わたし=イエシュアを愛するものはわたしの戒め=トラーをガードする | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今週1週間があっと言う間に過ぎてしまいました。

限られた時間の中で皆こなさなければならない仕事や用事がありますが、でも止まると言う事、神が定めた時に止まると言う意味の重要性を神の子ら、契約の中にある人々は自覚して生きる必要があるのは、それは世界へ創造主の教え、真理を伝える役割

天の祭司、メルキゼデクに属するイエシュアの性質である祭司

神の性質を生きて伝える地の塩世の光の役割があるからです。

 

祭司は、自分勝手な思想で自分勝手な考えで神の家=神殿の中に入り、神が言われた事と違うことを行なってはならない事が最初に大きな警告として書かれています。

地上で神の臨在が宿る場所、移動式神殿が造られそれが稼働する

時に起きた事件でも表されています。

 

天から神が降した火、神から直接出たものでは無い、自分の手で

起こした火を祭壇に捧げた事でアロンの息子、ナダブとアビフ。

ナダブは、寛大という名の大祭司の家系の名に相応しいのにそれを生きなかった。アビフも、”わたしの神は彼”と言う名のイエシュア=大祭司、地上で代表する役割を与えられたのに失速。

人は神に与えられた性質をずれて生きる事もしてしまう、その警告でもあるのでしょう。

 

レビ族だけが地上の祭司の役割を与えられている。

その代表の責任は重い。そしてレビ族の祭司の中でアロンの家系のみの男子が大祭司の役割を与えられている。

そして神の子ら一人一人は天の大祭司=瑪瑠奇ゼデクに属する

大祭司=イエシュアの性質、教えを生きて表す祭司=神の宮で

あると異邦人クリスチャンも言います。でもその中身は神が伝える通りを生きて代表として再現し伝える必要があるのです。

 

自分勝手な思想、人が作り出した宗教の教えを反映し生きて人に

伝えてはならないの理由は、永遠の真理であり、アロンの息子の事件を通して教えられている、神の言葉、性質を曲げて他者へ

伝える事への代償、警告からも明らかです。

 

一旦人の教え、伝統で語り継がれた宗教の教えや記念日を全て排除し聖書に書かれた通りのオリジナルに戻れば、神が人に伝える永遠の真実が初めて自分の前に本来の姿を現してくれます。

神の言葉だけが真理、真実を証明反映出来る唯一の手かがり、真実な鏡なのです。神の言葉を曲げたら何が本当なのか分からなくなる迷路に迷い出るのです。

人の教えに照らし合わせて考え続ける限り神が人に伝え教え

知ってほしいと願望する真実は見えてこないのです。

 

その大きな代表は神の言葉や記念日を曲げて別物に変えられたものを生きてしまう代償、神が伝える真実が見えない事です。

 

シャバットはイエシュアそのものを表す、イエシュアの業、神の

性質、完全なる欠けのない状態を教える人の生き方の中心でも

あるのです。注意して聖書を読むと見えてくるはずです。

神は7と言う数字で、神の性質の完全無欠、神の業の完全無欠

神の言葉が変化しない事を人に伝えています

 

歴史の途中で神がもし神の言葉を変えると言うならそれは聖書の

教えではない!と言う事実にいち早く気が付く必要があります。

余りにも人の教えが浸透し、小麦の粉の中に片栗粉が混じって

一体化して区別が出来なくなるのと同じ現象が起きていますが

その成分を調べれば違いが分かるのです。

 

神が伝えている言葉、真実だけに戻れば良いのです。

 

1週間は7日。シャバットは第七日目。神の祭り、春=4つ、

秋=3つ全部で7つの祭りです。

 

春の祭りは、過越〜種無しパンを食べる週=7日間。

次の都上りの祭りのシャヴオート=ペンテコステまで7週間の

”穂を数える週”=7回のシャバットを次の祭りまで祝い続けるこのことを、週の初めと使徒に書いてあるのですが、週の初めとは日曜日の話ではなく、種無しパンからシャブオートまでの週の初めです。日などと言う言葉は言語には入っていない挿入された言葉です。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭=種無しパン、マッツアを食べる週が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

 20:7 週の初めの日<日と言う言葉は挿入された言葉です>に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

聖書に書いてある通り、イエシュアや使徒や他のユダヤ人、

異邦人も含め、神の言葉、神の記念日を神が伝える通りにガードし祝い続ける人にはこんな解説なしで、祭りの内容の詳細を理解

しているのです。だからシャバットが日曜日に変更されたと言う思想は明らかに異邦人、神のトラー=教えを理解しない人達が

勝手に主張し変更したと言う事は容易に理解出来るのです。

しかも昇天以降はそれぞれの考えによって記念日はいつでも自由などと言う発想そのものが異教徒異邦人的非聖書的発想なのです。

 

なぜなら神の言葉や神の性質が変わると言う思想が、イスラエルの神の性質と異なることは神の言葉から明らかだからです。

誰かの言葉でも曲げて人に伝えたらメッセージを託した本人の

意思は正確に他者へ伝えられ反映され紹介されません。

それと同じく神の言葉を書いてある通りに理解し他者へ伝えないならば、それは人の思想が混じったもの、神の意図通りを伝える

天の祭司、地の塩、世の光としての役割を果たしていない事に

なってしまいます。

 

伝統の教えに浸り、個人が考える教えではなく、オリジナル=

神の言葉、神が伝える通りに戻る=軌道修正=悔い改めが必要

です。悔い改めと言うと漠然としてしまいますが、神の言葉通りの真実に戻ると言うこと、これが聖書で最初から最後まで語られている本物の軌道修正の事です。

 

日曜日にシャバットが変更されたと主張したい人の思想を聖書の解説、注解に挿入しているだけなのです。それは神の言葉でも神の伝える教えでも何でも無い別物です。でも神の言葉、祭りの

内容を知り実践しているユダヤ人や異邦人には祭りのスケジュールが分かりますからこの様な誤解=日曜日礼拝の話をしているなどとは決して考えないのです。その様に人の思想を入れるために、聖書に記されていない言葉を挿入すると言うのは完全に反則〜神が警告した神の言葉に付け足ししてはならない!と言う

教えに全く逆らった罪であるのです。神の言葉を曲げる=命に

匹敵する代償があると神が伝えているのです。

 

人の思想=聖書に無い教えや言葉を聖書に挿入してしまう行為は

神の前に許される訳がなく、又はスコッフイールド聖書の様に人の思想=注解を聖書の横に付けてあたかもそれが神の言葉である主張をする事、それらが人の真実を知らせる事を阻む本当の問題の根=神の言葉の真実を覆い隠す妨害であるのです。

 

シャバット、神の記念日は神の中では永遠に変更などされないものです。来るべき世界では全世界が神の記念日を祝う様になる!と預言されています。神が神の言葉を変更、神が記念日を変更したと言うならそれはイスラエルの神が別物の性質に変身したと

言う聖書には無い思想を語っているのです。

 

イエシュア ハマシアは昨日も今日も永遠に変わらない。

神には移りゆく影や変化がない。神の言葉=約束は永遠に変わらない。それらの事実を無視する思想、哲学=宗教が聖書には無い

思想なのです。

 

 

Shabbat Shalom