神の言葉を変形すると神が伝える真理が伝わらなくなる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ14章の箇所ではパウロは初めからモーセの五書=トラーに書かれた教え=神の言葉に関して、それぞれの人が自分の意見で神の言葉を自由に仕分け、それぞれが考える事を選び実行すれば良いなどと言う話しなどしていません。

 

ここに書いてある日とは、定冠詞の付かない神の創造した記念日ではない、それ以外の普通の日である事はギリシャ語を読んでもはっきりしていますし、パウロがモーセの五書=神の言葉を否定する教えは100%しない!と言う事実からだけ読めば見えます。

パウロが神の教え=トラー=モーセの五書とは違う教えをしていると言う人の思想を通してパウロの書簡を読んでいるので、パウロが伝えている意味さえ書いてある意味通りには見えなくなってしまっているのです。

一般的に異邦人の世界のクリスチャン、聖書教師、聖書の解説者がこの箇所をどう解説しているのでしょう。パウロがこの時代からシャバットを第七日目から日曜日に変更した事が書かれているのだと主張しているのです。

パウロはこの箇所でシャバットや神の記念日、祭りの事など微塵にも考えてないし語ってもいないのです。神殿崩壊前、聖書に

記されている内容は、すべてはエルサレムの神殿中心、そこから

トラー=み言葉が諸外国に伝えられていた、誰一人として神の教えが変更になった、シャバットが日曜日に変更されたなどと考えて実践した記述は1つも無い、誰もそんな実践などしていない、昇天以降もすべての人がレビ記23章に書かれた神の記念日を

祝った記録しか聖書にはないのです。

イグナチオが記した マグネシアンの人達へ, 9.1-2の様に、昇天したのが日曜日なので日曜日がシャバットになったと解説して

いる西洋教父たちが存在しますが、この書簡も2世紀以降に

書かれたものであり聖書が閉じた後に作り出された教えです。

イエシュアが何曜日に昇天しようとも、神の記念日=シャバット 

新月、春、秋の神の祭り、記念日は永遠に変更などない、神が

そう人類に最初から伝えている永遠の事実があるからです。

 

1世紀後半、2世紀、西洋人がヘブライの書、ユダヤ人である

イエシュアが記された書、トラーを曲げた教えを編み出し続けて

それに異邦人が流れて行った結末が、神の教えを大部分捨てて

変えた思想、教え、教理、そして神の記念日を変更した教えです。

西洋人が作った宗教の教えの実践、そして神の仰せ、記念日を生きる祝う事をやめて、西洋宗教が編み出した記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースターと言う聖書に無い教えや記念日を生きる事へ移行した、詰まり名前は救い主=イエシュアであるけれど、その中身がヘブライの聖書=イエシュアが教え実践されていた父の言葉=トラーとは違う教え、記念日、性質の宗教が編み出されそれらが1世紀後半以降異邦人の世界で浸透し始め実践され

今日に至ると言う事が起きているのです。

フランスのあちらこちらに複数あるノートルダム寺院は、”私達のレデイ”と言う意味の名前の聖母崇拝信仰から来るものです。

その中にある偶像の数々や聖人が祀られていると言う事だけでもイスラエルの神の教えとは違うと認識出来ます。すなわちそれ

こそ、オリジナル、アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神ではなく、神の教えとは違う、異教徒思想の要素が混じって

しまった創作西洋宗教だからです。

だからヘブライではなく西洋人が作った西洋宗教と呼ぶのです。

 

様々に誤解されている事、神の創造された記念日が日曜日、

イースター、クリスマスに変更になったと言う事以外にも、

誤解されている事が数々あります。

クリスチャンの世界で行われている月一度の最初の日曜日などに

行われる”聖餐式”=カトリックではユーカリスト、サクラメント=西洋宗教の宗教的儀式、シンボルも、西洋人が変えてしまった神の言葉、教え、儀式なのです。

 

パンをさくと言う箇所を福音書以降で書かれていたら、これは

日曜日にする聖餐式の事だと考えてしまうと思いますが、ユダヤ人の伝統ではシャバットの晩餐で二日分のパンを表すパンがあります。パンを割いて頂く事は、シャバットの晩餐でしますし、

又土曜日の夕暮れシャバットを閉じる時にもします。

 

使徒20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 
”日”と言う言葉はこの中でギリシャ語では無い挿入された言葉です。この箇所で考えられる時期は、過越=種無しパンが終わった後、次の春の最後を締めくくる祭=シャヴオート =ペンテコステまでの穂を数える週が7週間続きますが、過越が終わり、穂を数える7週の間の初めの頃の週、多分これはシャバットが終わった後の話だと思います。シャバットが閉じる土曜日の夜に集まると言う事を今でもします。そして当諸外国に居た人達は土曜日に働く人もいますから、その人たちのために集まると言う事をしていたそうです。
ユダヤ人は毎週シャバット=第七日目に聖餐式をしているのではないのです。なぜならシャバットの晩餐で頂くパンは種無しパンではないからです。
福音書の中に書いてある”過越の祭り”の晩餐でイエシュアが話した内容、そして1コリントの中でパウロが話している内容は、
過越の祭りを祝う上での一人一人の意識に関してです。過越の祭り、晩餐の中で行われるマッツア=種無しパンを食べると言う
意味は”罪、要らないものが削ぎ落とされている事実”イエシュアの贖いの血で罪注がれた実態を得ている通りに相応しい生き方、態度で過越の祭りを祝いなさいと話しているのです。食後に頂く過越の晩餐の儀式の3杯目の杯は、”贖いの杯”と呼ばれるものでありその事実をずらさないで、聖書に書かれているのは、過越の祭りの晩餐の中で行われた事であり、後にカトリックが作り変えた儀式=聖餐式の事では無い事実にはっきり目を開かれて神の
伝える教えを伝えられている意味通りに考える必要があります。
 
ルカ22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに
与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわの血で立てられる新しい契約で

ある。<新しい契約=エレミヤ31章と同じ意味です。多くの

異邦人も加わり神の家族が1つとして同じ契約=シナイ山で与えられた神の契約、命を生きる事です。新しい別の契約では無い、

新しい=ハダシュとは再更新されると言う意味、多くの異邦人も加わる事になる同じシナイ山の契約=父の教え=神の家族の生き方。

聖書では昇天以降、モーセの五書とは違う別の契約など出現していないし、存在もしないし、与えられてもいない。100%全てイエシュアも使徒、パウロも聖書記者はモーセの五書を指して

話している!と言う永遠の事実に気が付かない限り聖書に書かれている意味を曲げ続けて誤解し続けて行きます。>

 

1コリント5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭=過越の祭りをしようではないか。

<種無しパン=マッツアを食べて祝う事をするのは、春の過越の祭りの時です。日本人がお正月にお雑煮を食べて祝う、普段の日にお餅、お雑煮を食べるのとは意味が違う、その違いがあるのです。>

次の11章も引き続き、過越の祭りに関してパウロは話しています。

1コリント11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、

主の晩餐=過越の祭りの晩餐を守ることができないでいる。

<ここに書いてある主の晩餐とは、カトリックの作った月一度の

聖餐式=ユーカリストの事ではないのです。>

 

11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐=過越の祭の

晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。

<この状態が何であるのか?過越の晩餐を祝う人ならはっきり

分かる内容なのです。過越の晩餐は”順序”=セーダーと言う名が

ついた晩餐で、その中で頂く食べ物1つ1つが出エジプト、

子羊の血の贖いに関する聖書の記述を元に奴隷状態=罪の奴隷を

脱出し神の子らとされた事をその晩餐に参加する全員が心1つにして同じ事を考え、同じ時に同じ食べ物を頂きながら、主がされた業について話し合い、祝う晩餐だからです。

今で言えば、一緒に記念日の食事のテーブルを囲みながら、それぞれスマホ片手に別の人とチャットしたり動画やサイトを見ている、お互いに他者を気遣う事もなく、特別な日の祝いの意味も

無視し、何の一致も交わりも無い状態の事です。

ここで書いてあるのは、それぞれが勝手に飲み食いしている状態で、過越の晩餐の意図を全く理解しない状態で勝手に食べて飲んでいるだけ、やっている事が書かれているのです。だから飲み食いするだけなら自分の家ですれば良いでしょうとパウロが言ったのです。過越の祭りを皆で集まり祝う事をしないなら、食べて

飲んでそれぞれ勝手に過ごすなら、意味はないと言う事を忠告している。>

パウロが話しているのはルカに記されたイエシュアの過越の

晩餐でイエシュアが話された事です。

11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、

このように行いなさい」。

11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、

「この杯は、わたしの血による新しい契約である。

飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。<過越の晩餐をする度にとイエシュアが伝えているのです。>

聖書だけに基づけば、神の創造された記念日=祭を祝う事をやめて、上に書かれた内容を理解し実践する事は出来ない事です。

イエシュアが言われた”過越の祭りの晩餐を祝うたびに、主がされた業の意味を皆で思い出して”と言われた遺言が受け取る側で

実践されなければ、イエシュアの言葉が無駄になってしまうのです。神は異邦人に対して、神の記念日を昇天以降捨てる様にと伝えなどしませんでした。そんな事を言い出したのは、1世紀後半以降新しい宗教を作り出した西洋教父達なのです。聖書には1体ユダヤ人と異邦人は1体として元の状態の戻ることが聖書の最初から最後至る所に記されています。両者はお互いがなくては完全にはなれない、神殿=神の家に置かれる金で出来た7つの支柱は1つに繋がり作られているメノーラでもそれが表されているのです。

神の家族は別の教えを生きる分裂、決裂、党派心のある家族ではなく、1つ神に1つ家族として同じ1つの神の言葉=性質、記念日を生きる人達、それが神の家族、カハール=エクレシア=神に

呼び出された人々の群れと聖書には書かれています。

 

神の教えを捨て、人間の教えを取り尊重し実践する事、それは神の仰せではない事は聖書では明らかです。なぜなら神は永遠に祝われるべき”わたしの記念日”レビ記23章に書かれた記念日をそう人に伝え教え続け、未来には世界がレビ記23章に書かれた神の記念日の意味に気が付き祝う日が来る事が預言されている事も、

人の教えに照らし合わせたら神の言葉、預言が全く矛盾し意味のなさないものになってしまうからです。

過越の晩餐で行う儀式は春の過越の祭りの中で行うものです。

種無しパン=マッツアの意味を理解し、出エジプトを回想する。

出エジプト6:6−7

この一連の出来事はイエシュアを通して贖い救われた人がどの国

に生まれ生きても同じ体験をするからです。

罪の奴隷=偽の神々、偽の人生目標、偽の自己像に生きていた

状態から贖われ、本物の主人=創造主にイエシュアの血=子羊の血の贖いを通して繋がって戻った事、これは全ての人に共通の

事実です。それが出エジプトの一連の出来事で表されているものなのです。

 

 

続く