聖書に根拠のない聖書解説の回答例は続きます。
4 ユダヤ人の安息日である土曜日に礼拝することは何か間違っているのでしょうか?まったくそんなことはありません! ?
”ユダヤ人の安息日”この様な定義は神が伝える神の聖別した日の定義、シャバットの本質ではありません。聖書の最初、創造の最初に戻り、神が創造された全ての創造物、神と人と創造物が全て神と共に止まり神が聖別された日が第七日目のシャバットです。
ユダヤ人の安息日ではなく”わたしの記念日”と神が人に伝えているのです。
出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。
31:13「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
<婚姻指輪と同じく、シャバットは婚姻関係で表される神と神の子らの印!表向きに誰でも分かる目に見える、神との特別な契約の関係にある印!婚姻指輪、婚姻届、結婚記念日を捨てて破棄するのでしょうか?婚姻関係にある相手に対してそれはどう言う意味になると思いますか?>夫との婚姻関係を祝う結婚記念日は唯一そのパートナーとの間で祝われるもの、その特別な日を別の人と祝ったりしません。神が呼び出している特別な記念日を神と神の家族と祝えるのは、神との関係に入っている聖別された人達だけです。そして代々永遠に祝われる代々永遠の印で、神が私たちを聖別される主であり、人間の教えが人を聖別するのではない!と知る事ができるため!と神が言われています。
イスラエルが代表として神から神の言葉を受け取り聞いた!
イスラエル=神の家族の苗字です。異邦人も同じイスラエルの神
に繋がり、同じ契約の命の実態を生きる事に招かれているのです。
5 私たちは、土曜、日曜だけでなく、毎日神を礼拝するべきです! ?
創造の最初を見ても、神は区別しています。空と地に水を分けている。朝と夕を造った。もしどの日でもシャバットであると言う
ならば、それは特別な意味、聖別では無い、全てが区別のない
普通の日と言うことになってしまうのです。
毎日が祝宴、毎日が記念日だったら特別な日の意味、その日を
心待ちに迎える意味がなくなります。全部同じ日になってしまう
から、区別がなくなるのです。
毎日神を礼拝すべき!とありますが、礼拝という概念が違うのです。土日だけ礼拝。礼拝とは、人と集まり神を賛美したり一緒に
祈ったりとクリスチャンは考えるでしょう。それは生きる中での
神に対する表現のほんの1部です。そんな集まりを常にせよ!などと神の命じている事ではないです。神の神の子らを召集している日は特別な日を神が設定している、それがレビ記23章の聖別された神の時です。いつも止まる日だとするならば、全て休日となります。人はそれぞれの場で任されている労働仕事があるからです。神が人を呼び出している日は神が人に知らせているものであり神の聖別された日の暦はレビ記23章に記されているものです。
しかもどの日も安息日なら安息日と言う意味定義が消えます。
毎日休む日?と言うことになり、いつ労働するのでしょう?
それらしく聞こえる教えでも、それは神の伝えている真実ではないのです。日々礼拝と言うならば、クリスチャンが考えている集まり賛美、祈り、礼拝活動をする!と言う意味ではなく、
何をしていても、神の性質通り、神の言葉で教えられている実態を神の前で生きる、それが礼拝と訳されているヘブライ語の本当の意味なのです。
区別のない、聖別の意味が消える、どの日も集まり礼拝日、
シャバット、安息日と言う人間の教えの解説にすり替えては
神が伝える聖別の意味が消えて見えなくなります。
5 クリスチャンは、安息日を守る、つまり土曜日に働くべきではないのでしょうか?もし、あるクリスチャンがそのように、導かれていると感じるなら、そのとおりです?(ローマ14:5)
聖霊は分裂の神なのでしょうか?神は人種により時代により別の教えをすると聖書に書いてあるのでしょうか?人がどう感じるではなく神が何を伝えているかが全ての根拠なのに、人がそう感じればそうだ!などと解説しているのです。この様な教えこそ人間至上主義思想であり、人が神になっているのです。神の伝えている言葉、教えではなく人間がどう感じるかで、神の言葉が変化するなどと教えているのです。とんでもなく神の言葉の真実から逸脱した教えです。
神が伝える真実、シャバットがいつであるかを神が伝えているのに、人間がそう感じるならそうである???いい加減な嘘の教えを神の伝える真実だとして人に教えている内容全ては本当に正しい意味に訂正されなくてはならない、誤りの思想です。
ローマ14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
どの日でもシャバットとして良いのだ!!!などとこのパウロの言葉を読んで勘違いした解説がされていますが、ここで書かれている日は普段の日の事であり、神が聖別された日ではないのです。異邦人は神の領域に平気で侵入し神の言う事を変更することに何も感じない無感覚に陥っているのです。
ローマ14章を読むと、当時健康上の理由か、ある人は野菜しか食べないとある通り、そこに書いてあることはレビ記11章の食規定が変更になったなどとの神の言葉を曲げる教えをパウロがするわけもなく、ある人は何かの理由で野菜しか食べないと考えている信仰の弱い人=信仰に入って浅いか、又はその人の特別な体の事情あるから、それを批判する意味はないと言っています。
なんでも食べて良いと考える人=その食べ物は、当然神が許しているレビ記11章の人間の食するにふさわしい食べ物の事であり汚れた動物でもなんでも食べて良い!などと言う事など一度も言ってもない、そんな考えは異教徒思想であり神の言葉を知らない人が考える発想なのです。
その解説の後に、ある人が考える大事な日とは、神の聖別された
日以外の事です。なぜなら、神が聖別している日は大事な日で
あり重要な日で代々永遠にガードし祝う日であり、人間が判定してこの日は大事、この聖別された祭りは不要!などと言う性質のものではないからです。
しかもギリシャ語でこの”日”とは定冠詞の無い普段の日である
と書かれているのですから、神の聖別された日ではない事は
その言語からも明らかな事実なのです。
神の聖別された日は特別であり”定冠詞”が付いて表されるもの
だからです。
6 今日、多くの教会(異邦人)が土曜日と日曜日の両方に礼拝をもっています。キリストのうちには自由があります。?
キリストにある自由を履き違えています。なんでもして良い、
人間が勝手に神の言葉を判定して神の言葉を仕分けて良い自由などは神が伝えているキリストにある自由などと言うものではありません。
私達に与えられた自由とは、神の性質通りを、罪の法則に妨害されないで生きる自由と言う意味であり、その自由の性質は、神の言葉で表されている実態を生きる事なのです。
キリストにある自由=なんでもやって良い、何しても許される
自由などは、神が伝える自由ではなく、人間の考えで勝手にし
放題が許されていると言うこれまた人の思想なのです。
神の伝える聖別を破り、聖別された日を勝手に変更する行為は
神に対しての忌むべき冒涜であると聖書には記されています。
人間が勝手にやり放題それが自由などと思わせるのは、人間の
思想なのです。
ローマ8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
2コリント3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
ガラテヤ5:1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
奴隷のくびき〜神の教えを生きることが奴隷のくびき?どこの
宗教の教えなのでしょうか?少なくともイスラエルの神の教えとは真逆の教えです。
滅び=罪の奴隷にまみれて生きることから解放された!と言うことであり、神の言葉を捨てて勝手に生きて良いなどと解説するのは神の伝える教えから完全に逸脱した人間の思想です。
自由だから、自由に安息日を決めて良い、自由になんでもして良い、それらの思想は聖書ではないと言うことが分からない限り
逸脱した教えの解説はその様な思想を信じる人たちを通して
伝達され続けてしまうのです。
神の教えに縛られること〜奴隷などと考えている思想は、神の思索から遠く離れた人間の教えに浸かって考えているのです。
7 しかしながら、安息日を守ることを選んだ人たちは、安息日を守らない人たちを裁いてはいけません(コロサイ2:16)。
さらに、安息日を守らない人たちは、守る人たちのつまずきの石となることを避けなければなりません。?
コロサイ2:16には、神の聖別された日を祝わないことで裁かれるな!などと書いてありません。神の聖別された日を盛大に
飲み食いして祝うことを禁欲主義者達にコロサイの群れの人達は批判されてはならない!と書いてあるのです。神の聖別された日祭りや安息日、新月を祝わないことを裁くな!と言いますが、
人がその人を裁かなくても神の前にどう言う意味になるか人は
考えないとならないのです。
神の言葉を曲げて生きること自体が既に周囲へのつまづきの岩になっている事に気が付いていないのです。
8 もし、クリスチャンたちが定期的に集まった日があったとしたら、それは週の初めの日(日曜日)であって、安息日(土曜日)ではありませんでした(使徒行伝20:7、Iコリント16:2)。
使徒20:7は、日曜日ではなく、穂を数える7週の最初と言う意味であり、次の箇所も日曜日礼拝に変更されたと言う根拠にしていますが、安息日の意味を理解していない人の解説です。
安息日は永遠に第七日目であり、安息日に絶対しない事を、週の最初の日にしている、労働日、活動日、お金を稼ぎ金勘定をする
普段の日である記録なのです。以下
1コリント 16:1 聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておいたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。
16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、わたしが着いた時になって初めて集めることのないようにしなさい。
献金と言うとクリスチャンは、日曜日礼拝の中で係員が来て、献金集めをすると言うのを想像しますが、そんなのは1世紀のユダヤ人の世界には無い、日曜礼拝も無い、安息日=シャバット=
第七日目には、仕事、仕事の話や、集金、献金集め、その他の労働などしない!と言う神の教えに沿ってその日を普段の日とは
違う、特別な日、聖別された日として祝う事実をまず知れば、
真実が見えます。
献金について、個人個人が週の初めにそれぞれが自分の手元に
蓄えておきとあります。シャバットに集金やお金を取り分ける様な作業を神の教えに沿ってするべき事ではないから、週の初めは労働日の最初だからそう言う指示をしているのです。しかも個人個人の家でそうするとあり、西洋宗教の日曜礼拝の席で集金集めと言う、現代の自分の宗教文化でパウロの語る内容を空想想像をしているから、勘違いするのです。
彼らの頭脳の中には、日曜礼拝と言うローマ宗教が作った概念など微塵にも無いのです。
日曜日は神のデザインによれば、普段の日であり、神の聖別されたシャバットではない!労働日の初日だから、シャバットが終わりお金を取り分けておいてと言っているのです。
労働日である日に集まりなど、普通の時には出来ないのです。
夜に集まる?そんな事普通の日にずっとする事など出来ません。
もし普段の日に集まればそれは神の仰せではなく、彼らの都合や
その他の理由、用事で集まっているだけです。
続く