神の創造された神が神の子ら全てを呼び出している記念日は、
出エジプト、レビ記23章、民数記28−29章、申命記16章
に記されています。人間がどう解説しようと神の記念日は永遠不変です。
シャブオート(ペンテコステ)は3300年以上前にシナイ山でトラー=婚姻契約が与えられた事を祝う祭りです。聖霊が2000年前に初めて人の内側に降臨したと言う主旨の祭りではありません。聖霊は最初の最初から人の内側に住まっていた事実が
モーセの五書には記されています。預言書にも諸書にもずっと
聖霊が人の内側に住む神の事実が記されているのです。
使徒2章で初めて聖霊降臨と考えるのは、聖書に書かれている最初の部分を書いてある意味通りに学ばない結果、その様な誤解
勘違いが生じているのです。使徒2章で起きた事は、昇天以降
世界へトラーに記された福音を伝える幕開けであり、弟子達は
特殊な力、知恵を与えられてその任務を遂行する事が出来たのです。聖霊により聖書を書き記し、タナックに記されたイエシュア
を伝え、そして神の教え=トラーを生きる事を人に教えると言う
重大な役割を与えられたからです。全ての人は聖書を書き記す様な特殊な任務を与えられていません。特別な任務を遂行するのに
必要な特殊な神の助け、力、特別な処理能力が必要なのです。
これって命を生み出す妊娠や出産でも分かると思います。その時だけに与えられる特別な力、ホルモン、体が変化する事、血液が母乳に変身する事、いつでも誰にでも(男性に)与えられる状態ではないのです。
ヘブライ語の言葉自体からでも聖霊が内側に住む、神は人の内側に住む事実は明らかにはっきり分かる様に記されているのです。
翻訳と人の思想で塗り替えられた神の言葉=教えだけを読んでいれば、神が伝えている永遠の事実、全ては永遠の中に完結し存在している事が見えないままになります。
神の花嫁、家族の一員として神が伝える神の大家族の生き方を
神の贈り物として受け取る再更新の日がシャブオートなのです。
使徒2章のシャブオートの祭りは、(ペンテコステ ギリシャ語で第50番目の意味)贖われ救いを受けた人に神の教え=婚姻契約=トラーを与えられた喜び、感謝を祝う日なのです。
アヴラハムも未だ見ぬ、未来に地上に来られるイエシュアを知って喜び楽しんだ!とある通り福音は最初からずっと同じなのです。クリスチャンも主が道、Jesus is the way! と言うでしょう。どの時代のどの人種にもイエシュアを通して以外に贖いの
方法はないからです。
ローマ1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって彼らには弁解の余地がない。<神の被造物を見れば神が分かる、だから誰も神を知らなかったと言う弁解の余地がないと書いてあるのです。>
そして神の教えは救いを得るためにあるのではなく、救いを得た
人達が神の花嫁として生きるとはどんな生き方なのか神が伝える教えの詳細が書かれているものなのです。婚姻契約なのです。
シャブオートは、三大都上りの1つです。神の創造された定めの時、神は天の万象を”神の定めの時”を司るための印として造られたと言われました。季節と翻訳されている言葉=モアデイムמ֣וֹעֲדִ֔יםは、”神の定められた時、神が神の子らを呼び出して招集祝う記念日のことです。
神の創造された記念日は福音を網羅し、イエシュアの業を表し、実際にそれらが地上で起きた、これから起きる預言的祭りです。
神の記念日は単独に1つだけ取り出して祝う性質のものではなく、全部繋がり福音を網羅し、その神の暦の中を人が歩み生きて新しくされた人で成長すると言うレッスンプランを神がデザインされたものなのです。実際に神の伝える実態を生きて学習。
だから、神の記念日の中で神の教えを歩み生きない!と言う選択は、神のレッスンプランを退け、神に何を教えられているのか
分からないままになると言う事でもあるのです。
詩篇1章にある、神の命のサイクルを生きる、日々神のトラーを思い巡し、イエシュア=生ける川の辺りに植わった人=神の教えに根付いて神の時の中を神の言葉を生きる人は、命のサイクルの時を巡り行く中で、時が来たら実り豊かになると書いてあるのです。
神の教えを生きること、生きることはキリスト。人の信仰と行動はマッチして両方なくてはならないのです。信仰はあるけど、神の言葉は生きない!一体どう言う教えなんでしょう?
行のない人の信仰は無意味!と書いてあるでしょう。
思想、空想、哲学は、神のヘブライの世界の教えとは、全く違います。聖書の世界はすべてが行動!生きる!と言う実際に生きる事を教えていて、人が神の性質を生きて初めて成長、実りがあるのです。料理を作るのに材料だけあって、それを調理しないなら、実態が無い、食べられない!と言うのと同じ。画餅と言うでしょう日本でも。食べられない餅を眺めても意味ない。血肉にならない。
実践が無い練習が無い人は何事も上達も成長もしないでしょう。
これは神のデザインされた時=聖別された時を生きる、トラーの中心が詩篇の冒頭から書かれているのです。
シャバットは第七日目、神が最初に聖別を伝えた神の定めの時
です。神が週7日の日の中で、唯一神の特別な聖別された日は
”第七日目”だけであり、第七日目だけに特別な名を神が与えているのです。他の日は聖書の暦ではただの数日で表す日です。
第一日目〜第六日目と呼ばれるだけです。グレゴリオ暦では、
日曜日〜土曜日と付けられていますが、神の暦では数字で表されているものです。
第一日目は創造主が聖別した日、止まる日ではなく、人間が勝手に主の日と決めた日であり、その日は神の教えでは労働日、活動の第一日目であり、神の創造、労働、業をされた第一日目である事が聖書には記されています。
聖書の中にある”主の日”とは神の記念日、レビ記23章と、そして神が歴史の中で特別な事を行われる事を指して使われている
言葉なのです。イエシュアがされた特別な業は、この神の定めの日に全て起きているのです。
主の日とは聖書では日曜日のことではありません。
聖書に書いてある通りに読み、人が作った教えに沿って読む事をやめれば、初めて神が人に伝えている永遠の真実に目が開かれる事が起きるのです。
神の記念日と実際に地上で起きた、これから起きる記念日がぴったり重なる事が聖書には記されています。
第一日目〜第六日目=労働、止まる事をせず、創造の業を神が
されてその中で全ての創造の業が完成した、だから第七日目を
特別な記念日、完成し神が止まられた事を記念して祝う日、
”シャバット”と名付けられた特別な日なのです。
クリスチャンの教えの解説ではこの様に解説しています。
以下にあるこれら全ては、聖書に根拠の無い人が勝手に言っているだけの教え、主張です。
1 聖書のどこにも安息日を礼拝の日としなければならないとは書いてありません。?
では実際に聖書では人にシャバットとはいつでどんな性質で
祝われると書かれていますか?
出エジプト20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。
31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。
31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。
マタイ12:8 人の子は安息日の主である」。
ヘブル4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日<第七日目以外>のことについて語られたはずはない。
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
神が代々と言われたら”ラ ドラタム”=子孫代々に渡り、そして永遠に=”オラム”!と言われたその言葉は歴史の途中で変化しません。人の教えが神の言葉を完全に遮り真実が伝わる妨害をしているのです。
一つ一つ聖書に記されている意味、事実をゆっくり考え続けて
見てください。神の伝える真理だけに留まり続け、考え続けるならば、神が伝える事実は永遠不変であると必ず気が付ける時が訪れます。聖霊が必ず神の言葉の根拠から真実をはっきりくっきり
明らかに教えて証明して下さるからです。
イスラエルと書いてあるのは、代表者、大家族の苗字です。
異邦人の教えはイエシュアを通して同じ様に、同じ神の契約の中に加えられていると言う事実を素通りしているのです。教会と
言うグループと異邦人と言うグループが独立し別物として存在していると言う人の教えを信じているから聖書の事実が見えなくなってしまうのです。
教会と言う言葉は聖書には無い造語!!!その言葉が浸透して使っているから便宜上使っているだけで、それが造語であり翻訳の裏にある本来の言葉の意味を分かって理解してその造語を多くの人は使っていないのです。
その言葉は言語の真実を表していない、紛らわしい翻訳造語であり、異邦人クリスチャングループを指して使っているだけです。神の言葉では異邦人、ユダヤ人別々のグループと言う言葉など
聖書には無いからです。
本来の言葉の意味を全く反映していない造語=教会と言う言葉です。神の家族は最初から1つであり、イエシュアが言われたのは
最初からあるイスラエルの大家族の中に継続的に他の人達、
そして異邦人も加えられて行く!と語っているのです。
カハール、ケヒラ<ヘブライ語>、エクレシア<ギリシャ語>=神の声に応答し呼び出された人々の群れ!!最初から同じ変化無し!これを福音書以降、同じ言葉を教会と言う造語をあてがい、
訳して、タナックで”集会” ”群れ”と言う別の言葉で訳しているから、別物が出現したと勘違いしているのです。
だったら、福音書以降も教会と言う造語など使わず、エクレシア=群れ、集会と同じ言葉で訳すべきなのです。
別物が出現したと言う誤解を解くために。
エペソ2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。
2:19 そこであなたがた=異邦人は、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍=<イスラエルと同じ天の国籍>の者であり、神の家族なのである
この様に明らかな事実が書いてあるのに、ずっと分断した2つの家族、分断した2つの教え、異邦人とユダヤ人とは別の記念日、、ダブルスタンダードがある!と言う人間の思想で聖書を語ってしまっているのです。
神との関係にある根拠はこの”契約書”=モーセの五書であり、そのモーセの五書のタイトル=題目が十の言葉、十戒と訳されているものなのです。人間は神の言葉の柱を取り除く事など出来ません。異邦人も同じ神の契約に加えられた!と書いてあるのです。
どんなに聖書とは違う解説をうまく説明したとしてもそれらは
神の伝える真実になる事は永遠にあり得ません。神の言葉を退ける人は、神の言葉を聞く事から背いているだけなのです。神はずっと同じ永遠不変の教えを人に教え続け語り続けているからです。
続く
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