのは、聖書の最初の部分に何が書いてあるのか?と言う事を書いてある意味通りに把握し、理解している事が
ないからです。
ある学者がそう言うからそうだと勘違いするのですが、
例えば、一般的に殆どの異邦人クリスチャンが考える様に、
新約聖書学者で有名で、アメリカの神学校では教科書として取り入れられているメリルCテニー博士が、使徒行伝は神の
教えの変化の過渡期であると言いました。
<パウロは異邦人宣教の指導者であったため、最も注目されるべき人物であり、ユダヤ人から異邦人へ、律法から恵みへ、そしてパレスチナから帝国への移行の説明には、世界で起こったすべてのことの包括的な調査は必要ありませんでした。>
この引用は、テニーのニューテスタメント サーベイ
(新約聖書調査)の改訂版の中に書かれているものであり、
アメリカの聖書大学の新約聖書導入や調査コースの標準的な
教科書なのです。
テニーが使徒行伝の書は神の教えの移り変わりが記されている
書であると言ったのです。これ神が言ったのではない事であり、神は勿論そんな事言ってませんし聖書にも書いてません!
それなのに、多くの異邦人クリスチャン聖書学者達は彼と同じ
立場をとっています。
テニーに取り、彼と同じ立場を取る他の多くの人達同様、圧倒的な数のユダヤ人メシア信者の共同体が、異邦人共同体へと移行
した記録だけではなく、神の教えも”“律法から恵み”へ移行したと言っているのです。クリスチャンの世界では、”律法”と”恵”などと対比させて説教しているのを聞くでしょう。怒りの時代、
恵の時代、怒りの神、恵の神などと言う事と共に。
この様な著名な学者が言うのだからそうなのだ〜と先ずは神学校で教えられる生徒達は教授の言う事を信じ、その人達がやがて
教師、牧師、伝道者となって一般の人にその不真実な聖書観を講壇から伝えてしまう、その不の連鎖がずっと続いているのです。
しかも、1世紀もこの学者が居た時代も1904−1985も
パレスチナと言う国などこの地上に存在していないのです。
どれほど不正確な情報をあたかも事実のごとく、パレスチナと
言う国が存在してるかの如く活字にすれば、それを読んだ人、
聞いた人は信じてしまうのです。飯山陽さんが東大の教授がとんでもなくいい加減で不正確な情報をテレビで流していると言う
それと同じです。学者=100%完全真実なる情報を知って語っているのではなく、聖書ではなく、単なる宗教の世界の伝統の教えを語っているだけなのです。
でも実際に使徒行伝の内容を読んでみれば分かる事があります。
1世紀のイエシュア信者は殆どがユダヤ人であったのです。
そして、それらの人達は皆モーセの五書を信じて生きる事に熱心であった事が書かれているのです。神殿崩壊まで約8万〜40万のユダヤ人がイエシュア信者であったと考えられています。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に
言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者に
なった者が、数万にものぼっているが、みんなトラー=モーセの五書に熱心な人たちである。
21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、
あなた(パウロ)は異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、
子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、
彼らもきっと聞き込むに違いない。
21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。
21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、
また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラー=モーセの五書を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。
21:26 そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた
聖書に書いてある通りにしっかりその通りに読めば事実が見えるでしょう。真実が書いてあるのが聖書なのです。勝手な空想を入れないで、聖書に何が書いてあるのかだけに密着して下さい。
イエシュア信者のユダヤ人は皆トラー=モーセの五書に熱心である!でもその中でパウロの悪い噂〜パウロはモーセに背く様に教えているのではないか?と言う嫌疑がかけられてしまった〜割礼をするな、ユダヤ人の生きて来たトラーの生き方をするなと教えてるのではないか?と疑われてしまったので、巷の噂が嘘である事を神殿での”ナジル人の請願”の儀式を通して証明してくれないか!とパリサイ派の長老達に迫られて、パウロはそれを受け入れ、同時に4人の人の費用まで負担して一緒にナジル人の請願を通して、パウロはモーセの五書を否定する様な教え、生き方なんぞしておりません!と証明したとはっきり証拠として書いてあるのです。
そこまでして公に請願を通して巷の噂=モーセの五書を否定していると言う嫌疑を晴らしたのに、パウロは裏ではモーセの五書を否定し、無視する生き方をしていたとでも言うのでしょうか?
ユダヤ人に取り、神の言葉=トラーを捨てた生き方をすると言う
のがどう言う意味であるのか、異邦人には全く理解出来ないのでしょう。異教徒背景の異教文化で育った人には、神の言葉の重さが理解出来ないのです。だから簡単に神の言葉を廃れた、無用などと言えるのです。しかも、パウロがカメレオンのごとく、コロコロコロコロ言葉や態度や行動を変える人だとしたら、そんな人を教師として認め信じられますか?そんな事ある訳ないでしょう。
聖書に記されている事実を曲げたり、否定したり、又は無視する
様な読み方をする場合には、それは神の真実の上に立ち考えているのではない、神の真実が見えない盲目状態になります。
そして、ここで分かる事はこの時代まだ神殿がエルサレムに存在していたのです。昇天以降も神殿では、コルバンの動物が捧げられ、パウロも請願をしたと言う意味は、動物の捧げ物を祭壇にした!その事実考えてみてください。エルサレムに住む人はシャバットで、又地方からも諸外国からも来て都上りの祭り、過越、
シャヴオート、仮庵の祭りをこの神殿で祝った、神殿が存在していたから、昇天以降も動物のコルバンがずっと日々絶えず捧げられていた!と言う事実に気が付かないとならないのです。
動物の血は罪を消さない!と神が伝えた通り、古い旧約時代は
行動、生贄で罪が許されたと言うのは、それは神が伝える真実ではないからです!罪の仮の赦しのためにコルバンの儀式があるのではないからです。しかも未来にイエシュアが再び戻られたら、神の家で神の祭りをする!世界中が集まる!その意味は、神の家の祭壇でコルバンが捧げられ皆でそれを食し宴会をする!と預言されている事と全く辻褄が合わないでしょう。ゼカリヤ14章。
この祭りの意味神殿での一連の行事、儀式の意味を知らない場合には、神が説明している中身が意味不明になるのは無理のない事なのです。
この事実に照らし合わせれば、神の言葉が変化した、パウロは
モーセの五書を否定した教えをした!と言う人の主張が聖書とは辻褄合わない事が分かるでしょう。中田さんの様に、言ってて
あれ?事実と違うかも気が付かないとならないのです。
聖書の事実と辻褄が合わないことを解説したらそれは辻褄合わなくなるのです。神が永遠普遍と自らの口で伝えて言っているのに、途中で神の言葉は一時的なものになるなんて、それは神の言うこととは違うでしょうと、聖書に基づき気が付かないとならないのです。
人の教えに基づけば、神の言葉は変わる!となるのでしょう。
使徒は過渡期の記録、ユダヤ人信者から異邦人信者へ移行し、
神の教えが古い教えから新しい教えに移行した、そんな異邦人
人間の作り話など信じてはダメなのです。
しかも、この時代のテキストは、モーセの五書!そしてトラーに
付随する、預言書、諸書だけが唯一の聖書!!!!として
存在して、そしてモーセの五書は、神の教えの完全版であるのです。
福音書以降は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書のほんの
短い注解書、解説の役割をしているものなのです。聖書には古い教えも新しい別種の教えも1つ足りとも書かれてなどいない!と言う事実が見えない場合には、どこまで言っても、神の言葉〜
永遠普遍に変わらない、神の言葉は永遠に廃らない、堅く立つ!と神に言われても、人の言葉を信じて、変化した〜と考えそう
言い続けてしまうのです。
神の言葉が変わった様に書かれているだろう〜と誤解する箇所は、勘違いした解説する人の教え、プラス、不適切な注解や不適切な翻訳がされているから神の言葉が変化したと勘違いし、そして昇天以前と以降は聖霊不在と聖霊が住まう違いがあり、救いが初めて到来したと誤解しているからそう思うだけなのです。
続く