過越の祭り イエシュアが2000年前に過越の祭りに処刑され昇天した | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトの中に記されている実際の奴隷=エジプトからの脱出の一連の出来事を通して、一人一人個人個人の奴隷状態から

イスラエルの神に贖い出された事実=脱出=過越=イエシュアの贖いの業を教えています。

 

出エジプトしたのは、イスラエルだけではなかったのです。

イスラエルの神の業を見て、神の伝えた事=鴨居に子羊の血を

イスラエルと同じ様に塗った異邦人、エジプト人達は初子の死を免れ、そして一緒にイスラエルとエジプトを脱出したのです。

 

出エジプト=体はエジプトから出た後も、頭脳にまだ割礼がされていない人達は、40年の間神から直接神の言葉を聞いて生きる

荒野へと導かれました。

荒野=ミッドバル、神の言葉=ダバルを聞く場所に連れ出されて

1から新しくされた人を生きる事を教えられたのです。

荒野は砂漠ではないです。荒野には命が眠っています。これは

絵画的言葉、教えです。地形から神の伝える事を教えています。

荒野には、湧き水=オアシスがあり、動物も生息していて、雨が降る時期には植物も芽生えます。面白いことに水が流れた通りにその場所に植物が出て来るのです。谷川の鹿が水を求めてやって来るとは、この荒野のオアシスであり、その鹿の様に私達は生ける水=イエシュア=神の言葉を求めて生きる事が書かれているのです。春から仮庵までは雨が1滴も降らない乾季になり、荒野はあたかも何もない場所に見えます。命が眠る場所。

生ける水が流れると命が芽生えて来る。神の言葉=生ける水を

受けて生きると命が芽生える生き方が出来る。人は神の言葉で

造られて神の口から出る1つ1つの言葉により生きると神が伝えています。

その神の言葉を捨てたら、不具合、不完全、スカスカ、カラカラ状態になってしまいます。他の代替えで潤っている様に感じてもそれはエジプトにあったまやかしと同じなのです。本物ではない。

神の目から見る訓練、神が直接供給し与えたものから生きる訓練

荒野でミシュカン=神の移動式神殿を通して、天から神が下したた神の雲の柱と火の柱に導かれ、そして荒野を着いて来た”岩”水が溢れ出た岩を通して、神の臨在、イエシュアが共に居て、イエシュアの贖い救いの業を常に体験させられ教えられて来たのです。

雲の柱が止まったら止まる。動いたら移動する。100%神が

言う通り、教える通りを学習させらたのです。

それほど430年のエジプト=奴隷として生きた自己像と神の教えを1から学ぶと言う必要があったからです。

 

2000年前の春、神の祭り〜都上りの祭り〜過越の祭りの晩餐をイエシュアが祝われていた記録が福音書とパウロの書簡にも記されています。

 

1コリントの中でパウロが記している内容は、100%モーセの五書の教えです。過越の祭りを祝うのに、コリントのグループの

人々の中に、ズレた思想、行動=パン種が潜んでままで、神の祭りを祝うとはどう言う事なのかの自覚、意味が全く分かってない状態である事が記されています。それをパウロが、あなた方は既に”マッツア”〜要らないものがそぎ落とされた人=イエシュアの完了の業で新しく創造された人になっているのだから、その性質通りを生きて、神の創造された過越の祭りを新しい人の実態からずれないで祝おうと言われたのです。

 

1コリント5: 6あなたがたが誇っているのは、よくない。

わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種=ハメッツをきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたは

パン種の入っていない者=マッツアなのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

 

聖書に書いてある通りを読むと、伝統で見聞きし教えられて来た

教えと聖書に記されている事実が異なる事を発見します。

パウロが祝っていたのは、シャバット、新月、春は過越の祭り=種無しパンを食べる7日間、その中にある新しい命を祝う日=

初穂を捧げる日、そして7週間、7回のシャバットの後に来るシャヴオート=週、ギリシャ語=ペンテコステ=第50という意味の祭りが神が創造された春の祭りなのです。神の聖別された記念日=神が創造された記念日は永遠に変わらないのです。

イエシュアが地上で祝われたのはどの日ですか?レビ記23章に記された神の記念日です。そしてハヌカとプリム。昇天以降も

何も変わらずに同じ神の祭りを祝っていた記録が聖書にははっきりと記されています。

聖書にはローマ西洋宗教、異邦人達が4世紀以降に作った記念日を祝った記録など1つも記されていません。誰もその様な西洋宗教の教えや記念日など知らないからです。

 

聖書には復活祭=イースターと言う名の祭りはありませんし、

クリスマスもローマ法皇も記されていません。ペテロはユダヤ人であり、西洋カトリック宗教のリーダー=教皇になるべくイエシュアから任命されたと誤解する箇所は全くの勘違いです。

マタイ16:18

しかも聖書には教会と言う言葉はありません。それは人が作った

造語で、それを翻訳に活用しているだけで、実際には聖書には

教会と言うグループはありません。

あるのは、エデンの園から同じ、最初から同じ、神の声に呼び出された人々の群れ、それがヘブライ語では、カハール、ケヒラ

又はエダ=証人と訳され、ギリシャ語ではエクレシアと言う言葉に訳されていて、教会と言う言葉はそれらヘブライ語、ギリシャ語を全く反映しない造語です。翻訳とは時にトレイター(本来の意味を反映しない叛逆)になってしまうものです。でもその言葉が

浸透してしまったから、異邦人クリスチャンをさして教会と使われていますが、本当に誤解を招く混乱させる言葉なのです。

しかもカハールやエクレシアと言う言葉を創世記〜マラキまでは集会、群れと訳し、同じ言葉を福音書以降は”教会”と訳しているので、あたかもイエシュアが来られたら別物のグループが出現したと言う錯覚、誤解を与えてしまっているのです。

 

聖書に登場する1世紀の人達も誰一人として復活祭などと言う名前も、その様な祭りも知らないのです。彼らが祝っていたのは、

昇天以降も過越の祭〜種無しパンを食べる3日目にある”初穂”=新しい命を祝っていました。これをタナックを知る人達、聖霊に目が開かれていた人達はこの祝いの日が何を意味するのか知って祝っていたのです。

だから、聖書に登場する人達は復活の命、復活を知っていたと

記されているでしょう。同時にサドカイ派のある人達は復活を

信じないとも書いてあります。アヴラハムもイサクをモリヤ山、

エルサレムの神殿が建てられる場所で屠りなさいと言われた時も

”復活”の命を信じていたのです。どうしてそんな事理解していたのでしょう?タナックに記されている事実=アヴラハムも神から

口頭で同じイエシュアを教えられ、同じ復活の命で新しくされた人をアヴラハムも体験的に内側に聖霊を受けていたからです。

福音はどの時代も同じだからです。

 

イースターと言う名前は、聖書の名前ではない、聖書にはイースター祭はない。イエシュアが復活された事実はある、それを

過越の祭から始まる一連の祝いで最初から教えられているのです。

アングロサクソン人はこの復活を祝う日と決めた日に異教の女神の名を付けました。エオストレ、エスタラ、オスタラ(ドイツ)イストレ、色々なスペルの違いがありますが発音を聞くと出所は同じものだと分かります。夜明けの女神、イギリス、北ヨーロッパで拝まれていた女神(複数)です。春分と関連し、この春分の時期にも異教の神々女神の祭りがあるからです。

バビロンのアレキサンダー ヒスロップは、エオストレとはバビロンの女神、アスタロテから取られたと言っています。

 

聖書に記された神が伝える神が創造された記念日とは何と書かれていますか?

初穂=新しい命を祝う事もそうであり、マッツア=種無しパンを食べる事も復活の命を生きる事を教えているものなのです。

神の祭の中での事は全て復活の命=新しく創造された人の実態が土台であり、新しい人を生きる事を教えているものなのです。

そして復活の命は1日だけ思い出すのではなく、次の春の最後の祭り、シャヴオートまで新しく創造された人の事実を皆で生きる学習をする7週間の強化週間があるのです。

シャバットも神の完了の業から生きる、新しい人を生きる事を

教えているのです。

神はその中でずっと新しくされた人の事実を教えているのです。

神の知恵は人の知恵をはるかに超えているのです。だから神の創造された記念日を代々永遠に祝いなさいと神が言われた意味が

理解出来ると思います。

 

実際に聖書に書いてある内容と神の言葉を実践し生きる時に、

飛び出す絵本の様に様々な事が見えてくる様に神がデザインされているのです。

だから私は以前出エジプトの10の災いや、エジプトを脱出、

葦の海が割れる箇所を読んでも、イエシュアの業と全く繋げる事

も出来なかったし、過越の祭の時にイエシュアが屠られた事も

書いてあるのに、出エジプトの事実と繋げて考える事も全くしてない、出来ない、見えない状態でした。最後の晩餐も過越の晩餐である事も見えないままです。書いてあるのに。過越の晩餐を

過越の祭の意味を教えてもらわず、もちろん祝った事も無いから分からなかったのです。

 

でもシャバットを祝い、新月を祝い、そして春、秋の祭りを祝う事を始めて以降、聖書に記されている色々な事がはっきりと何なのかが見えてくる、神に何を教えられているのか、実体験と共に分かって来る事が分かって来たのです。

 

都上りの祭りなんて言われても何の意味があるのかも見えないかもしれませんが、神ははっきりとしたメッセージをその事で伝えています。1つ神に、1つ家族が、1つ神の家に引き寄せられ

集められる。神の名=実態が現れ出る聖別された場所、エルサレムと神が決めました。そこを中心に世界が1つになる事、

エデンを出てエデンに戻る、修復の事実を教えているのです。

 

2000年前にイエシュアの贖いの血の意味が初めて教えられたのではなく、最初から教えられているのです。

 

イスラエルの神の子らは同じ1つの契約に加えられ、同じ1つの

家族に加えられる家族である事が聖書には記されているのです。

もし2つ別の顔、教えを持つ神像を語るなら、それは聖書に記されたイスラエルの神とは異なります。

最後は1つになる。分裂の教え、イスラエルの分裂した神像、

それらは全部終わり、本来の真実=神が伝える真実に全てが戻る!それが預言されています

 

ゼカリヤ14:8その日、エルサレムから命の水が湧き出で

半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。

9主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる。

 

16エルサレムを攻めたあらゆる国から残りの者が皆、年ごとに上って来て万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。

17地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない。 

18もし、エジプトの家族も上って来なければ、仮庵祭を祝うためにエルサレムに上らなかった諸国の民が、主から受けたと同じ疫病に見舞われることがないと言えようか。 

19これこそ、仮庵祭を祝うために上って来なかったエジプトの受ける罰であり、またすべての国の受ける罰である。 

20その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。 

21エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

<神の臨在がある聖なる場所で、偽物の生き方をし偽物の教えを売る商人はいなくなる。>