神の教えを外れるリーダー、組織に共通する要素は、金、性、
権利、権威。不健全なリーダーが運営するグループに入ると、
一般の人は個人の生活の細部に渡り管理をされてしまうそうです。一日のスケジュールの把握、いつどこで何をしているのか逐一報告、夜中でもリーダーから電話があれば出なくてはならない。就職から結婚相手選びまで介入して来る。どこかの放送局の様に、お金が無い人にも献金を煽り未納の場合自宅に取り立てに行くか、即座に持って来る様に要求する。
律法は廃れた〜と言いながら、献金は必要とトラーに書かれた
教えを引用利用したりしています。
この様に人が人を支配すると言う事が普通の常識から外れている事なのに、イエシュアの御名を使い人を従わせる事をするのが
宗教です。負えないくびきを負わせて、束縛する。
イエシュアが言われた”わたしのくびきは負いやすくわたしの
荷は軽い。”とは真逆の束縛を人にしています。
その様な中に入るとそれが常識なので、リーダーに逆らう人は
神に逆らう事をしている教えられてしまうそうです。
巨大なグループ、潤沢な資金、皆からの賞賛とサポート、尊敬を得ると自分が違う存在であると錯覚するそうです。
でも人々が神の名=実態の元に集まるとは、神の性質を生きて互いにガードし合う、神の言葉に根付き生きる事を教え、共に支え合い励まし合うためにあるはずです。
これらは歴史の中で無数に起きている氷山の一角の出来事です。
1世紀当時イエシュアが生きた時代の大祭司、カヤパ一家も腐敗していた。エルサレムに行くと大祭司が贅沢三昧していた家の遺跡を見る事が出来ます。人から搾取したお金で自分が潤っていた。ヘロデ王もローマに支配された王であり、当時はボロボロの状態あったのです。神殿で捧げられる動物を独占販売し高値で売り、祭りの時も法外なレートで両替をし、人々からお金を吸い上げていた祭司とローマ帝国政府。
だから神殿が強盗の巣!とイエシュア憤った事が記されています。ローマ帝国と結託して、神殿を通して金儲けが行われていたからです。
誰でも、神の言葉から逸れるととんでもなくズレて行く事が出来てしまうのです。行いが伴わない信仰、神の性質に反する生き方
それは神のみ旨を生きるのではなく、神に敵対する生き方教え
なのです。
世界のカトリック内でも性犯罪事件がメデイアでもよく取り上げられています。独身でなければ、神に仕える事が出来ないと言う人が考えたルール自体、神の教えとは全く異なるものです。
結婚を禁じるとは、禁欲主義〜グノーシス主義の思想から来ているものです。この世の楽しみ喜びを体験する事は悪い事!と言う
考えも、禁欲主義から来ている影響なのです。
中世のカトリックはだから人里離れた山奥などに住んだのです。
人から離れて隔離されて生きる、貧しさが美徳と言う考えもその様なものから来るものです。インドにある死を待つ人の家と言うのも、実際グループには膨大で潤沢な資金、献金があるのに、人のためにそのお金が使われず、不潔で粗末、粗悪な環境での素人の看護。人間の尊厳以下の取り扱いをされてしまっています。
カーペットが敷いてあれば贅沢だからと剥がし、最低の品、質素な数枚の同じ衣服で生活をする。これって禁欲主義です。
貧しさが美徳。人は人から隔離されて、神が与えたものを楽しみ喜ぶ事禁じる禁欲主義的な生き方は、神が教えている生き方とは異なるものです。
神は人のために全てを与え、神のデザイン通りを生きて、それらを楽しむ。
全ての事を神の意図通り喜び楽しむ事、それが聖書に記されている"礼拝”と言う翻訳用語の裏にある本当の意味〜アヴォダ=
生きる事の全てを神の意図通りに生きる。だからスポーツ観戦していても、遊んでいても、働いていても何をしていても神の前に神の子らしく神から与えられたものを感謝して受け取り、喜び
楽しみ生きること、それが礼拝の本当の意味として、聖書には
記されているのです。
そうして禁欲主義を生きる様に教える一方、それらのリーダー達の中で性犯罪が蔓延り、孤児院、施設、グループ内で犠牲になる子供達がいるのです。
それどころかこんなのは氷山の一角に過ぎないのです。リーダーに逆らう、イコール神に逆らうと言われれば誰にも持って行き場が無く、泣き寝入りしている多くの被害者がいるのです。
カミングアウトして、犯罪を公に話した人の様に、そんな事警察に言っても、相手にもしてもらえない、自分を守ってなどくれないだろう〜と諦めたと、それほど闇の組織の力が大きいと言う事なのです。
聖霊が住まう人が集うグループであるものが、悪霊の巣、悪魔の闇の業がされる場所になってしまっている所が多くあるのです。
どうして?悪魔の誘惑と言いますが、リーダー自身が神の言葉を
正しく学び知り神の教えに根付いて生きると言う事に徹しないなら、それはどんな曲がった方向にでも行く事は可能だからです。
だから”誰でも教師になるなかれ”と言われた言葉は、教師達が
人を間違いの方向に導いてしまう危険があるからです。
神の言葉を捨てる代償は大きいのです。神の言葉、教えから意識をそらせる、それがサタンの本当の手口だからです。それをすれば人を神の言葉とは異なる別の生き方にに引っ張る事が出来るからです。
そしてそう言う神の名=実態を汚す行動をする人のせいで、他のクリスチャン達も同じ目で世間から誤解され見られてしまうのです。イスラエルの神の評判を汚すのです。
最近もニュースになった数年前からあある東京聖路加病院でも
チャプレンによる性犯罪(訴訟)があったのに病院側は犯罪したチャプレンだけをかばい被害者を擁護しようとさえしなかった
そうです。
これはこの世のシステムと全く同じです。
これも氷山の一角です。訴訟まで持って行くなんてことはどれほどの勇気と労力、時間を伴うのか考えても分かります。
皆泣き寝入りでやられ放題、被害者は墓場まで持って行く!と
言っています。
聖職者による性的虐待を実名告発TBS【報道特集】
カトリック教会の性的虐待スキャンダル、ヴァチカンで会議始まる BBCニュースジャパン
組織が大きすぎると個人は組織に対して対抗できない、信徒が
罪を犯しているのを知って見て見ぬ振りをすることも直接手を
下さなくても同じ罪です。被害者が続出させるのを止める事を
しないからです。組織がらみの犯罪と言うでしょう。
こんな事をリーダーからされてしまえば、他の兄弟姉妹である人々にも悪影響悪評判が及ぶのです。何故なら否定したくても人は1体で繋がり必ず誰かの違反は誰かに影響を及ぼすからです。だから神は厳重に何が神の子らの生き方では無いのか、生きる上での全領域に対して教えているのに、それを破棄せよ!意味ない教えになった!と神が言ってもいない事を異邦人クリスチャンの世界では神の教えであると教えてしまっているのです。神に対するその様な違反は重たい責任刈り取る結末が生じるのです。
人は神の前に平等であり、人が人を支配する様な事が一切あってはならないのに、宗教の教えに変身してしまうと、人が平気で
人を支配、搾取する事は正当である考える様になってしまうものです。そしてその事に平信徒と言う言葉で呼ばれる、普通の人々は甘んじなければならないなんて異常な世界なのです。
階級制と言う制度自体が神の教えではないからです。
階級制度は西洋宗教が作ったものです。
人が集うグループの中には様々な役割があります。
家族と同じです。家族の中にもそれぞれ役割がある。両親がいて兄弟がいる。それぞれの役割が違うのです。上に立つ両親は正しく子供達を導く知恵、指導があり、そして子供達の命を守り育む責任があるのです。その人達は主にある成人であり、そして神の教えの知恵に満ちた人であるべきなのです。親、教師、トラーとは同じルート文字を共有する言葉です。親は子を命令するのではなく、正しい生き方に導く教師でもあるのです。
でも親は子供を自分の所有物の様に扱う事などしないのです。
神の言葉を否定する破棄する無意味と教えること!それは罪を
助長する手助けをしていると言う事に気が付いていないのです。様々な罪はわずかなほころびが原因で大きな破壊に繋がるのです。罪の定義の全貌はモーセの五書に記されているのですそれを捨てたら神の前に何が罪だか分からないと言う事です。そして
神の教えは人の生きる全ての領域を網羅しているものであり、
どの教えも全部繋がって1つの神の教えなのです。
だから、トラーの1を守っても他を破れば全体を破ること同じ!
と書かれているのです。
ヤコブ2:10だれでもトラーすべてを守りながら,一つの点で踏み外すなら, その人はそれらすべてに対する違反者となるからです。
だから神は神の言葉を一点一画も変えてはならない!人が真理から迷い出てそれぞれ様々な勝手気ままなその人の感じる考えるところの教えを編み出し、人を誤りの方向に導いて行くから、神の言葉を変えるな!!!!と最初から厳重警告しているのです。
異邦人も十戒を唱えるなら、”わたしの顔の上に別の顔を置くなかれ!あなたのために!”と神が言った言葉を今日真面目に受け止め、信仰により義とされた人として生きなさい!と神が言われている通りを生きる、それが安全な道=イエシュアが人々に示している神の教えなのです。道=イエシュア=トラー!と聖書にはそう言う意味で書かれているのです。神=聖霊=イエシュア=言葉=肉体を取ったトラー=神の言葉=文字で書かれたトラーだからです。
神の言葉に根付き落ち着いて生きる事を実際に教えないで、
何かの現象ばかりを求める教えは、神が教えている生き方では
ありません。
歌って踊ってランランランと言うパーテイ、イベントショー、高揚感、ドラッグに支配された様な特殊なハイ体験、奇跡、不思議、一時的な興奮ばかりを求める事〜それが聖霊に満たされている証拠だ!などと教えられれば、それはズレた生き方になり、
行いの無い虚しい信仰虚しい人の集まりになり、それはイエシュアの実態を表すどころか、神の事実、顔に泥を塗り人々を誤りに導く、神の名をただただ利用、使用、乱用する、神に対する冒涜の生き方が出きるのです。
そして神に何を生きる様に教えられているのか、余り注意を払わない、それが本当の問題の根であるのです。
落ち着いて神の言葉にしっかり根付いて神の子ら=成人として地の塩、世の光=神の実態=トラーを実際に生きて世界へ見えない神の事実を行動、生き様を通して証しなさい!と教えられているからです。
マタイ7:18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法=トラー無し=モーセの五書をないがしろにする事=を働く者どもよ、行ってしまえ』。
続く