完全であり絶対であるお方、世界の創造主、そのお方が伝えた
完全無欠永遠不変である言葉=聖書を、完全であると神ご自身が被造物である人間に伝えているのにも関わらず、人が神の言葉に手を加え続け、神の言葉、教えに対して物申し判定し続け、なし崩しにして行く、それが世界に起きている問題の本当の原因、根、エデンの園からの同じ問題の根です。
アメリカのStephen Furtickスティーブンス・ファーティックと言う牧師が”ジーザスは愛のために律法を破った”と言う動画を出していました。クリスチャンもよくジーザスが安息日を破った!
律法を破る様に教え破棄した!などと福音書に記されているイエシュアの言葉の内容を正しく理解しないまま全く誤解して解説していますが、神の言葉=イエシュアが語った言葉の意味を全く
理解していない事による誤解に過ぎない解説です。
スティーブンス・ファーティックは聖書に基づき自分が何を
言っているのか分かってないのだと思いました。
神が神の教えを破棄し、それを人に教えたら、人は鎧兜を失い
自分の身を危険な目に晒し命を剥奪されてしまうと言う事に気が付いていないのです。今の世の中の狂った様子、これは全て神の
言葉、神の創造のデザインを無視した生き方をする人により
行われている事なのです。なぜLGBTが罪であるのか、多くの
クリスチャンでさえ聖書から理解していないのです。
なぜそれらに同調出来ないのか、神の言葉に基づいてはっきりと
説明できないのは、神の教え=トラーを捨てているからです。
神が伝えた人の生き方が絶対であり、人は神の伝える教え、言葉を人がいくら神に抵抗しても決して曲げる事ができない!と言う事実に気が付いていないから、神の言葉を破棄するなどと言い続けているのです。
問題は、神の言葉を正しく学び紐解き生きると言う事に根付いた
教え、教育が抜けて、不思議、奇跡、興奮、高揚感、印、現象などを追い求める、まるで他の宗教と何も変わらない様な事が行われてしまって来たのです。
ここで聖書だけに基づき、イエシュア(神)がトラーを破棄した!破る様に教えた!など、聖書に書いてない事を言う主張がどれほど聖書とはかけ離れた神に敵対する不真実でズレた思想であるのか、聖書に基づき考える必要があるのです。
神が神の言葉を否定、破棄、終了したら、それは神が嘘つきである、イエシュアは罪の無い子羊とはならなくなると言う証明、
証拠となってしまうのです。よくよく聖書に基づき考えないとなりません。神が一度でも”永遠不変”と言われた事を、後から変えました!と言うならば、神の言葉はどの点に於いても無効になる可能性があり、神は嘘つきと言う事になります。
神=言葉=聖霊!この神が説明する事実を理解し、神が神ご自身を否定し、破棄する事は不可能である!と言う事実をまず神の
言葉から理解しないとならないのです。
そして人は世界の全ては神の言葉により造られている事実があります。
では神はアヴラハムにイサクを神に捧げる様に言って、後でそれを取り消したから神は言葉を取り消すのだ!などと考えていては
神の言葉に対して正しい理解が出来ていないと言う事になります。神は最初からイサクをアヴラハムから取り上げる事など考えていませんし、イサクはアヴラハムを通して与えらえる約束の
子孫、その種を根絶やしにする事は神の考えではないからです。
この様に個人に与えられた、世界に対する教えは、そのテストの
意味を理解すれば見える事です。
神はどんな事でもする事が可能である。神はイサクを復活させる事が出来る、これはアヴラハムそしてイサクも両者が了解していた事実なのです。
もしもクリスチャンが言う様に救い主イエシュアが、父の教え=神の言葉、教えのどの点に於いても破る=罪を犯す、違反する、変える、破棄する様に人に教えたとするならば、救い主として、無傷の子羊の贖いが出来ない!と言う事実にまるで気がついていないのです。
イエシュアは罪が無い神の子羊!だから、人の贖いが可能、救い許し、人の罪を負う事が可能なのです。神の言葉を破る=罪を犯したら、それは神の子ではない、救い主でもない、私達の罪を
贖う資格を失ったと言う事です。救い主ではありません!
と言うことになってしまう事実をまるで考えていない勝手な聖書解説なのです。
よくよく頭脳をはっきり目覚めさせ、聖書に書いてある意味通りに考えたら、それらの異邦人思想=神の言葉は破棄された〜
と言う聖書とは全く関係の無い教えは、神の教え、言葉ではない!と言う事実に気がつける筈です。
神の言葉に反する事、それらの行為は、死に値する罪である事がモーセの五書にはっきりと記されているのです。しかも救い主は、神の言葉=トラーをそっくりそのまま生きた人であり神であるのです。
神=言葉と言うヨハネが記した意味を理解する必要があります。
罪の定義はモーセの五書に完全版として記されています。異邦人
クリスチャンは聖書ではなく、聖書とは異なる人の思想を教えられ続けてその教えに聞き入り、神が何が神に取り罪であるのか人に伝えているそれらを聖書を読まないので、罪の定義の詳細さえ知らないのです。神の目に罪であると言う認識がないから罪=
ズレてもそれがズレであると気が付けないのです。
神が伝える罪とは人の感覚で分かる、道徳的な事だけでは無いのです。道徳霊的儀式全て繋がっていて仕分ける事不可能なのです。なぜ、シャバットを破る事が死に匹敵する罪の重さなの?
どうして刺青をしてはならないのか、どうして同性と交わってはダメなのか、どうして聖別を汚すものを取り入れてはいけないのか、全部モーセの五書の中に人が生きる道=イエシュアが示した生き方の全貌詳細が書かれているのです。
人間の理解をはるかに超えています。でも神がそう言うならそうなのです。神の伝える罪の定義は2000年前に変わっていない
永遠不変!と神が伝えているからです。イエシュアもモーセの五書とは異なる教えなど1度もしていない事をクリスチャンは気が付いていないから、神が神の教えを破棄したと本気で信じているのだと思います。聖書の最初の部分を学ばない、当時の1世紀の
人達=聖書は、創世記〜マラキ、それが完全版聖書なのです。
福音書以降は最初の75%の完結編の要約に過ぎず、最初の75%を塗り替える教えなど1つも無いのです。でもクリスチャンは福音書以降には新しい教えが書いてあると疑いなく信じているのです。
福音書以降に記されている罪も、モーセの五書に記された罪の定義のほんの一部の抜粋でしかなく、福音書に書かれている内容だけでは神の伝える教えの全貌は理解出来ない様になっている事に気が付いていないのです。
教科書を最後の25%だけ読んでみても、はっきり理解出来ないのと同じ事が起きているのです。
だから福音書以降には、罪の細かい定義が書かれていないのは、
神が神の教えを愛のために破棄したからだ!などと言う支離滅裂な教えが語るものではなく、聖書の最初の部分に完全版として
全て人の生きるに必要な詳細が記されている、罪の完全版の定義が書かれている、人の生き方の完全版が記されている、それらを理解しているユダヤ人に話している=イエシュアが”わたしはイスラエルの失われた羊の元だけに遣わされた!”と言ったのは、彼らが契約=神の教えを最初に受け取り代々継承し神の言葉を理解している人たちだからです。神の教えを知らない異邦人の所に突然現れて見ても、イエシュアが約束の救い主であるなどと神の言葉=トラー、預言書に記された内容から理解出来ないからです。
神の言葉は神ご自身であり、DNAです。人は神の似姿そっくりに
造られていると言う意味は、神の似姿そのままの人が生きる姿=
モーセの五書に記された人間の生き方が、神のデザインした人の
生き方である!と言う事を神が人に伝えているのです。
アダムが生きなかった本物の人間=罪の無い性質=神の性質通りの人間としてイエシュアが地上に来られて、本来神の創造された人間そっくりそのままを生きたと聖書には書いてあります。
だからイエシュアが生きたトラーそっくりそのままの生き方は、
人類史上誰も見た事がない完全な生き方であり、だからその生き方は誰も見た事がない新しい生き方と記されているのです。。
新しい=モーセの五書に記された以外の別の生き方!などではない誰も体験した事のないトラーが肉体を取ってトラーに記されたそっくりそのままの生き方をイエシュアがされた事が書かれているのです。
クリスチャンの間でも、イエシュアはシャバットを破り、古い教えを破棄したのだと本気で事実ではないのにそう考えているでしょう。それって何を意味しているのか考えた事がありますか?
もしイエシュアがシャバットを汚したら、シャバットは第七日目ではなく、他のどの日でも良いなどと言うデタラメを教えたならば、それは偽物の救い主であり、神ではないことになります。
しかも、シャバットを汚す事は、”死”に匹敵すると言われたのは、神ご自身なのです。神である肉体を取って人として来られた
イエシュアが、”わたしの記念日”と言われたご自身の大事な記念日シャバットを汚し、破棄し、今は何曜日でも安息日=止まる日などと、いつ言われましたか?イエシュアがいつトラーに反した教えをして罪を犯したなどと聖書のどこに書かれていますか?
それでは救い主ではなく、神の言葉に違反し行動したなら、イエシュア は罪を犯した事になり、イエシュアは約束の救い主ではなく只の偽預言者になってしまいます。罪とは、聖書の定義では
トラー=神の言葉、教え=モーセの五書=父の教えに違反する
行為!と神の口から直接語られた言葉で書かれているからです。
神=イエシュアがトラーを破棄する〜罪を犯した!と言う事になるのです。神の言葉を破る違反する行為は、罪を犯した事であり、その時点で罪の無い子羊ではなくなります。
よくよく聖書に記されている事実と、巷に流れる主流な教えとの
違いを聖書に照らし合わせて比べ、何が非聖書的不真実な人間の創作した教えなのか、聖書に基づき自分で事実を発見する事が出来るはずです。
どの日もシャバット、どの日も記念日と解説しているのは、聖書を知らない人が勝手に想像でパウロが書簡に記した内容を理解しないまま、誤解して解説しているだけなのです。そんな事パウロが言うわけないからです。なぜならパウロは100%モーセの五書を支持し、生きている証明をしているからです。使徒21章。
どの日もシャバットであるならば、神がデザインした人は第1〜第6日まで、神がされた様に創造の業、働きをし第七日目を
止まると言うデザインが壊れ、毎日が休養日で働く日がなくなります。聖書とは異なる全くデタラメな教えを言っている事は聖書に戻れば理解出来ますし、聖書に記されたシンプルな基本的な
内容さえ理解しないと言う事が起きているのです。
イエシュアがガードして生きたのはシャバットであり、神の記念日=レビ記23章に記されたものなのです。
全ては人の思想で聖書=神の言葉を読み解くと言うズレた事を
やめないと、聖書に記されている意味は見えないし、聖書の最初から書かれている通りを学ばないなら、それこそ人の思想に塗り替えられた、宗教の教えを編み出し、神の言葉の意図を理解しないまま勝手な思想を神として生きてしまう事を続けて行くのです。
神が神の言葉を破棄すると言う意味は、救い主自らが神に敵対し罪を犯す!と言う事なのです。あり得ない!イエシュアには罪が無いと言う聖書の前提をなしくずしにする教えが神の教えだ!
などと言う幻想、まやかしを一掃すれば、神の言葉が伝えている
真実が始めて浮かび上がって来ます。
神はご自身を偽れない!嘘をつけない!とはっきり聖書には記されているのにどうしてクリスチャンは聖書でもない教えをあたかも聖書=神の言葉であるがごとくに語るのか、それは人の教え
思想に洗脳されたまま、聖書に書いてあることも読み取れなく
なっているからです。
考えたら分かるでしょう。罪の定義はモーセの五書に全て記されているのです。それらご自身=父の教えをイエシュア自身が破棄する、違反する様に人に教える、その行為自体が、神の言葉に基づいたら死に値する罪であると言う事を神の言葉から理解していないから、その様な事が正当である!と考えているのです。
続く