過越の祭りに向けて 準備 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今の過越の祭までの時期はイエシュアの最後の重要な1週間の中であり、過越の祭りで処刑される前、2023年もイエシュアがされた天にある贖いの完了の事実を地上で見せた事を永遠に祝い思い出してと言われた過越の祭りが今週水曜日4月5日の日没にやってきます。

神の言葉は完全であり、永遠不変であると神が伝えている通りの声を聞いて信じる人は、神の言葉に応答して、同じく皆この祭りに招かれている事をぜひ知ってください。人の教えや主張に遮られて耳ふさがれないで、神の言葉だけに戻って確認してみて下さい。神は神の言葉を生きる時に共に居てくださり、大いに祝福して下さいます。

繁栄の神学と錯覚しないで下さい。私達の奥底にある願望は、

本来の姿を生きる事、神との本来の究極の親しい関係、顔と顔を見る影がない透明な関係を求めているものです。

神との本来の関係にある事に戻る事は、人のDNAであり、神が

そう人をデザインし造られたからです。

 

主の日、祭の日、神がこの日を造られた、詩篇でも見る皆が集い賛美しているのは全て”神の聖別された記念日”を祝う、祝福感謝

歓喜が記されているのです。祭と聖書で書かれていればそれらは全てレビ記23章に記された神の祭りの事なのです。

 

神がどの時代のどの人種の生まれでも、同じく神の言葉に応答し神の教えを生きる人は同じイスラエルの神の家族であり、神の

契約に加えられ生きる人と神が伝えています。パウロもその事実をエペソ2章で教えています。神に差別区別はない、神は2つの家族、<カハール、エクレシア>と教会と言う別々のグループなど永遠から永遠に作ってなどいないのです。教会などと言う言葉は聖書には無い言葉です。人が作った創作語で、カハール=集会と創世記〜マラキで訳されている同じ言葉を、福音書以降教会と

し、過越=ペサフを、イースターなどと訳していたりするのです。これは翻訳トリックであり正直で正確な翻訳ではありません。

日本人でもユダヤ人でもアメリカ人でもどの国籍でも、イエシュアを信じるなら、その人達は今もこの過越の祭りに呼び出され

共に神と共に祝おうと神から直接招待されています。

 

未来イエシュアが戻られ世界を統治する新しい時代が来た時の

未来預言がはっきりと記されています。エレミヤ31章で語られた全ての人は神のトラー=教え、契約を生きる、再更新された

新しい契約の中身はシナイ山で与えられた神の同じ婚姻契約であり、神の家族は頭脳に割礼があるので、皆神の言葉を理解して生きる時が来ると言う預言です。イエシュアも過越の最後の晩餐で同じ事を言われました。エレミヤ31章、再更新される契約。

ゼカリヤ14:16エルサレムを攻めたあらゆる国から残りの者が皆、年ごとに上って来て万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。

 

仮庵を祝うと書いてあったら、これは一年を締めくくる最後の祭りです。だから神の祭りを祝うとは、春の過越から、そして

シャバットや新月、全部の神の祭りを祝うと言う意味なのです。

もちろん、エルサレムに全員が上れない事もあります。これは古代のイスラエルでも同じ事だったのですが、その場合は家族親族の代表が都上りをして神の祭りを祝うのです。居残りは地元で祝う。

少なくとも各国の代表がエルサレムに来て、神の永遠不変に祝われる記念日を祝う様になる時が来ると預言されています。イギリスの王の戴冠式にも各国の首脳が招かれて祝われるそうですが

未来にエルサレムでの神の祭りに各国の首脳がこぞって参加し

祝う!凄い時が来るのです。

神の言葉を否定する場合には、神の伝えている真実はその人の耳や頭脳には永遠に届きませんが、書いてある通り神の言葉を真実だと信じて受け止める人には聖霊がさらに深い真理を教え続けて下さいます。それは神との究極の親しさに入る秘訣でもあるのです。

ユダヤ人のメシアを信じている人は、どうしてクリスマスや

イースターを祝わないの?と異邦人クリスチャンは考えると思いますが、聖書に記されている、神が創造された神の仰せの記念日はクリスマス、イースターではないからと言うのが単純な理由です。神はそれらの祭りを祝いなさいと仰せにならないからです。

イエシュアが生まれたのは、異邦人=ローマ帝国教が決めた12月25日などと聖書には書いてないし、そしてイエシュアの地上での誕生が強調されないのは、神には始まりも終わりもないからだと思います。

イスラエルの神が代々永遠に祝う祭り、記念日、それが何より

重要なのです。神が言われた事を重要だと思えない、考えられないのは、人の教えに遮られて神の言葉を直接聞いてない

聖書に書いてあるのにその事実通りに神の言葉の事実が見えない盲目に陥っているからです。

 

もし小学校に行って、子供達が先生から、教科書には7と書いてありますが、それを1と読み変えなさいね、永遠と書いてあるけど一時的と考え直しなさいと、書いてはありますが、それは本当はそう言う意味ではないのですよなどと教えられたら、その教師は正しい事を教えてると言うことになりますか?違いますよね。真実を曲げて教える教師には聞いても真実は見えないです。それでは教科書=聖書も意味がない事になります。それと同じく、神が伝えることを無視し、神の言葉を人の教えで変形させるなら、聖書は不要!と言っているのと同じことです。実際異邦人は

神の言葉は不要廃れたと教えているのです。人が作り出した教理を信じて、神の言葉を退けていることは愚かで変だ、神の言葉に反してずれていると気がつけないのは、神の言葉は廃れたと言う人の教えを信じているから、その様に聖書を曲げて斜め読み、

部分読み、自分の都合に合う事にすり替えて読んでも良いと勘違いしているからです。

今はどの日もシャバット=安息日などと言うクリスチャンの教えがありますが、それだったらシャバット=止まる日の意味は消えます。聖別の意味も消えます。聖別とは神の特別な目的のために

取り分けたと言う意味だからです。どれも同じなら全部区別がない事になります。人の教えは神の教えとは完全にずれて違う思想を語っているのです。

聖書を読めば、何が書かれていて、何が書かれていないのは

明らかであり、神が代々永遠に神の子らと共に祝う記念日の

フルスケジュールはレビ記23章に記されています。

1世紀の人達=福音書〜黙示録に登場し記されている人達、イエシュア、弟子達、パウロ、一般のユダヤ人、少数の異邦人、諸外国に住んでいたユダヤ人を中心とする群全てはレビ記23章に記されている神の創造された記念日を祝っていました。

 

約束のメシアが来られた事は、世界へ伝えるべき事実ですが、

1世紀の人達も現代のユダヤ人メシア信者や、聖書の事実を知った異邦人信者達は、神の記念日を祝い、クリスマスと言う祭りをりを通して、キリストの誕生や、イースターと言う祭りで復活の事実を伝えないと言うだけです。

復活の命=新しく創造されている事実は、過越から始まる7日間の種無しパンを食べる真ん中の日に”初穂を祝う”事でイエシュアの贖いの事実を受け取り成長して行く事実を祝っているのです。

神が新しい命を祝う日をその様にデザイン創造されたからです。

 

しかもその復活の命=新しい命を与えられた事実は、その日だけで祝うのではなく、それから7週の間、シャヴオートの祭りまで、皆で思い出す新しくされた人を生きる強化学習週間があるのです。

異邦人クリスチャンの世界では、神の仰せや祭りは廃れた!と

言いますが、神の記念日は丸ごとワンセットで永遠に祝われものであり、シャヴオート=ペンテコステも神の古い教えの記念と

クリスチャンが言うものの中の1つであるに気がついていないと思います。古く廃れた神の教えや神の記念日など神は神の言葉で

紹介などしていません。なんと書いてあるのか。

神の創造された記念日こそ完全なる福音を教える預言的祭り

教育方法である事に人が気が付いていないだけなのです。

ファラオと同じ、神の上に権威となる事をしているからです。

神の言う事を生きるのではなく人の考えで生きる。

代々永遠に祝われるわたしの記念日と神が言われました。

その神の言葉を個人個人がアーメンと受け取るのか、拒否します!と言うのかそれは人間の側の問題なのです。

人がどう反応、行動しようとも、神の言葉は永遠に変わらないのです。

毎週日曜日に教会に行っているクリスチャンでも、日本の事は

よく分かりませんが、欧米では、クリスチャンでも聖書の中に

何が書かれているのかよく知らない人達が大勢います。今や若い世代は教会離れ、そして聖書なども読まない人で溢れています。

理由は、異邦人の世界には原典聖書に書かれている事を飛ばさないで満遍なくずっと繰り返し教え続ける、学び続けると言う聖書を教えるシステムが無いからです。大抵福音書以降だけを読み、

それも抜粋して読むと言う事をします。ある節だけを取り出して暗記したりなど。そこに記されている言葉が全体でしかも、トラーに記されたどんな背景を語っているのかも見えないまま暗記します。

だから”主を喜ぶことはあなたの力です”と歌にもなっている箇所は、この言葉が語られている背景を知らないと全貌が見えて来ないのです。しかも、この言葉は、神の祭り、秋の仮庵の祭りの時に語られているのです。この言葉を正しく理解するには、モーセの五書を知る、ミシュカンの意味を知る、神殿の意味を知らないと喜びの意味も見えて来ません。エズラ、ネヘミヤの全部を読む必要があります。

 

神殿再建が終わり異教の地に居た捕囚の民、ユダヤ人達がエルサレムに戻ります。そして秋の祭り第七の月の時に、モーセの五書をエズラにより読み聞かせられて、自分達に与えられていた祝福を奪われていた、失った生き方をしていた事にユダヤ人達は気が付き、号泣するのです。

それがこの言葉の裏にある事情なのです。

ネヘミヤ8: 2祭司エズラはトラーを会衆の前に持って来た。

そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。 3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、

そのトラーの書に耳を傾けた。

9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、トラーの説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、トラーの言葉を聞いて泣いていた。 10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」 

聖なる日=秋の祭り、ショファーを吹く日です。これは未来の再臨を告げ知られる王の戴冠式を迎える準備でもある日。

そしてこれ以降彼れは仮庵を建て、仮庵の祭りを準備した事が

書かれています。主を喜ぶ事はあなたの力と言う言葉は、捕囚の地から逃れ、そしてエルサレムに戻り神の宮で神の祭りを祝う

喜びはあたなの力の源!と教えているのです。

 

皆朗読されたトラーを理解したので、彼らは神の言葉を理解したのです。神のトラーは異邦人が言う様な呪いの律法ではなく、神の祝福、永遠の約束、そして保護、神の似姿を生きる麗しい生き方を人が出来る様にされている事を彼らが理解して皆泣いたとあります。神の言葉を聞く事が出来ない異教の地に居て、でもエルサレム神の国場所に戻り、神の祭りを祝う喜びを体験するのです。神の言葉通り正しく翻訳され解説され彼らは神の純粋な言葉を理解したと書いてあります。

 

 

続く