その3 聖書の根拠に基づかない聖書に対する質問回答の例 続き | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

<聖書に基づかない事実からの回答者の解説の続きです。>

13 イエスが裂かれたパンは十字架の上で私たちのために裂かれたイエスのからだを代表しています。杯は、私たちのためにイエスが流された血を代表して、イエスと私たちの間の契約の証印です。 聖餐式を行うたびに、私たちはイエスが私たちのためにしてくださったことを覚えるだけではなく、それを見ている人たちと行っている人にも、そのことを見せているのです。聖餐式は、十字架上で起こった事とその意味、そして信者としての私たちにどんな影響を与えるかの美しい絵 なのです。

 

その通りです。でもクリスチャンの世界ではイエシュアが過越を祝うびにこの儀式をして皆で思い出して!と言われたイエシュアの遺言の意味を捉えず、理解しないままイエシュアの言葉を半分違う意味に変えて、そしてイエシュアが永遠に祝われるわたしの記念日と言われた過越を祝う事が全くないのです。

 

西洋教父達、ローマ教が別の教えと記念日、神の教えとは違うものに変えてしまっている事に気が付いていません。

1つは神が”わたしの記念日”と言われ代々皆で永遠に祝われる

過越の祭りを祝わないで、西洋人が作った違う記念日を祝っています。何の記念日を祝おうとそれ自体悪い事でもなんでもないの

です。問題は、本質を塗り替えた別物を尊重している事そして神が伝えている教え、神の正真正銘永遠不変代々神の子らで祝われる記念日を祝わない事なのです。神が神の記念日を昇天以降

変えられたと本気で信じていることこそが問題の根なのです。

 

そして種無しパンで神が教えられている重要な意味を異邦人の世界では教えらる事がないまま、種ありパンの儀式に変えてしまい、種無しパンを通して教えられている教えを消してしまっています。イエシュアがされた儀式とは違うものして、神が伝えた定めの時ではない時にそれを行い、本来の意味である種無しパン=罪がそぎ落とされたと言う教えが抜けた、種が入ったパンで祝う事に変えてイエシュアが語った意味を教えられていません。これは1列王記12章に記された”王が勝手に思い付いた時 思いついた変形した内容、やり方”と言うのと同じ事だと思います。これは神の教えを半分削いでいる人の教えが混じったものだからです。

パウロが使徒20章でやっていた事、その事実を見てみます。

この箇所、シャバット=第七日目が日曜日になったなどとクリスチャンが根拠証拠として解説する箇所ですが、ここを読んだら

トラーに記されている教えを知るユダヤ人と同じ知識があれば、明らかに何が書いてあるのか分かる箇所でもあるのです。

 

 20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

除酵祭と記されてパウロ達が除酵祭の祝いを終了した後の事が

書かれているのです。除酵祭を祝うと言う事はレビ記23章の全部の神の記念日を祝っている証拠となるものです。そしてシャバットを第七日目!として祝っている証拠でもあります。

なぜなら、この除酵祭の初日=過越の祭りから種無しパンを7日間食べ、7週間7回の第七日目のシャバットを祝い、シャヴオートの祭りを祝う!と言う意味だからです。日曜礼拝など聖書には存在しない西洋人の産物!聖書に存在しない記されていない聖書に記された人には誰にも知られていない2世紀以降の西洋人の

考えた礼拝日と言う事実をまず聖書から、歴史の中で西洋教父が勝手に変えたもの!と言う事実を知らないとならないのです。>

 20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

<前に解説しましたが”日”と言う言葉はギリシャ語には無い言葉を敢えて挿入しています。週の初めという意味は、過越=種無しパンの祭りから7週を数える週の初め!の時である事を記していて、日曜日であるなどとは書かれていません。

ここで、パンをさくとあって、聖餐式を日曜日にしているとクリスチャンは誤解していますが、ここにあるパンとは種ありパンです。イエシュアがされた過越の晩餐の種無しパンでする儀式とは違うものです。

なぜなら7節は、除酵祭が既に終わった後の事だからです。

シャバットや他の時に食事に人が集まれば、ユダヤ人はパンを割くと言うことを今でもするものだからです。シャバットの晩餐やシャバットを閉じる土曜日の儀式をする時にもパンを裂く事をするのです。もちろん過越=除酵祭以外では、種ありパンを頂くのです。これを西洋人が編み出した聖餐式をするために集まったとすると、聖書とは違う解説になります。

なぜなら、”種無しパン”食べる7日間は終わった後の話だからです。聖書の記述の中身を知る、聖書に書かれた記念日がいつか、

その意味は何かを知るだけで、書かれている事の意味が見えます。

しかも、7節がシャバット=第七日目、止まる日では無い事が分かる理由は、パウロの旅行に関しての話をしているからです。これが旅の話ではなくても、7節で語られている事でも日曜礼拝している話ではない事が分かります。この集っている時が夕暮れ時で夕飯であり夜中まで語ったと書いてあります。もしこれがグレゴリオ暦の日曜日の晩に集まったと言うならば、それは既に聖書の暦では月曜日が始まっている日です。それなら月曜日に旅をするのは安息日=シャバッツとではないから当然です。同時に、もしも土曜日の夕暮れ、これはユダヤ人の慣わしでもありますし、当時諸外国に居た人は土曜日も働くと言う人がいたから土曜日の晩を交わりの時として集まる事をしたからであるなら、土曜日の晩は、聖書の暦の第一日目であり、そうすると第一日目にパウロが旅に出る予定にしていると言うことだけで、日曜日はシャバットなどと考えていない事が明らかなのです。

日曜日を安息日と考えるのは、西洋人=人の伝統の教えを信じて実践する人たちだけです。神は日曜日を安息日などと言い換えたり変更していません。それは永遠不変の聖書に記された証拠が

あるからです。

20:6-7この日の事がいつなのか、それははっきり明記されていませんから、この箇所で分かるのは、種無しパンを食べる週が終わった最初の週〜オメル=穂を数える7週の中の最初の週の出来事であると言う事です。日曜日に聖餐式をしているとか、日曜日が安息日になったと考えるのは非聖書的解説です。ここに書かれている日が日曜日と言うなら、日曜が安息日と彼らが考えてなどいない証拠として皆で集まって様々な事を話している、そして次の日に旅に出ると言う事をしたからです。グレゴリオ暦の日曜日の夕暮れは、聖書の暦では月曜日=第二日目の始まりの時になるのです。全部現代の自分たちの教え、暦や西洋宗教文化の習わしで考えると聖書とはズレてしまうのです。

種無しパンだろうが、種ありパンだろうが、いつそれをしようが

神の祭りを祝おうが祝わないか、そんな事どうでもいいじゃない〜ルンルンと思うのは、神の言葉を無視すると神が人に教えようとしている意味がはっきり見えなくなる、理解出来なくなりますす。そして人にもこの種無しパンの意味をイエシュアの贖いの血と繋げて伝える事が出来なくなります。教えの中身に空洞が出来ます。

1つ言える事は、神の言葉は永遠と言う奥行きに広がっているものです。人は神を永遠に完全に知ることがない、詰まり永遠をかけて神の真実、実態、性質発見し続け、神との関係を育んで行くからです。終わりがない。人が神を全部理解すればそれは神になると言う事でしょう。

だから神の言葉は終わり!と言えば、神を知ると言う事がそこで止まるのです。それ以上の発見が出来なくてなってしまうのです。いや、神を知る事停止させれば、見えない知らない分からない領域がたくさん出来てしまうのです。

神の伝える真実ではない事を根拠に考えれば、それ以上、神の

真理に繋がる奥の扉が開く事が無くなります。

 

特に神の言葉は古い呪いの律法で廃れて終了だからその部分は読まなくて良い、特に知らなくても問題無い、今は生きる必要もない教えだと言った西洋教父達やダービーの教え=本当に人が神に成り代わり神の言葉を退ける冒涜に全く気がつけないのは、その様な事を言う人達は神の言葉を知らない異教徒思想の異教神信仰背景上がりだからです。ふんだんに異教徒の思想を信条、神の言葉、教えの中に混ぜて取り込み、異教神の偶像も取り込んだのです。

彼らの思想が人の思考に対して何をしているかと言うと、人を神の真実、真理の中で神との永遠の出会い、関係を育む事を妨害しているのです。違うイスラエルの神像を想像し、神の言葉では無い人の教えを取り入れ、聖書とは違う本当真実では無い事を信じさせられてしまっているのです。

神の言葉を終了と考える場合には、神が伝えている永遠の宝である内容を知ると言う事を初めからやめているのです。神の言葉を退ければ、神が人に教えている重要な事柄に付いて全く考えることさえも始めないと言うことが起きます。

これエデンの園の事件と同じです。”神の言葉に根付いて考え行動する事を阻止した”のはあの蛇の偽物の作り物の教えです。

神はそんな事本当に言ったの?と蛇はカマかけて言った。

全く同じです。

アダムは神の言葉を聞いて知っていたのに、神の言葉を捨て神が禁じる事をしたのです。それが全問題の諸悪の根であり死を生み出す事である!と最初から神が警告しているのに気がつかない。それはキリストが来たから全部終わった!と勘違いしているからです。神の性質とは違う事をすれば、それは色々な意味に於いて

物理的霊的精神的領域の全てで死〜かい離、隔てをもたらす事なのです。

神の言葉は終了と言う神の言う事と違う事を言う教えはそれと

全く同じ事なのです。人に神の伝えている事を分からせない、

理解させない損害、妨害を与えているだけなのです。

 

どうして神の記念日を神が造られたのだろう?7と言う数字は何を意味しているのだろう?この7と言う数字で、歴史の中の神の

子ら、国を修復回復する内容が書かれている。神の時は7を中心に実行されている。

7=止まる シャバット。7年目シュミタ年、負債がまっさらに

キャンセルされ、負債を払う使用人の身分から脱出し新しく人生を整えて歩み出せる。それを7回繰り返す、50年目のヨベルの年は全ての回復、修復、元に戻る時です。

神の福音とは、全創造物の壮大なる修復を教えているものです。

都上りの神の教えを見ても、絵で見ても、分かります。

 

神の子ら全てが、1つ神に1つ神の家に、エデンに戻る事を絵画的教えとして見ても分かる通りの事を実際にして、それが未来に

起きる事を教えている絵画的預言的祭りです。

シャバットを祝い、過越や仮庵の祭りを祝う様になって初めて、その中で神が様々に教えられる事で、今まで知らなかった神の言葉、教えの意味の世界がどんどん見える、発見し続ける事を体験します。

それまで何も分からない、書いてあるのに意味が分からない、

ただただ字面だけ読んで分かったつもりでいても、実は何も分かっていなかったと言う事に気が付きました。

神の言葉を知り、学び実際に神の性質を生きるお手本を通して

神が伝える永遠のトラーの真実を教え、手ほどきし、導き続けて下さった多くの賢人たち、イスラエルの教師、友人達には、どう感謝して良いか分かりません。

福音はユダヤ人から伝えられたのです。福音は創造の最初から

神の残りの民=イスラエルを通して伝えられ続けて来たのです。

神がそう決めて彼らに重大な責任を負わせたからです。アヴラハムを全世界の父として選び出したのは、全世界の民族に同じ祝福を与えると言う目的のためであり、一人が高く掲げられて特別扱いされるためでは無いのです。

 

神は人を神の目的通りに創造されたからです。そして全ての人が

揃って初めて神の意図通りの大家族として機能出来るのです。

ユダヤ人も異邦人無しにはシャロームにならないのです。

 

2世紀以降、特に4世紀以降はユダヤ人イエシュア信者に関して

聞かれる事が無くなりましたが、確実に神はユダヤ人のイエシュア信者である残りの民を保存されて来ました。

そして、イエシュアを知らないユダヤ人達の中に、世界のどこに

住んでいても神のトラーを忠実に学ぶ人達がずっと居るのです。

彼ら無しには、ヘブライ語聖書に記されたその通りの意味を学ぶ事は可能ではありませんでした。

そして異邦人も、世界へイエシュアの死と復活を告げ知らせたと言う事をしましたが、それ以外の神の教え=聖書に記されている内容が人の教えとすり替わって、聖書を書いてある通りに正しくそのまま伝え教えると言う事から外れてしまったのです。元を学ばないまま、どうやって聖書に書いてある意味を正確に理解し、他者へ神の言葉通りを伝えられると考えるのでしょう?

 

神の言葉=肉体を取って来られたトラーであるイエシュア=

文字で記されたトラー=神の教えから離れた異邦人と、タナック=モーセの五書、預言書、諸書に記された肉体を取って来られた

トラーである救い主、イエシュアの事実に目をそらせて離れた

多くのユダヤ人、この2つのズレた方向へ異邦人も、ユダヤ人も

離れて行ったのです。

 

続く