ハヌカの時期に思う | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

12月18日日曜日の日没からハヌカの8日間が始まりました。

日曜日の夜に日本の家族の家を出て次の日の夜、約24時間かかって無事我が家に到着しました。仮庵の祭りの途中、10月18日に家を出てから2ヶ月も日本に滞在してしまいました。

最初は2週間くらいで帰れるだろうと予定していたのが、予定が

全く変更になり、様々な用事を片付ける事になってしまったからです。でもアバのプランされた時ぴったりに日本に行けたと言う

事は大きな感謝でもありました。今回は自分の用事は最低限で

家族の様々な事を一手に引き受けて、何とか整えられてバトンタッチをして帰れる事になりました。

 

3年前と全く同じく2ヶ月の滞在でしたが、今回も色々な事を

教えられた日々を過ごしました。楽しい事が良い事ではなく、

大変な事を通る時こそ、全く知らなかった世界を教えられ、

実際にその中を生きる力を付けるものです。

春の過越の祭までの今の冬の時期が一番厳しい時期、刈り込み〜自分の中にある1つ大きなテーマと向き合うと言う事をさせられる時期でもあります。その問題が表面化するのは、その問題に向き合えるから、そして向き合う必要があるからです。そしてその問題に気がつくのは日常起きる出来事を通して、人間関係を通して、はっきり自分のズレが何で、それがどこから来ているのか?を教えてもらえるものです。

 

シャバット、神の定めの祭りは、福音の要素、新しくされた人を

再所有して生きると言う実態があるからです。聖書にはその連続が書かれているのです。イスラエルの荒野の40年もそうです。聖書に出てくる登場人物の人生を通してもその事を教えているのです。それは神の記念日を神の言葉からその意味を学び実際に

生きる場合にはっきり聖書に書かれている神の記念日の意味が

見えて来ます。神の伝える教えを伝えられている通りに学ぶ時、

実践、行動で学習出来る様に神がデザインされている事に気が

付けます。神の記念日の意味を学ばない、実際に生きないなら、

それはある食べ物を外から眺めただけで、実際に食さないのと

全く同じ事が起きます。どんなものか分からない、どんな味で

食べたら体にどんな効用をもたらすのかも分からない、それと

同じ事だからです。

だから聞くだけの人にならないで、実際に神の教えられている事を行動し生きる人になりなさいと書いてあるのです。

 

ヘブライの神の言葉は100%全て行動に繋がっています。

西洋思想の様に、哲学、思想を語るだけの世界ではない、

全ては生きる!と言うために神が人に伝えているものであり、

生きる行動=礼拝とは同じ意味でヘブライ語では記されているのです。

 

さてハヌカとプリムは、レビ記23章に記された神の定めの時、祭り記念日とは異なる祭りです。

 

レビ記23章に記されている記念日、祭りはイエシュアの業そのものを表す1年に巡る神の子らが祝う記念日です。

 

プリムはエステル記の史実をもとに祝われる様になった祭りです。ユダヤ人前殺戮プランから彼らが救い出された事実を祝うものです。

エステル9:16 王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、

自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを

憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手を

かけなかった。

9:17 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。

9:18 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、

十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。

 9:19 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

9:20 モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、

9:21 アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。

9:22 すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を

贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

9:31 断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。

9:32 エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。

 

一方ハヌカは聖書の中には記されていない歴史の史実です。

ハヌカの祭りの背景になるマカバイ戦争が起きたのは、マラキ書が記された後、そしてイエシュアが1世紀に地上に来られる間の

168ADから141ADの間の出来事なので聖書には記されていませんが、イエシュアがエルサレムの神殿でハヌカ=宮きよめの祭りをしていた記録が唯一ヨハネの10章に記されているものです。

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。

10:23 イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。

 

マカバイ戦争の裏に有った出来事は、歴史の最初から同じ問題

異教の神々を崇拝礼拝する異教徒異邦人達により、イスラエルが

神の教え=トラーから離れ汚れたものを取り入れる。

神殿の祭壇、神の臨在が存在する場所に、豚=汚れた動物の血を

捧げ、神の宮の中に様々な偶像を取り込み、イスラエルの神の宮を汚したのです。

同時に、ユダヤ人達にも神の前に汚れた動物を食べ、異教の神々を拝む様に強要され、権力に屈して迎合するユダヤ人が続出したのです。

この事件の背景にある一番の問題は、神の子らであり、神の性質を生きる代表として選ばれた人達〜大家族の長男達が、率先して

神の教えを捨て、この世の汚れに同調、同化して行った危機です。神の子らは神の聖別を汚す、破る事を生きてはならないからです。地の塩世の光の役割が消滅するからです。それに断固として反対した人たちが、当時のイスラエルを支配していた権威、

セレウコス朝、シリアの王、アンテイオコス4世、エピファネス王に反撃を挑んだ事件です。

 

神の家は、この世のものとは区別された、神の目的通り取り分けられたもの、聖別されたもの、神の家=臨在の中に集い、神の臨在に近づき、神の祭壇に近づき、シャバットや祭りを祝う神の子らは、この世の汚れを身にまといながら神の家の中に入ることが出来ないことは聖書に明らかに記されています。

 

神はこの世のものとそうではないものを最初から区別して人に

教えています。神の性質に造られた神の民は神の性質通りではない生き方、教え、行動、生きる全て=衣食住の全てに渡って神が

伝えた通りのもの以外を取り入れて混じり合い生きてはダメで

あることが聖書の最初から最後まで記されています。

 

これが理解出来ない場合に、救い主だけが伝えられれば、混ぜ物の教え0K、救い主で清められるからと言う様な発想をしてしまいますが、神の子でありながら同時に汚れたものと繋がることが出来ない事実を神が伝えているのです。

 

聖書の最初から記されている問題は、神の性質ではない事に繋がり生きる事です。

神の性質通りではない事、生き方とは何か?と言う内容は、

モーセの五書をしっかり知らないと見えないものなのです。

なぜなら、福音書以降には、神の教えの全ての詳細は記されていない、短い注解でしかないからです。神の教えの1つ1つが記されているものが、モーセの五書であり、それ以降の聖書の全てはモーセの五書を解説するものだからです。

 

この世の流れとは違う事を行動すると言う事は時に勇気がいるものであり、この世に同調する生き方に囲まれる場合誤解されてしまう場合が多々あります。

 

自分の中にある既存の考えを通して人は全ての物事を考えるものですが、自分に教えられた事全てが真実では無いと真実を探る上

で気が付いて行く事があります。

 

権威、教師やこの世の学者と呼ばれる人達、医者などは”間違えたくない”間違えていると言われたくない、人に間違いを指摘されたくない存在のトップだと思います。

 

医者が誤診した場合、素直には認めたくないのは当然であり、

その言い訳や理由づけを考えるのは一般的な傾向だと思います。

教師も自分が教えている事が本当は真実ではないなどと、何か

大きなきっかけがない限り考えもしないし、人や生徒、専門家では無い素人に言われたくもないと考えるのも普通の事です。なぜなら真実ではなくてもそれが真実だと考えてその真実では無い事を伝え、教え続けている自負があるからそれを指摘されたくないものなのです。人は自分が知っている事が正しいと無条件に受け入れているからです。

 

でも人は真実ではない自分の中にある既存の先入観や偏見で

物事を見続ける場合に、実は真実に気がつかないまま不真実を

信じて考えていると言うことになります。だから謙虚に神の言葉だけに戻り学び続け、正しく考え続ける努力が必要なのです。

どんなに自分がそれが真実だと思い、信じていても、真実ではないものは、永遠に不真実、嘘偽り以外の何物でもない、途中で

嘘が真実には変身しないからです。犬が途中で猫に変身する事が

ないのと全く同じ、それが永遠の事実です。

 

同調圧力、長年語り継がれる人の思想=不真実な教えに、それは

違うと発言、発表する事はとても難しい事です。話している内容を相手が理解しない、したくない場合には特に難しいです。

 

でも真実を知る場合、もし真実を語らないなら、特に神の前に

神が伝えた言葉通りを伝えないなら、それは神の内側にある神の

考えている、神が伝える思索、思想を人に伝え様としている事を

遮る事でもあります。

神の伝える事を聞きたいのか?それとも自分に都合の良い事だけを聞いて、神の伝える真実を拒否するのか?それは永遠に個人

個人の問題、選択であるのです。

 

でもイエシュアが”わたしを愛する人はわたしの仰せ=父の教え=トラーに記された神の教えの全てを愛する”と言われました。

愛するとは、ヘブライ語での意味はシナイ山で与えられた契約の教えに記されている神の教えを実際に生きて行動する事を伝えているのです。イエシュアが父の言葉を否定するなどと考えている限り聖書=神の言葉の永遠の真実は見えて来ません。愛と言うとその定義は漠然として、自分定義の愛を考えてしまいますが、神の伝える愛=アハヴァとは、神の教え=モーセの五書に記された神が伝える人間の生き方を生きる!と言うことに全てが集約されているのです。その神の言葉を無視する教えは、イスラエルの神から出たものではないのは神の言葉に照らし合わせれば明らかです。イエシュアが語っているのは100%父の教えのみモーセの五書=トラーに記された教えのみを語っていると言う永遠の事実に目が開かれたら、世間で語られる神の教えが廃れて終わりと言う教えこそが、神の教えを伝える妨害する大きな

つまづき、妨害、障害物である事に気がつけるはずです。

 

ハヌカの祭りは、偽物=異教の神々=汚れた教え=イスラエルの神に属さない、教え生き方に同調する事から完全決別する事を

思い出すものでもあります。そして神を愛するものは神ご自身が

守られる事を思い出す事でもあります。

 

伝統で語られる神殿のメノーラの火を燃やす油が8日間絶えなかったと言う事で、メノーラの火を8日間灯して祝いますが、

ハヌカの一番のテーマは”聖別” 神の子らは神の家、自分自身を聖別=汚れたもの、教えに交わらず、神の聖別に留まり生きると言う事が最大のテーマなのです。今の世の中、汚れたものに取り囲まれ、イエシュアが言われた様にこの世を歩く時、足にチリが

付く、そのチリ、ゴミ汚れを常に意識し、思い出し、自分の中から洗い流し続けないとならないと言う教えはどの時代にも同じ

真理であります。

 

 

続く